夏にふさわしいものを読みたいと思っていました。
すると、三島由紀夫の短編小説「真夏の死」を見つけました。
私はこの小説を何の予備知識もなしに読んだのですが、まず思ったのは、三島由紀夫が結婚して、二人の子供が小さかった頃に書いたのではないかという事でした。
というのも、この小説には、二人の子供をなくした夫婦の顛末が書かれていたからです。
妻や子供の死を書くことで、家族愛を強固にしたり、自分にとっての家族について考えてみたかったのではないだろうか。
ところが、調べてみると、27歳の独身時代、世界一周の旅から帰った直後の1953年2月に発表された事が分かりました。
三島由紀夫は、1951年12月25日に、ある大手新聞社の特別通信員として、旅客船に乗り、ハワイ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、フロリダ、マイアミ、サン・ファン、リオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロ、ジュネーブ、パリ、ロンドン、アテネ、ローマを旅して、翌1952年5月に帰国したそうです。
三島由紀夫は、その世界一周旅行中に、「太陽」「肉体」「官能」を発見し、以後の作家生活に多大な影響を及ぼしたと言われています。
三島由紀夫が、世界一周からの帰国直後に書いた有名な作品では「潮騒」があります。
もしかしたら、三島由紀夫はその時、異性である女性に関心が強くなり、「潮騒」や「真夏の死」を書いたのではないでしょうか。
つまり、「潮騒」では、それまで男性経験のない若い女性を、「真夏の死」では妻として、母としての女性を表現したかったのではないのか。
そして、この「真夏の死」は、「潮騒」よりも、三島由紀夫の女性への願望や、本質がより鋭く捉えられているように思えます。
それを、実際に伊豆で起きた悲惨な事件をもとに、生命の起源である海と女性との親密な関係まで描こうとしたのではなかったのか。
それが、病死でも、交通事故による死でもなく、海難事故による死を選ばなければならなかった最大の理由なのでは?
私がそう思った理由のひとつに、詩人の三好達治の「郷愁」という詩がありました。
海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がいる。
そして、母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。
娘、妻、母と、女性は遷り変り、様々な顔を覗かせますが、生命を宿り、か弱いながらも強くなろうとする女性の神秘と意志に感動し、女性の完成された姿として、三島由紀夫はこの小説を書いたのではなかったのか?
そして、ボオドレールの「人口楽園」の一節、「夏の豪華な真盛の間には、われらはより深く死に動かされる」を冒頭に引用することで、生と死の関係性を、明確に現したかったのではないでしょうか?
この小説は、ある夏の日、伊豆半島の南端に近いA海岸に、6歳の清雄と、5歳の啓子と、3歳の克雄の3人の子供と、夫の妹の安江とで、遊びに来ていた生田朝子(ともこ)を襲った悲劇から始まります。
朝子が、永楽荘で、午睡をしていた時、安江に連れられ、海岸で遊んでいた清雄と、啓子は、海に流され溺死してしまうのです。
安江は驚き、心臓発作で、そのまま亡くなってしまいます。
朝子と、夫の勝は悲嘆に暮れ、一人残された克雄を溺愛するようになります。
そして、朝子は、時間の経過と共に、二人の子供を失った悲しみが薄らいでいくのですが、その忘却と薄情さに罪悪感を覚え始めるのです。
朝子は諦念がいかに死者に対する冒涜であるかを感じ、努めて悲劇を感じようとするのです。
自分たちは生きていて、彼らは死んでいる。
それに、朝子は悪事を働いている気がしてならず、生きることの残酷さを痛感してやまないのです。
そうして、無為な日々を、夫とともに送るのですが、次第に受け入れられるようになり、やがて朝子は懐妊し、新たな生命の誕生を一家で喜ぶのです。
しかし、事件が起きて、2年後、女児、桃子が生まれた翌年の夏に、朝子は夫に、あのA海岸に行ってみたいと言い出すのです。
夫は、ようやく心の傷が癒えた矢先であり、始めは悲しみの現場に赴くのを拒むのですが、三度、朝子に懇願されたのに、何かあると感じ、再び、訪れる決心をするのです。
ここからは、晩夏の情景がよく現されている三島由紀夫の「真夏の死」の原文をそのまま書くことにします。
朝子は桃子を抱いてついて来る。四人は庭の生垣の門から松林の中へ出た。海が見え、このあたりの磯の上を、足早に波が駆けて来て、かがやいてひろがるのが見える。
築山をめぐって浜へ出ることのできる干潮の時刻である。勝は克雄の手を引いて、熱い砂の上を宿の下駄で歩いた。
浜の人出は少ない。ビーチパラソルが一つも見られない。築山の下を抜けると、すでにそこは海水浴場の一角であるが、浜を見わたして二十人と見られない。
四人は波打ち際に立ち止まった。
沖には今日も夥しい夏雲がある。雲は雲の上に累積している。これほどの重い光に満ちた荘厳な質量が、空中に浮かんでいるのが異様に思われる。その上部の青い空には、箒で掃いたような軽やかな雲が闊達に延び、水平線上にわだかまっているこの鬱積した雲を見
下ろしている。下部の積雲は何ものかに耐えている。光と影の過剰を形態で覆い、いわば暗い不定形な情慾を明るい音楽の建築的な意志でもって引き締めているように思われる。
海はその雲の真下から、こちらへ向かって、ほとんど偏在している。海は陸地よりもはるかに普遍的で、入江も海をとらえているという印象を与えない。ことにここの湾口はひろいので、海が正面からすべてを犯しているように見えるのである。
波がもちあがる。崩れる。その轟きは、夏の日光の苛烈な静寂と同じものである。それはほとんど音ではない。耳をつんざく沈黙とでも言うべきである。そして四人の足許には、波の叙情的な変身、波とは別のもの、波の軽やかな自嘲ともいうべき、名残の漣が寄せては退いている。
勝はかたわらの朝子を見た。
朝子はじっと海を見ている。髪は海風になびき、強い太陽光線にひるんでいるけはいもない。目は潤みを帯びて、ほとんど凛々しく見える。口は頑なに結ばれている。その腕には小さな麦藁帽子をかぶった一歳の桃子を擁している。
勝はこういう妻の横顔を何度か見たことがあるように思った。あの事件があって以来、妻は時々放心しているようなこんな表情をする。それは待っている表情である。何事かを待っている表情である。
「お前は一体何を待っているのだい」
勝はそう気軽に訊こうと思った。しかしその言葉が口から出ない。その瞬間、訊かないでも、妻が何を待っているか、彼にはわかるような気がしたのである。
勝は悚然として、つないでいた克雄の手を強く握った。
すると、三島由紀夫の短編小説「真夏の死」を見つけました。
私はこの小説を何の予備知識もなしに読んだのですが、まず思ったのは、三島由紀夫が結婚して、二人の子供が小さかった頃に書いたのではないかという事でした。
というのも、この小説には、二人の子供をなくした夫婦の顛末が書かれていたからです。
妻や子供の死を書くことで、家族愛を強固にしたり、自分にとっての家族について考えてみたかったのではないだろうか。
ところが、調べてみると、27歳の独身時代、世界一周の旅から帰った直後の1953年2月に発表された事が分かりました。
三島由紀夫は、1951年12月25日に、ある大手新聞社の特別通信員として、旅客船に乗り、ハワイ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、フロリダ、マイアミ、サン・ファン、リオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロ、ジュネーブ、パリ、ロンドン、アテネ、ローマを旅して、翌1952年5月に帰国したそうです。
三島由紀夫は、その世界一周旅行中に、「太陽」「肉体」「官能」を発見し、以後の作家生活に多大な影響を及ぼしたと言われています。
三島由紀夫が、世界一周からの帰国直後に書いた有名な作品では「潮騒」があります。
もしかしたら、三島由紀夫はその時、異性である女性に関心が強くなり、「潮騒」や「真夏の死」を書いたのではないでしょうか。
つまり、「潮騒」では、それまで男性経験のない若い女性を、「真夏の死」では妻として、母としての女性を表現したかったのではないのか。
そして、この「真夏の死」は、「潮騒」よりも、三島由紀夫の女性への願望や、本質がより鋭く捉えられているように思えます。
それを、実際に伊豆で起きた悲惨な事件をもとに、生命の起源である海と女性との親密な関係まで描こうとしたのではなかったのか。
それが、病死でも、交通事故による死でもなく、海難事故による死を選ばなければならなかった最大の理由なのでは?
私がそう思った理由のひとつに、詩人の三好達治の「郷愁」という詩がありました。
海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がいる。
そして、母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。
娘、妻、母と、女性は遷り変り、様々な顔を覗かせますが、生命を宿り、か弱いながらも強くなろうとする女性の神秘と意志に感動し、女性の完成された姿として、三島由紀夫はこの小説を書いたのではなかったのか?
そして、ボオドレールの「人口楽園」の一節、「夏の豪華な真盛の間には、われらはより深く死に動かされる」を冒頭に引用することで、生と死の関係性を、明確に現したかったのではないでしょうか?
この小説は、ある夏の日、伊豆半島の南端に近いA海岸に、6歳の清雄と、5歳の啓子と、3歳の克雄の3人の子供と、夫の妹の安江とで、遊びに来ていた生田朝子(ともこ)を襲った悲劇から始まります。
朝子が、永楽荘で、午睡をしていた時、安江に連れられ、海岸で遊んでいた清雄と、啓子は、海に流され溺死してしまうのです。
安江は驚き、心臓発作で、そのまま亡くなってしまいます。
朝子と、夫の勝は悲嘆に暮れ、一人残された克雄を溺愛するようになります。
そして、朝子は、時間の経過と共に、二人の子供を失った悲しみが薄らいでいくのですが、その忘却と薄情さに罪悪感を覚え始めるのです。
朝子は諦念がいかに死者に対する冒涜であるかを感じ、努めて悲劇を感じようとするのです。
自分たちは生きていて、彼らは死んでいる。
それに、朝子は悪事を働いている気がしてならず、生きることの残酷さを痛感してやまないのです。
そうして、無為な日々を、夫とともに送るのですが、次第に受け入れられるようになり、やがて朝子は懐妊し、新たな生命の誕生を一家で喜ぶのです。
しかし、事件が起きて、2年後、女児、桃子が生まれた翌年の夏に、朝子は夫に、あのA海岸に行ってみたいと言い出すのです。
夫は、ようやく心の傷が癒えた矢先であり、始めは悲しみの現場に赴くのを拒むのですが、三度、朝子に懇願されたのに、何かあると感じ、再び、訪れる決心をするのです。
ここからは、晩夏の情景がよく現されている三島由紀夫の「真夏の死」の原文をそのまま書くことにします。
朝子は桃子を抱いてついて来る。四人は庭の生垣の門から松林の中へ出た。海が見え、このあたりの磯の上を、足早に波が駆けて来て、かがやいてひろがるのが見える。
築山をめぐって浜へ出ることのできる干潮の時刻である。勝は克雄の手を引いて、熱い砂の上を宿の下駄で歩いた。
浜の人出は少ない。ビーチパラソルが一つも見られない。築山の下を抜けると、すでにそこは海水浴場の一角であるが、浜を見わたして二十人と見られない。
四人は波打ち際に立ち止まった。
沖には今日も夥しい夏雲がある。雲は雲の上に累積している。これほどの重い光に満ちた荘厳な質量が、空中に浮かんでいるのが異様に思われる。その上部の青い空には、箒で掃いたような軽やかな雲が闊達に延び、水平線上にわだかまっているこの鬱積した雲を見
下ろしている。下部の積雲は何ものかに耐えている。光と影の過剰を形態で覆い、いわば暗い不定形な情慾を明るい音楽の建築的な意志でもって引き締めているように思われる。
海はその雲の真下から、こちらへ向かって、ほとんど偏在している。海は陸地よりもはるかに普遍的で、入江も海をとらえているという印象を与えない。ことにここの湾口はひろいので、海が正面からすべてを犯しているように見えるのである。
波がもちあがる。崩れる。その轟きは、夏の日光の苛烈な静寂と同じものである。それはほとんど音ではない。耳をつんざく沈黙とでも言うべきである。そして四人の足許には、波の叙情的な変身、波とは別のもの、波の軽やかな自嘲ともいうべき、名残の漣が寄せては退いている。
勝はかたわらの朝子を見た。
朝子はじっと海を見ている。髪は海風になびき、強い太陽光線にひるんでいるけはいもない。目は潤みを帯びて、ほとんど凛々しく見える。口は頑なに結ばれている。その腕には小さな麦藁帽子をかぶった一歳の桃子を擁している。
勝はこういう妻の横顔を何度か見たことがあるように思った。あの事件があって以来、妻は時々放心しているようなこんな表情をする。それは待っている表情である。何事かを待っている表情である。
「お前は一体何を待っているのだい」
勝はそう気軽に訊こうと思った。しかしその言葉が口から出ない。その瞬間、訊かないでも、妻が何を待っているか、彼にはわかるような気がしたのである。
勝は悚然として、つないでいた克雄の手を強く握った。