課題になっているわけでもなく、頼まれもしないのにスピノザに関わる本を買い続けかつ読み続けるのは悪い趣味かもしれないし、あるいは軽い依存なのかもしれないとも思う。
実際、もし木島泰三氏の本を読むなら
『自由意志の向こう側』
の方が一般書としてはおすすめだ。
しかし、この本は興味深い。
まだ半分しか読み終えていないが、因果について、
「水平的因果」
と
「垂直的因果」
に分けて説明する枠組みが特に関心を惹く。
水平的因果とは平たく言うと私たちが出来事について原因と結果の因果関係を理解する枠組みだ。いわゆる普通の因果関係とみてとりあえずはよいだろう。
それにたいして垂直的因果とは、内在的原因、本性的原因があって、その結果として生まれる「自動詞的な」現れのことを指す。
前者に比べて後者はなんだか歯切れが悪そうだが、それはおそらく私の理解の限界で、端的に言うと、「神様」は外部に原因を持たず(これは神様以上に偉いものがないから自明)その神様由来のもの、というのがひとつの範例になるのだろうか。
まあしかし、神様を
設定しなくても、内在的原因は設定しうるし、それは必要な視点でもある。
これ以上は面倒な議論になるからざっくりと理解したところをメモするにとどめるけれど、水平的因果だけでは世界の因果を記述するには不十分だっていう流れなんだろう。
ここに重要なポイントがある。
ここからはこの本から触発された思いつきになる。
つまり垂直的因果、内在的因果を考慮にいれる方が、水平的因果、出来事の因果関係だけで世界を見つめるよりも、よりよく私たちの「自由」を生き延びさせることができるのではないか、という提案がここにある。
意志を設定する方が自由を確保できるじゃないか、という反論は当然あり得る。
しかし、一方に出来事の因果関係を認め、他方で自由意志を設定するだけでは、私たちは十分には自由になれないのではないか。
むしろ(何か命令をして人を束縛しかつ支えるような人格神は論外だが)今問題になっているのは、水平的な因果の大きな波に飲まれて、本当には自由を確保できていない「自由意志」の小舟に乗せられた私たちの困難、なのではないか?
今更、神様(あるいは大きな教理や信仰)に依拠して何かを決定することはもちろんできない。
しかし単なる運命論に組するのもいかがなものかと思われる。
とはいえまた、むやみに自己決定とか自由意志とか言われても、挨拶に困るのが実情では?
この不自由な世界において、なおも自由を構想しうるとしたらいったいどんな形で、なのか。
そういうヒントをもらえるなら、という思いでスピノザを読み続けている。
そんなやり方は偏っている、のかもしない。
一見ありもしない「本質」(神様とか本来性)を自分の中に発見しようとするムダな努力、とも見える。
だが、神様や本来性からの疎外を主題とするのではなく、また外在的な要因に自己を馴致させていくのでもなく、自分の中の傾向性をいつも感じながら、外に吹く烈風や大波に対しつつ、この船(のような私)を航行させていく術がどこかにないのか、と考え続けていきたい。
そういうことを考えるためにはとても愉しい論文だった。
内容の理解はさておき。
繰り返しになるが、一般書としては
木島泰三『自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史』講談社選書メチエ
がオススメ。
その前提となるスピノザについての論文がこちら、ということですね。
私はここ(スピノザの周辺をうろうろすること)からいつも「エチカ(倫理)」ということの意味を考える。
明晰判明な水平的因果の範囲内では「倫理」など語り得る余地はそもそもないのではないか、という気持ちを持ちつつ、そでもなお私たちが語り得るコトバの中には、水平的因果に止まらない「力」なり「傾き」があると言う確信は揺らがない。
それは表現の問題なのか。
表現とは果たして主体を前提とするのか?
そんなことも考えさせられる。