龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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映画に飽きたのでスピノザに戻る。

2022年01月21日 07時00分00秒 | メディア日記
木島泰三『スピノザの自然主義プログラム』
を読んだ。
十全に理解したとはとてもいえないが、考えていたらふとこ地ラの本をを読み返してみようという気になった。
朝倉友海『概念と個別性 スピノザ哲学研究』



 
である。詳細は上記のURLに本人のまとめが書いてあるのでそれを参照されたい。
 
木島泰三の『スピノザの自然主義プログラム』が、どちらかといえば
「機械論的自然観」あるいは「唯現実論」を(自然の側から)突き詰めていくのに対して、朝倉友海の『概念と個別性』は、理性の働きの側からスピノザの「個別性」に向き合おうとしている。
 
平たく言えば、デカルト的な精神と物質の二元的な捉え方を脱構築しようとしたスピノザの哲学を、物質というか延長というか、個別的な様態(現れ)の側からアプローチして乗り越えるか、精神というか思惟と言うか、概念の側からアプローチして乗り越えるか、の違い、という印象を(素人としては)うける。
 
そういう意味では叙述の方向性、議論の前提とする立場はほとんど正反対といってもいい感じがする。
 
しかしどちらにも共通しているのは、スピノザの哲学のふつうに考えると過激すぎるというか、荒唐無稽にも聞こえてしまう理解困難さとどう立ち向かうか、という厳しい姿勢だ。
いずれも哲学の研究をしているひとなのだから、「厳しい姿勢」などというのも失礼なのだが、
スピノザを早わかりしようととしてつまづくのが、まずもって実体と様態の間にある「属性」というカテゴリーであり、その属性のうちで人間が知っているのは「思惟」と「延長」のふたつだけだ、という話に進んでいくと、とたんに霧がかかったように面倒くさくなる。
 
実体というのは神様であり自然の摂理であり、アンチ超越神であり、これは分かりやすい。
様態というのも、私たち個別の人間とか物質とかだから、これも分かる。
 
問題はその神様と物質(や人間)の間にあってそれを繋いでいる「属性」という概念だ。
 
どう考えてもデカルト哲学の変奏のようなものであって、無理矢理感が拭えないと見る人もいるだろう。私も以前は漠然とそんな風に感じていた。
 
でも、このあたりに意外と人は惹きつけられてしまうのですね。
 
過激とも見えるスピノザの世界像、すなわち
 
世界はたった一つの実体であり様態(全ての個物)はその実体(神様=自然の摂理)の表現なのだ!
 
という外部を徹底的に排除した世界像は、一部の読者の熱狂的な支持を受け続けている。
 
まあ、その図式はわかりやすいと言えば分かりやすい。
 
だが、間に入っている二つの「属性」としての思惟と延長、つまり平たく言うと精神と物質というその二つを、二元論ではなく平行論として理解するっていうのがなにやら面倒くさいし、わざわざそんなことをするのはデカルトの亡霊につきあってるからなの?と突っ込んですませたくなる。
 
ところが、この二つの本を並べて読むうちに、スピノザを読む人たちみんなが、なんだか困っているツボ、のようなものがだん団見えてくるようにも思う。
 
つまり、
 
「精神は身体の観念である」
 
というスピノザの、この思惟と延長が相乗りしてるような、個別的な身体=普遍的な精神の二重性のあたりを、どう捉えていくか、あたりがむずかしいのかなあ、と。
 
 
未だに少しも腑に落ちてはいないのだが、「腑に落ちなさ」のありかがすこし見えてきたような、そんな気持ちになる。
 
もう、よく知っているヒトにとってはこの迷路に立つような感じは不要なのだろうし、また、興味のないヒトにとっては300年以上前の哲学者の話など意味もないのだろう。
 
しかし、足を痛めて家の中に入るしかないヒマな自分にとっては、スピノザの「属性」という意味の分からないカテゴリーをなぜ設定したのか、興味が尽きないのだ。
 
もう少しスピノザの本をひっくり返して読み直そうかな。