奈々の これが私の生きる道!

映画や読書のお話、日々のあれこれを気ままに綴っています

小説「真夏の死」三島由紀夫

2014-08-31 05:43:08 | 読書
 夏にふさわしいものを読みたいと思っていました。
 すると、三島由紀夫の短編小説「真夏の死」を見つけました。
 私はこの小説を何の予備知識もなしに読んだのですが、まず思ったのは、三島由紀夫が結婚して、二人の子供が小さかった頃に書いたのではないかという事でした。
 というのも、この小説には、二人の子供をなくした夫婦の顛末が書かれていたからです。
 妻や子供の死を書くことで、家族愛を強固にしたり、自分にとっての家族について考えてみたかったのではないだろうか。

 ところが、調べてみると、27歳の独身時代、世界一周の旅から帰った直後の1953年2月に発表された事が分かりました。
 
 三島由紀夫は、1951年12月25日に、ある大手新聞社の特別通信員として、旅客船に乗り、ハワイ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、フロリダ、マイアミ、サン・ファン、リオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロ、ジュネーブ、パリ、ロンドン、アテネ、ローマを旅して、翌1952年5月に帰国したそうです。
 三島由紀夫は、その世界一周旅行中に、「太陽」「肉体」「官能」を発見し、以後の作家生活に多大な影響を及ぼしたと言われています。
 三島由紀夫が、世界一周からの帰国直後に書いた有名な作品では「潮騒」があります。

 もしかしたら、三島由紀夫はその時、異性である女性に関心が強くなり、「潮騒」や「真夏の死」を書いたのではないでしょうか。
 つまり、「潮騒」では、それまで男性経験のない若い女性を、「真夏の死」では妻として、母としての女性を表現したかったのではないのか。
 そして、この「真夏の死」は、「潮騒」よりも、三島由紀夫の女性への願望や、本質がより鋭く捉えられているように思えます。 
 それを、実際に伊豆で起きた悲惨な事件をもとに、生命の起源である海と女性との親密な関係まで描こうとしたのではなかったのか。
 それが、病死でも、交通事故による死でもなく、海難事故による死を選ばなければならなかった最大の理由なのでは?
 
 私がそう思った理由のひとつに、詩人の三好達治の「郷愁」という詩がありました。

 
 海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がいる。

 
 そして、母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。

 

 
 
 娘、妻、母と、女性は遷り変り、様々な顔を覗かせますが、生命を宿り、か弱いながらも強くなろうとする女性の神秘と意志に感動し、女性の完成された姿として、三島由紀夫はこの小説を書いたのではなかったのか?


 そして、ボオドレールの「人口楽園」の一節、「夏の豪華な真盛の間には、われらはより深く死に動かされる」を冒頭に引用することで、生と死の関係性を、明確に現したかったのではないでしょうか?



 この小説は、ある夏の日、伊豆半島の南端に近いA海岸に、6歳の清雄と、5歳の啓子と、3歳の克雄の3人の子供と、夫の妹の安江とで、遊びに来ていた生田朝子(ともこ)を襲った悲劇から始まります。
 朝子が、永楽荘で、午睡をしていた時、安江に連れられ、海岸で遊んでいた清雄と、啓子は、海に流され溺死してしまうのです。
 安江は驚き、心臓発作で、そのまま亡くなってしまいます。
 朝子と、夫の勝は悲嘆に暮れ、一人残された克雄を溺愛するようになります。
 そして、朝子は、時間の経過と共に、二人の子供を失った悲しみが薄らいでいくのですが、その忘却と薄情さに罪悪感を覚え始めるのです。
 朝子は諦念がいかに死者に対する冒涜であるかを感じ、努めて悲劇を感じようとするのです。
 自分たちは生きていて、彼らは死んでいる。
 それに、朝子は悪事を働いている気がしてならず、生きることの残酷さを痛感してやまないのです。 
 そうして、無為な日々を、夫とともに送るのですが、次第に受け入れられるようになり、やがて朝子は懐妊し、新たな生命の誕生を一家で喜ぶのです。
 しかし、事件が起きて、2年後、女児、桃子が生まれた翌年の夏に、朝子は夫に、あのA海岸に行ってみたいと言い出すのです。
 夫は、ようやく心の傷が癒えた矢先であり、始めは悲しみの現場に赴くのを拒むのですが、三度、朝子に懇願されたのに、何かあると感じ、再び、訪れる決心をするのです。
 
 ここからは、晩夏の情景がよく現されている三島由紀夫の「真夏の死」の原文をそのまま書くことにします。


 

 朝子は桃子を抱いてついて来る。四人は庭の生垣の門から松林の中へ出た。海が見え、このあたりの磯の上を、足早に波が駆けて来て、かがやいてひろがるのが見える。
 築山をめぐって浜へ出ることのできる干潮の時刻である。勝は克雄の手を引いて、熱い砂の上を宿の下駄で歩いた。
 浜の人出は少ない。ビーチパラソルが一つも見られない。築山の下を抜けると、すでにそこは海水浴場の一角であるが、浜を見わたして二十人と見られない。
 四人は波打ち際に立ち止まった。
 沖には今日も夥しい夏雲がある。雲は雲の上に累積している。これほどの重い光に満ちた荘厳な質量が、空中に浮かんでいるのが異様に思われる。その上部の青い空には、箒で掃いたような軽やかな雲が闊達に延び、水平線上にわだかまっているこの鬱積した雲を見
下ろしている。下部の積雲は何ものかに耐えている。光と影の過剰を形態で覆い、いわば暗い不定形な情慾を明るい音楽の建築的な意志でもって引き締めているように思われる。
 海はその雲の真下から、こちらへ向かって、ほとんど偏在している。海は陸地よりもはるかに普遍的で、入江も海をとらえているという印象を与えない。ことにここの湾口はひろいので、海が正面からすべてを犯しているように見えるのである。
 波がもちあがる。崩れる。その轟きは、夏の日光の苛烈な静寂と同じものである。それはほとんど音ではない。耳をつんざく沈黙とでも言うべきである。そして四人の足許には、波の叙情的な変身、波とは別のもの、波の軽やかな自嘲ともいうべき、名残の漣が寄せては退いている。
 勝はかたわらの朝子を見た。
 朝子はじっと海を見ている。髪は海風になびき、強い太陽光線にひるんでいるけはいもない。目は潤みを帯びて、ほとんど凛々しく見える。口は頑なに結ばれている。その腕には小さな麦藁帽子をかぶった一歳の桃子を擁している。
 勝はこういう妻の横顔を何度か見たことがあるように思った。あの事件があって以来、妻は時々放心しているようなこんな表情をする。それは待っている表情である。何事かを待っている表情である。
「お前は一体何を待っているのだい」
 勝はそう気軽に訊こうと思った。しかしその言葉が口から出ない。その瞬間、訊かないでも、妻が何を待っているか、彼にはわかるような気がしたのである。
 勝は悚然として、つないでいた克雄の手を強く握った。

 
 













映画「稲村ジェーン」

2014-08-26 12:29:48 | 映画・テレビ
 8月もあと残りわずかとなりましたが、今回は夏にふさわしいようなお話や、映画をご紹

介したいと思います。

 早速ですが、あなたに質問があります。 

 夏になると、あなたはどこに行きたいですか?

 こう、質問されたら、多くの人は、「海~♪」と答えるに違いありません。

 そういう私自身、何の疑問もなく、そう答えると思います。

 ところが、最近、そうじゃないと答える人達がいるんじゃないかと気づいたのです。

 それは、栃木県、群馬県、埼玉県、山梨県、長野県、岐阜県、滋賀県、奈良県の海にまっ

たく面してない8つの県に住んでる人達です。

 それらの県の人達にとって、海まで行くには、かなり遠いので、海以外の場所に行く人が

多いような気がしてならないのです。
 一例をあげれば、山とか川とかです。
 たとえば、群馬県の人は、群馬県一の有名人、国定忠治みたいな渡世人の格好をして、赤

城山に登ったりしているのでは?
 そして、見事、山頂にたどり着いたら、国定忠治よろしく「赤城の山も、今宵限りか、か

わいい子分のてめえ達とも別れ別れになる旅出だ~」と、たんかを切ったりしてるのかも?

 ついでに、東海林太郎さんの名曲「名月赤城山」を直立不動の姿勢で歌ったりしてるのか

も知れません。

 ♪男心に 男が惚れて 意気がとけ合う 赤城山・・・


 岐阜県の人の場合は、桃太郎伝説がある県にふさわしく、鬼ヶ島のモデルと言われる可児

市塩字中島の可児川にある中洲に、レンタルしてきた犬・キジ・猿を引き連れて、テレビ番

組の「桃太郎侍」の名台詞、「ひとつ、この世の生き血をすすり、ふたつ、不埒な悪行三昧

、みっつ、この世の醜い鬼を 退治てくれよう、桃太郎侍」と、大声で叫んだりしてるのかも



 これは、すごくかっこいいと思います♪


 だったら、滋賀県の場合は?

 私は、滋賀県の人は、海を見たことさえない人が多いような気がするのです。
 

 「てやんでえ、べらぼうめえ、オイラこう見えても、ちゃきちゃきの琵琶湖っ子よ。
 こちらにぁ、日本一大きな湖、琵琶湖があるんだ。それなのに海になんか、ちゃんちゃらおかしくって、行けるかってえんだよ。」とか言ってたりして♪
 
 そして、国歌は「君が代」でなく、「琵琶湖周航の歌」だと言い張ってる人が多いような

気がするのです♪

 
こうしてみると、夏だからと言って、海に行かなくても、いろんな楽しみ方があるかもです

ね♪

 
 でも、一般的に、夏といえば、海に行きたい人が、断然、多いですよね。

 浜辺で、遊んだり、肌を焼いたり、泳いだりとかしてね♪

 だけど、私は京都府に住んでる人は、一風変わった海の楽しみ方をしている気がしてなら

ないのです。
 なぜなら京都府には、舞鶴港という港があるからです。

 舞鶴港は終戦直後、多くの引揚船で賑わった港であり、涙なしでは聴けない「岸壁のママ

」に登場する港としても有名です。
 だから、京都府に住んでるママ達は、母性愛を育むために、子供が生まれると、舞鶴港近

くの岸壁で、「岸壁のママ」を熱唱する姿が、今も見られるのではないでしょうか?

 ♪ママは来ました 今日も来た この岸壁に 今日も来た とどかぬ願いと知りながら 

もしやもしやに ひかされて 

 
 うっ、とっても感動的・・・(涙)


 それでは、私の住んでる宮崎はどうでしょう?

 実は、宮崎は日本有数のサーフィンのメッカなんです。

 それというのも、サーフィンするのに適した大きな波が打ち寄せる遠浅の海岸が、あちこ

ちに点在しているからなのです。

 なので、その波を求めて、サーフィンしに、全国からサーファーが訪れているのです。

 なかには、宮崎の波に恋して、引っ越してくる人までいるとか。

 そんなサーフィンのメッカですから、私の周りにも、サーフィンをしている人が何人もい

ます。
 彼らのほとんどは、大抵、日に焼けた肌をしていて、突き抜けたような明るさがあり、笑

うと、何ともいえない爽やかさを感じさせる人が多いです。


 はっきり言って、すごく印象いいです♪

 
 宮崎の夏は、サーフィン!


 これで、決まりです♪


 そして、夏に聴く音楽といえば、桑田佳祐さん率いるサザンですよね♪

 実は、サザンには、松田弘さんと共に、元メンバーの大森隆志さんのお二人の宮崎県出身

の方がいらっしゃいます。

 サザンがデビュー仕立ての頃は、松田弘さんと大森隆志さんの親御さん達、年配の方ばか

りで、サザンを応援する会まで、宮崎にはあったのですよ♪

 そんな訳で、私も10代の頃から、サザンを聴いていました。
 でも、よく聴くようになったのは、独身だった頃、付き合っていた元カレが、サザンが好

きだったからです。

 その元カレは、歌うのも得意で、カラオケでも、サザンの曲をよく歌っていました。 

 だけど、サザン以外にも、いろんなミュージシャンの曲を、私のためだけに歌ってくれて

いたのです♪

 元カレが、もっとも得意としたのは、バラードだったのですが、それだけでもカラオケ好

きの人は、元カレがいかに歌うのが上手かったのかがわかるようでしょう? 

 たとえば、ハウンド・ドッグの「涙のBirthday」をよく歌ってくれました。
 元カレは、ハウンド・ドッグのライブのビデオも見せてくれ、「涙のBirthday」を大友康

平さんが歌う直前、演出のために使った火花で、目をやけどしながら、この曲を歌ったんだ

と教えてくれたりしました。 
 

 久保田利伸さんの「missing」もよく歌ってくれました。

 ♪言葉に出来るなら 少しはましさ 

 互いの胸の中は 手に取れるほどなのに

 震える瞳が語りかけてた

 出会いがもっと早ければと

 I love you 叶わないものならば

 いっそ忘れたいのに 忘れられないすべてが

 I miss you 許されることならば

 抱きしめていたいのさ 

 光の午後も 星の夜も Baby


 
  私は、元カレのその歌声に、うっとりしながら聴き入ったものでした・・・


 あ、だったら、どうして元カレと別れたのか知りたいですか?

 実は、その元カレとはドロドロの愛憎劇が勃発して、身の毛もよだつほどの修羅場があっ

たんです。(苦笑)

 正直、あの頃、私はかなり元カレを恨んでいました。
 でも、今では、南の島をはじめ、いろんなところに連れてってくれたり、いろんな経験を

させてくれたので、感謝の気持ちの方が強くなりました。
 それに、その元カレは私のために数百万円は使ったはずなので、恨んでばかりいないで、

少しは感謝しなくちゃ悪いですよね♪
 

 あら?
 なんで、こんな話になったんでしょうか???(苦笑)

 そうそう、サザンでした!

 そのサザンの桑田佳祐さんが、サーフィンを扱った映画「稲村ジェーン」を作ってるんで

す。
 

この映画は、約31億円の大ヒットを記録し、主演の加勢大周さんは一躍人気者になりま

した。
 加勢大周さんは、その後、元所属事務所と揉めて、新・加勢大周さんとの騒動が持ち上が

ったのでも有名になりました。(笑)
 
しかし、私はこの映画をただの一度も観たことがなかったんです。
 
 いいえ、観ようと思っていた矢先、ビートたけしさんの批判的な文章を読み、急に観る気

が失せてしまったのです。

 それには、この映画がけちょんけちょんにけなされていて、一つだけいいところをあげれ

ば、「真夏の果実」が流れるエンド・タイトルだけで、あとは観る気もしないと書いて

あったのです。
 
 それに対し、桑田佳祐さんは、「つまらないというのは、感性が足りないから。たけしさ

んは若者の気持ちがわかっていない」と反論したそうです。 
 
 そういう事があったからか分かりませんが、この映画はビデオやレーザーディスクにはな

りましたが、DVDやブルーレイには未だになっていないのです。

 ビートたけしさんに批判されるまで、桑田佳祐さんは次の映画を作る気満々だったのに、

結局、作らず終いになってしまいました・・・

 そこで、私なりに真実を確かめるために観てみる事にしました。

 幸い、今もビデオが沢山ある行きつけのレンタル屋さんに、「稲村ジェーン」のビデオが

あったんです。



 「稲村ジェーン」とは、20年に一度、稲村に訪れるビッグウェーブのことで、昭和40

年代の始め、そのビッグウェーブに敢然と、挑んだ3人の若者がいたそうです。

 それから20年後、骨董屋でバイトしているヒロシ(加勢大周)と、ラテンバンドのリー

ダーのマサシ(金山一彦)は取り立てを業務とするチンピラのカッチャン(的場浩司)に追

われていました。
しかし、基本的に二人は退屈な日々を送っていて、そんなある日、不思議な魅力を持つ波子

と出会い、それまでの日常から、新たな何かが始まる予感を感じるのです。
  
 そして、ビーナスのマスター(伊武雅刀)によって、20年前の伝説のサーファーの話を

聞かされるのです。
 実は、病床にあるヒロシのバイト先の主人(草刈正雄)こそ、20年前の伝説のサーファ

ー3人のうちの1人だったのです。
 彼ら3人は仲の良い友達同士だったのですが、みな1人の女性が好きになってしまいまし

た。
 しかし、彼女は海に溺れて、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。

 それは、遠い遠い昔の出来事で、今さら考えても仕方のない事だったのです・・・


 だけど、その年、伝説のサーファーが挑んだ20年に一度のビッグウェーブが稲村に台風

に乗じて、やって来たのです。 

 その時、ヒロシは今までにない不思議な感動に襲われ、居ても立ってもいられなくなるの

です。

 そして・・・


 ねぇ、とっても、素敵そうなストーリーでしょう?

 ところが、これがコメディっぽく作られていて、3分に一度は笑えてしまうのです。



 しかも、ホラーあり、ミステリーあり、ラブロマンスあり、なんと竜まで登場する特撮まであって、これでも

かこれでもかというくらい出血大サービスの連続なんです。(笑)

 でも、不思議ですよね?
 だったら、どうしてビートたけしさんは、この映画を貶したのでしょう?

 それは、もしかしたらマジメな場面でも、コメディにしてしまって、肩すかしを食らわさ

れてしまうところとか、蛇足と思えるシーンがあったり、画面がゴチャゴチャしていて、雑

多な印象を与えてしまう嫌いがあるところかも?

 それに、笑いのセンスが合うかとか、若者の感性をどれだけ感じ取れるかも、この映画の

評価を二分するように思えます。

 だけど、根っからの悪人は1人も登場しないですし、みな愛すべき人ばかりで、3分に一

度は笑える作りになっていますので、最後まで飽きずに観ることが出来、ワタクシ的にはオ

ッケーな映画でした♪

 こんなに面白くて素敵な映画なのに、なぜDVDにも、ブルーレイにもしないのかしら?

 これって、あまりにも、もったいないんじゃありません?


 桑田佳祐さんの別の才能や、これでもかこれでもかという、すごいサービス精神がうかが

える「稲村ジェーン」、もう一度、見なおしてもいいように思います♪








漫画「男おいどん」松本零士

2014-08-17 08:09:50 | 読書
 お盆、とうとう過ぎちゃいましたね。
 お盆休みは、今日までという方もいらっしゃるかも知れませんが、どう過ごされたでしょうか。
 今回は、今年の4月から福岡県北九州市の大学で学んでいる次男について書きたいと思います。
 
 実は私、ある不安を持っているんです。
 
 勉強が難しすぎて、ついていくのが大変じゃないかとか、そういうんじゃないんです。

 もちろん、それも心配ではあるんですが、もっと心配なことがあるんです。

 それは、言葉の問題なんです。

 日本には方言というものがありますが、北九州市にも、北九州弁があるらしいのです。

 私の息子が、長い間、北九州市で暮らしていたら、当然、北九州弁をしゃべるようになると思うのです。

 すると、こちらに帰ってきても、意味不明な北九州弁をしゃべって、意思の疎通が出来なくなる恐れが出てきますよね?

 
 それって、親子にとって、すごい悲劇だと思うんです。

 だからといって、息子に北九州弁を覚えるなとは言えないですよね?

 もし、みんなが北九州弁をしゃべってる中で、一人だけ違う言葉をしゃべってたら、どうなるでしょう?

 きっと、同調性がないと言われ、仲間はずれにされてしまうに違いありません。

 そうなると、大学生活までが楽しくなくなり、大学を辞めてしまうかも? 

 それだけは、親として阻止せねばなりません。

 だったら、答えはひとつ、私も北九州弁を覚えればいいんです!

 ああ、なんだか、私、ルナ先生になった気分・・・



 私、どんな恥ずかしいことでも、頑張っちゃうもん。



 北九州弁は「ばってん」とか、語尾に「・・・たい」とか「・・・ばい」を付けるのは知っているのですが、ほかにどういうものがあるんでしょう?

 調べたら、こういうのがありました。


 いごきなさんな

 なん、いさっとんか

 いっしょくたにせんどいて

 いっちょん、わかっとらん

 あの人に、うてあいなさんな

 雨降っておうじょうしたわ

 誰かおらびよるよ

 誰かおんなさると?

 かつがつ合格やった

 かったりばんこに乗るよ

 うちもかてて

 500円がとちょうだい

 あっこ、かべちょろがはっとぅ

 がめたらいけんよ

 リュックをからう

 きさんに言っとんやろが

 ぎちぎちでようはいらん

 とうきび3本きびって

 そげなぎょうらしかこつすんな

 このぐうたらもんが!

 ぐらぐらするっちゃ

 おまえくらすぞ

 そう言いよるけ行かん

 けっぱる気か

 こちょばいけんやめて

 100円こまめて

 かいちゃろか?

 そんなことしなさんな

 おまえら しゃーしいぞ

 しゃっちが着いて来る

 勉強しよる?

 あんた すかん

 そんなんせがいなさんな

 そうとう好きっちゃ

 ズボンがぞろびいとるぞ

 いやぁ、たまげた~

 こらたまらんわ

 手がたわん

 何ち言いよると?

 そーっちゃ

 もう、ちゃがんちゃがんや

 ちょーらんよ

 釣り銭ちょろまかしたやろ?

 明日は雨っち

 目~、つむっとってぇ

 てれっとしとらんで

 どがしこ言うてもわからん

 はよどかんね

 なしか?

 なんかなしそげんおもうたけ

 よ~久しぶり!なんしよん

 ひっしもっしがんばりぃ
 

 

 なんとな~く、わかるようなわからないような?

 だけど、どうにかして、楽しく北九州弁を覚える方法ってないのでしょうか?
 
 そう考えていたら、九州が生んだ偉大な漫画家、松本零士先生の「男おいどん」が思い浮かんだのです。


 この「男おいどん」は、「元祖大四畳半大物語」という映画にもなり、松本零士先生ご自身が宣伝のためにご出演されたテレビ番組を、私は偶然、観ていたのです。


 それによると、東京で、昼間働いて、夜間学校に通う下宿住まいの大山昇太が主人公で、その彼が北九州弁丸出しだったのです。

ね?これを読めば、一人暮らししながら大学に通う息子の役に立つことまで書いてあるかもしれないじゃないですか!?

 

 「男おいどん」は松本零士先生の自伝的要素がたぶんに含まれていて、事実がかなり描かれてあるのだとか。

 例えば、大山昇太といえば、サルマタですが、松本零士先生自身、愛用されてて、男子たるものブリーフなんか履いちゃダメだと仰っていました。

 そう言われると、私もブリーフは苦手だなぁ・・

 だって、ブリーフだと、ズボンを脱いだ時、モッコリがわかりやすいもの・・・(真っ赤)

 それでね、そのサルマタにサルマタケという茸が生えるのも本当だそうです。
 先生いわく、栄養価が高くて、とっても美味しかったと仰っていました。

 本当かしら?

 私、そう言われても進んで食べたいとは思いませ~ん!

 
 あと、大山昇太はよくいんきんたむしという病気になるらしく、松本零士先生は、いんきんたむしは、男が大人になるための大切な通過儀礼だと仰っていました。

 それって、ご存知でした?


 漫画の方には「大ロマン大いんきんたむし」というお話まで、松本零士先生は描かれています。

 いんきんたむしって、男のロマンなんですか?

 

 もしかしたら、いんきんたむしは、女性が初潮を迎えるのに近いのかも?

 だったら、男性もいんきんたむしになったら、お赤飯食べてお祝いするのかしら?


 聞いたことありません・・・

 
 ところで、私がこの漫画を読んで、めちゃめちゃびっくりしたのは、解説文を書かれているちばてつや先生の文章でした。

 お二人が初めて出会った時、松本零士先生は19歳、ちばてつや先生は18歳だったそうです。
 その時からお二人は仲良くなり、松本零士先生がまだ独身だった頃、後の奥様、牧美也子先生と3人で、箱根や日光とか、あちこちによく一緒に旅行に行かれたそうです。
 そんなある日、牧美也子先生がお風呂に入ってるところを、ヌードを見たさに松本零士先生と、ちばてつや先生は覗こうとしたのだとか。

 いいえ、松本零士先生はどうでもいいんです。

 あの少女漫画の傑作「1・2・3と4・5・ロク」や「テレビ天使」で、私を号泣させ、漫画界随一の良心として、私がお慕いしているちばてつや先生が、牧美也子先生のヌードを見たさにお風呂場を覗こうとしたのですよ!

 
 ちばてつや先生がオオカミだったなんて!


 もう、私、男なんか信じない!


 うそです。

 ちばてつや先生、私でよければ、どうぞお待ちしてます~♪



 それはともかく「男おいどん」を読んで、ふと思ったのは、なぜ松本零士先生はこんな漫画を描かれたのかという事でした。

 自伝的な要素がかなりあるって、松本零士先生はどんな青春時代を送られたのでしょう?

 松本零士先生は1938年に福岡県久留米市で生まれ、父親は陸軍航空隊の所属で、テスト・パイロットとして軍用機の生産工場があった兵庫県明石市に家族で引っ越したそうです。
 戦後に北九州市に移住して、53年、高校1年の時に投稿した「蜜蜂の冒険」が学童社の「漫画少年」長編漫画新人王を受賞し、漫画家としてデビューを果たしたものの暮らしは貧しく、高校の学費は漫画の原稿料で賄ったそうです。
 そして、高校卒業後、漫画家としての成功を夢見て上京されたのですが、二度と帰れない覚悟で、何もかも質に入れ、片道切符で画材だけを持ち夜汽車に乗られたとか。
 最初は、少女漫画を描かれ、のちに少年漫画に移り、71年に「男おいどん」を発表して、ようやくヒットに恵まれる。

 これで、松本零士先生が、この漫画を描いた訳がわかるような気がしますよね?

 おそらく、「男おいどん」は、若い読者に、どんなに苦境にあっても負けないで、自分の夢を信じて、ぜひ叶えてほしいという熱い思いを、松本零士先生ご自身の体験をもとに描かれたのでしょうね。


 さすが、九州が生んだ偉大な漫画家、松本零士先生ですね。


 この「男おいどん」で、当初の目的だった、北九州弁もばっちりかな?(笑) 


 でもでも、素晴らしい作品に間違いないです!


 ぜひ、息子にも読ませたいと思います♪








   


 









 





 








 







今日は、長崎原爆の日です

2014-08-09 21:22:54 | Weblog
 
 ちちをかえせ

 ははをかえせ

 としよりをかえせ

 こどもをかえせ

 わたしをかえせ

 わたしにつながるにんげんをかえせ

 にんげんの

 にんげんのよのあるかぎり

 くずれぬ へいわを 

 へいわをかえせ

 

 「原爆詩集」より



 これほど、深い悲しみと

 怒りと、絶望と

 平和への願いを書いた詩を

 私は知らない






   

映画「異人たちとの夏」今年のお盆は・・・

2014-08-03 18:24:48 | 映画・テレビ
 

 ここ、数ヶ月、私は自宅に長い間、眠っていた8ミリのテープを、ハードディスクに移す作業をしていました。
 
 それらは、約20年ほど前のもので、なかにはカビが生えているのとか、再生するとすぐにテープが切れてしまうのもあり、なかなか困難な作業でした。 
 
 それでも、なんとかダビングを終え、つい先日、ようやく4時間近くに編集して、ブルーレイに収めました。
 
 私が、それをしたいと思ったのは、それらのテープに、亡き父と母の姿が映っていたのが一番の理由でした。 

  しかし、それらの映像を観て気づいたのは、両親とともに一番下の妹がよく映っていたことです。

 その訳は、家族の様子はイベントでもないと撮っていなくて、当時、一番下の妹だけ、家族と離れて暮らしていたので、たまに帰省すると撮っていたようです。

 その映像には、結婚を間近に控えた妹と、母と私とで、宮崎市内で開催されたフラワーフェスタに行ったり、霞神社に参拝した時の様子や、妹の結納、あるいは生まれたばかりの姪の姿や、お宮参りした時のこと、そして1歳くらいの孫娘をあやす両親の姿が映っていました。 
  
 それらの映像には、家族みなで、妹の幸せを喜んでいる様子が、ひしひしと伝わってくるようでした。

 実は、その当時、一番下の妹は白血病を克服したばかりで、一時は明日をも知れない命と、家族みなで悲嘆に暮れた日もあり、それだけに妹が掴んだ幸せが、ひとしお嬉しかったに違いありません。


 しかし、それも束の間、それから程なくして、父は不慮の事故により、突然、この世を去ってしまったのです。

 その現実はとても辛くて悲しく、まるで悪い夢でも見ているようでした・・・


 もしかしたら、私が家族のそうした様子を映した映像を、長い間、観ずに、そのままにしておいたのは、その辛さが蘇ってくるのを恐れていたのかも知れません・・・
 

 でも、今年の春、母も亡くなり、私達、3人の子供を大切に育ててくれた両親の姿を、しっかり記憶しておかなければという思いが強くなり、ハードディスクにダビングする作業をはじめたのです。

 その8ミリに映っている両親は、まだ50代の若さで、とても快活で、優しい眼差しに満ちていました。

 それらの映像を観て、私は何度も涙がこみ上げてくるのを抑えられませんでした・・・

 
 ところが、そうしてダビングを続けているうちに、「異人たちとの夏」という映画がふと蘇り、もう一度、観てみたくなったのです。

 その映画は、原作が山田太一さん、脚本が市川森一さんで、大林宣彦さんが監督をされています。

主人公は40歳のテレビドラマの脚本家で、離婚したばかりで、一人でマンションに住んでいます。
 
 彼は、なかば妻に愛想を尽かした形で別れたのですが、仕事仲間の男性に、元妻と付き合いたいと告げられ、驚くのです。

 そこで、彼は悩み始めるのです。

 もしかしたら、自分は人に愛される資格のない人間かも知れない・・・

 そうしたある日、少年の頃に、両親と住んでいた浅草をふと訪れるのです。

 父親は寿司職人で、彼が12歳の時、両親とも交通事故で亡くなっていたのです。

 ところが、見世物小屋で、手品を観ていると、前の席に死んだはずの父親が座っていて、家に来ないかと声をかけられるのです。

 彼が不思議に思いながら、後をついていくと、そこには亡くなった当時の若くて綺麗な母親がいて、喜んで迎えてくれたのです。

 そして、「お腹すいたでしょう?」と言って、手料理をせっせと作って、食べさせてくれるのです。

 彼は、その優しさに「ずっと、会いたかったんだ・・・」と、涙がこみあげてくるのです。

 
 そうして、彼はその日から、何度も両親に会いに行くようになるのです。

 ところが、会うたびに、なぜか彼はみるみる衰弱していき、付き合いはじめたばかりの同じマンションの3階に住む女性に、「もう会っちゃダメ!」と念を押されるのです。

 それでも、なかなかやめれなかった彼でしたが、とうとう両親に本当のことを打ち明ける決心をするのです。
 
 その言葉を意外に思いながらも、両親は彼の言うことを素直に聞くのです。

 両親には、彼を衰弱させようという気持ちは一切、なかったのです。

 むしろ、彼の気持ちをなぐさめ、勇気づけたかっただけだったのです。


 母「いい?気が急いて上手く言えないけど、お前を大事に思っているよ。」

 父「お前に会えてよかったよ」


 その言葉に、彼は「自分はそんなふうに言われる人間じゃない。もし、お父さん、お母さんが長生きしていたとして、親孝行していたとは限らない」と言うのです。

 それに、母親は「あんたを自慢に思ってるよ」と言い、父親は「自分で自分を責めるこたねぇ。てめえで、自分を大事にしなくて、誰が大事にするもんか」と諭すのです。


 そうして、両親は息子を優しく見つめながら「体を大事にね。ありがとう・・・」の言葉を最後に、静かに消えていくのです・・・







 大林宣彦監督はこの映画を作った動機をこう書いています。


 生き続けることの勇気と、死者たちへの、「ありがとう」と。

 甘美な思い出を抱いて死んでいく人もいる。
 この人生に深く絶望して自ら死を選ぶ人もいる。
 あるいは日常の惰性の中で気づかぬまま、生きながら死んでいる人もいる。
 死とは悲しく、苦しく、時には無意味なものだ。
 そこへいくと生きるということはもっと難しい。
 悲しさや苦しさや無意味さを全部自分で請け負って生き続けていくのには、本当に勇気がいる。覚悟もいる。
 その大切なことを死者たちへの感謝の気持ちで表現しきったところにこそ、この物語の知恵があるのだとぼくは思う。
 時に恐ろしい場面もあるが、これは生と死とをもて遊ぶものが、当然受ける罰だろう。

 山田さんの勇気、市川さんの覚悟の後を継いで、ぼくはでき得る限り誠実にこの重要な主題を観客のみなさんに伝えたいと願う。
 それがこの見せかけだけの「やさしさの時代」に対するささやかな警鐘となればいいが。
 それがこの時代に生き続けていくことの、ささやかな勇気の証ともなればいいが・・・。 
 

 





 10日に、初盆のために、一番下の妹が帰省して、4月以来、久しぶりに姉妹3人が顔を合わせます。

 その時、生きていた頃の父と母の姿を収めた映像を一緒に観ましょうね。

 そうして、私達を大切に育ててくれた両親の愛情を思い出し、3人で肩を寄せ合いながら泣きましょう・・・


 お父さん、ようやくお母さんがそちらに行って、きっと落ち着いたことでしょう。



 お父さん、お母さん、これからは私達3人で力を合わせ、時に励まし、時に慰めあいながら生きていきますね。



 お盆に会えるのを心待ちにしています・・・