龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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日記を付ける。書く習慣を取り戻す。

2022年01月09日 08時00分00秒 | メディア日記
今までメモソフト(Evernoteやkeep、一秒メモなど)やFacebook、友人とのLINEに書き散らかしたまま収拾がつかなくなっていたものたちのうち、一つの原稿にまとめる必要があってどうしてもアップ出来ないもの以外はしばらくの間ブログに書いておこうかと思う。
誰かに読んでもらえるかどうか以前に、どこかで読んでもらえる(かもしれない)ヒトを想定しないと、書くことがまとまらないことに改めて気付いたからだ。
ちょっと前のことも含めて、しばらく1日1投稿、のペースを続けてみたい。

一つには、そうでないと観た映画や読んだ本、出会った事柄が随時引き出せる記憶として保持できなくなってきている、という懸念が出てきたから、でもある。
一旦思い出せたなら、その総体の印象や、全体の印象とかかわっている細部についてもアクセス可能だ。

記憶の質が変化(老化とも言う)してきた、ということもあるだろう。

もう一つは、今、ここでも書いた亡妻とのやり取りを書籍にしようとして半年ほど書こうとしては挫折し、近付こうとしては失敗し続けている、という現実もある。

二年半前に亡くなった彼女のことを想起する想起の種類はいくつかある。

①彼女に所属する事物に触れて彼女の欠如を思い知るタイプ
(彼女の使っていた食器や装身具など)

②彼女と共に体験したことを独りでしているとき
(例えば旅行とか料理とか)
③彼女の写真を見たとき
④彼女が書いた、あるいはしゃべったことを記録したコトバを読むとき

このうち、もっとも生々しく彼女の息遣いが感じられるのはなんといってもコトバ(④)に触れた時だ。

逆に、魂が抜けるような喪失感をリプレイさせられるのは、モノに触れた時(①)である。

エラい哲学者の言を引用するまでもない。ヒトは言葉によって難度でも人間としての関係を取り戻し、縛られ、支えられるのだ、とつくづく思う。

コトバを石に刻むように、というのとは対極の、誰に読まれるか分からないブログという形式に頼ってみようと思う。
(今時は役に立つ実用的な、あるいはエンタメに徹した、もしくは新たな表現としてInstagramやYouTubeなどがあるのだろうが、それは若い人に任せておこう)

しばらくまとまった文章を書いていなかったリハビリも兼ねて。

万が一、読んでも良い、という奇特な方がいらっしゃったら、望外の喜びです(笑)