龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

外側靱帯損傷か?

2022年01月12日 11時02分00秒 | 身体
1/9の朝、福島のとある温泉で、朝食後のチェックアウト前、少し時間があったので、ちかくにある源泉掛け流しの外湯に行こうとして雪道を歩いていたら、突然滑って転んでしまった。
素直に転べば良かったのかもしれないが、倒れる前左足でなんとか踏ん張ろうとしたらしく、方向の異なる力が瞬間的に左足くるぶしの上あたりにかかったらしく、転倒した後足に力を入れようとするもまったく入らず。
それ以来痛みはあまりないものの、腫れてきて鈍い痛みがつづいている。
幸い市内の整形外科クリニックが休日診療をしていて、樹脂で形になる副木(添え木?)を当ててもらった。
湿布と痛み止めを使いつつ、不自由な暮らしが始まった。

片足が不自由になると、日常の様々なことが違ってくる。

床に落ちたものが拾えない。
忘れ物を取りに玄関から自室まで戻るのがメチャメチャ大変。着替えに大層な時間がかかる。
そして、足が寒い。
日を経るに従って、痛みが増してくる。あしもあさらに腫れてくる。

そして、「どうしたんですか!?」
と言われる度に説明するのが面倒くさい。
もっとも最後の項目は、現在無職なので、職場での説明は不要なのでだいぶ助かってはいる。

もろもろの結果、自分の「依存先」について改めて考える機会になった。
家族という直接依存可能な範囲を超えて、友人や知人、出会った人たちの厚意が身にしみるし、杖をついてお店など(整形外科医院以外)にはいると、普通ではない自分に向けられた視線(別にそれ自体は多生の珍しさというだけのことだろうが)の強さ、注意喚起力の大きさ、つまりフラグが立っている感をひしひしと感じることになる。

もちろん軽微な怪我で整形外科にかかっている者としては、
「いずれ副木と包帯がとれれば終わる」
ことに過ぎない。

しかし、ヒトに頼りこつ見られる存在になることは、普段の自己像とギャップが大きく、すぐにはなれない。

出来ることは自分でやり、出来ないことは素直に任せる、というさじ加減にも、幾分か学習や訓練が必要なのだとおもった。
今、エピクテトゥスの本を読んでいるのだが、ストア派のこの哲学書のスタンス、つまり自分の「権内」と「権外」を分けて、「権外」のことは思い悩まない、という話が思いの外腑に落ちた。

ストア派は、ギリシャのポリス国家の政治・文化・哲学の没落以後、ギリシャ文化が地中海に、広がったなかで生まれた黄昏の哲学の一種、と言った趣がある。
だから弱った自分に響いてくるのだろう。

年をとる(そして偏屈になっていく)とスピノザ好きが増える、とはある哲学者の言。

エピクテトゥスが流行するのは、自分のできる範囲で「処世」をうまくやる自己啓発的な狭苦しい時代の空気にあっているのだろうか。

もちろん、ストア派は別に自己啓発とは他人の空似程度に似ているに過ぎないのだろうが、なんとなく「運命」や「諦観」の匂いは漂ってくることもたしかだ。

私のプチプチ諦観、プチ運命観は、足が治れば忘却していくのだろうか。

依存先について考えることはしかし、自己啓発が内に抱えるマッチョな孤立とは正反対の方向を内包してもいる。

とりあえずは動けないから、映画と本、だね。








『コンフィデンスマンJPプリンセス編』を観た。

2022年01月11日 08時00分00秒 | メディア日記
長澤まさみが好きだ。
小日向文世も好きだ。
コンゲーム系の映画も好きだ。
となれば、
『コンフィデンスマンJP』
のような作品がお気に入りになるのは必然だ。

昨夜は『コンフィデンスマンJPプリンセス編』を観た。

三浦春馬と竹内結子が出演していて「あっ!?」
となり、慌ててwikiで
『コンフィデンスマンJPロマンス編』
が映画第一弾、
『コンフィデンスマンJPプリンセス編』が第二弾

この後に2人がなくなっているという時系列を確認した。

映画は安定の面白さだ。

突っ込みどころはたくさんあるにしても、時間の巻き戻し(そこには種明かしも多く含まれるが)も分かり易い。

柴田恭兵の執事は、動かない彼を画面で見ている心地よさがあったから、良かった。
もっと違う執事もあり得ただろうけれど、違う方がいいとは思わなかった。役者が揃ってるってこともエンタメ度としては楽しさに寄与するのだね。

英雄編が観たくなった。

サブスクで観る映画はエンタメばかりだ。しかも、オタクとしてではなく、ぼんやりと浅く触れ続ける観客として。

映画の記憶と読書の記憶ではいほいろ違っているのだろう、と思う。
あるいは、読書には多少の慣れと訓練があるけれど、映画にはそういう訓練がない、ということだろうか。
いや、もちろん、映画は見れば見えるものなんですが。


國分功一郎と一ノ瀬正樹、もしくは「である」と「べき」の間について

2022年01月10日 08時00分00秒 | 大震災の中で
先日、「しあわせのための『福島差別』論」批判をここにアップした。未完の草稿だから突っ込みどころ満載かもしれないが、まあ現状の立ち位置の確認にはなったかな、という程度のところか。

さて、それをかいているときに知人と前掲書の批判を酒飲みしていながら、 
一ノ瀬批判は当然として分かる(と知人)けど、國分さんはどうなの?
『原子力時代の哲学』も釈然としなかったし、高橋哲哉氏の退官時のイベントでもいわゆる反原発の運動について國分さんはかなり否定的なこと入ってたけど

という話をされた。

気になっていたところだし、極めて微妙な話でもあるので、その時ははっきりと論評することができなかった。 

実は、一ノ瀬正樹氏も國分功一郎氏も、哲学者として原発事故に向き合うという姿勢を明らかにしているという点では共通している。

反原発ドクトリン(教理)の原発は廃炉すべきだという「べき」から距離を取って哲学者としての立場から、まず「である」というところを突き詰めようとしている、といえばいいだろうか。

一ノ瀬正樹氏は反原発ドクトリンに「凝り固まっ」て氏を御用学者呼ばわりする人々を哲学的訓練を経ていない不幸な無知のヒトとして切り捨て、自らは「原因と結果の迷宮」に回帰していく。

それに対して、國分功一郎氏は、神様の話を持ち出して(核分裂とか核融合を直接扱おうとする)無媒介的エネルギーを求める原発がダメだ、、辞めるべきだ、という中沢新一氏に対して「ほとんど」「政治的には」「それでよい」としつつ、國分氏自身としてはその「べき」論に対して保留を表明する。


おそらく、2人の政治的立場は大きく異なっている。しかし同時により大きな枠組みで見るとき、どちらも「反原発ドクトリン」を振りかざして活動する人々とは別の次元で思考をしようとする姿勢においては選ぶところがない。

知人は
『だからさ原子力時代の哲学』響かねえんだよなあ』
と言って、とりあえずの会話は終わった。

私は國分功一郎ファンではあるけれど、当然ながら原発事故以後、死ぬまで

「悪いことは言わないから原発は止めておけ」

派である。ブログでも、SNSでもそう流し続けている。さてでは、この先日批判したばかりの一ノ瀬正樹氏と國分功一郎氏の違いはどこ(か)にあるのだろうか?

とりあえず原発事故以後に発せられるコトバには、科学的な水準と政治的な水準、哲学的な水準と表現的な水準、理性的な水準と感情的な水準などなど、様々な水準が層のように重なって、それが交わらないままちょうど描画ソフトのレイヤーのように重ね合わせられている。
全体を見通す言葉など望むべくもない。
そんな中で、一ノ瀬正樹と國分功一郎の共通性と差異は、私の中では放っておけない問題だ。以下、このことについて少し続けてみたい。

日記を付ける。書く習慣を取り戻す。

2022年01月09日 08時00分00秒 | メディア日記
今までメモソフト(Evernoteやkeep、一秒メモなど)やFacebook、友人とのLINEに書き散らかしたまま収拾がつかなくなっていたものたちのうち、一つの原稿にまとめる必要があってどうしてもアップ出来ないもの以外はしばらくの間ブログに書いておこうかと思う。
誰かに読んでもらえるかどうか以前に、どこかで読んでもらえる(かもしれない)ヒトを想定しないと、書くことがまとまらないことに改めて気付いたからだ。
ちょっと前のことも含めて、しばらく1日1投稿、のペースを続けてみたい。

一つには、そうでないと観た映画や読んだ本、出会った事柄が随時引き出せる記憶として保持できなくなってきている、という懸念が出てきたから、でもある。
一旦思い出せたなら、その総体の印象や、全体の印象とかかわっている細部についてもアクセス可能だ。

記憶の質が変化(老化とも言う)してきた、ということもあるだろう。

もう一つは、今、ここでも書いた亡妻とのやり取りを書籍にしようとして半年ほど書こうとしては挫折し、近付こうとしては失敗し続けている、という現実もある。

二年半前に亡くなった彼女のことを想起する想起の種類はいくつかある。

①彼女に所属する事物に触れて彼女の欠如を思い知るタイプ
(彼女の使っていた食器や装身具など)

②彼女と共に体験したことを独りでしているとき
(例えば旅行とか料理とか)
③彼女の写真を見たとき
④彼女が書いた、あるいはしゃべったことを記録したコトバを読むとき

このうち、もっとも生々しく彼女の息遣いが感じられるのはなんといってもコトバ(④)に触れた時だ。

逆に、魂が抜けるような喪失感をリプレイさせられるのは、モノに触れた時(①)である。

エラい哲学者の言を引用するまでもない。ヒトは言葉によって難度でも人間としての関係を取り戻し、縛られ、支えられるのだ、とつくづく思う。

コトバを石に刻むように、というのとは対極の、誰に読まれるか分からないブログという形式に頼ってみようと思う。
(今時は役に立つ実用的な、あるいはエンタメに徹した、もしくは新たな表現としてInstagramやYouTubeなどがあるのだろうが、それは若い人に任せておこう)

しばらくまとまった文章を書いていなかったリハビリも兼ねて。

万が一、読んでも良い、という奇特な方がいらっしゃったら、望外の喜びです(笑)




「しあわせになるための『福島差別』論」批判

2022年01月08日 07時00分00秒 | 大震災の中で

「しあわせになるための『福島差別』論」」

https://www.amazon.co.jp/dp/4780309395/ref=cm_sw_r_cp_apan_glt_i_FCX8K58J9NBY3SMCK5SN



という書籍がある。2018年1月に、かもがわ出版から刊行された。清水修二、開沼博、池田香代子、野口邦和、児玉一八、松本春野の六氏(それ以外に寄稿者もいる)が企画から関与し、東京電力福島第一原子力発電所の事故によって生じた様々な事柄に対して


「それぞれの判断と選択を尊重する」

「科学的な議論の土俵を共有する」

「めざすのは、福島の人たちの『しあわせ』」

(以上腰巻き惹句より)

 

という視点から編集された論集だ。


私は、この本を読むのが本当に辛かった。読んでいて切ない気持ちになるのだ。執筆者全員の著作を通読したわけではないが、


清水修二には『NIMBYシンドローム考』という迷惑施設とどう向き合っていくか、について丁寧な論を重ねた貴重な著作があり、一ノ瀬正樹には『低線量被曝のモラル』にみられたような多様な立場からの論考をふまえた討論の仕事もある。また、開沼博には『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』という、中央と地方の「植民地的」関係についての考察もある。


それぞれ重要な仕事をしている三人、といっていいだろう。東京電力福島第一原子力発電所の事故について彼らが言及するのは決して不自然なことではない。

 しかし、たとえば前書きと後書きに相当する部分を担当している清水修二の文章を読んでいると、原発事故以後に起こった事態を全体として受け止めようとするのではなく、巨大な原発事故という事態を被曝線量の低さに限定することによって、科学的な知見を共通基盤として論じることを求め、結果としては、福島においていきることの「しあわせ」を、(結果として)縮減によって実現しようとしてしまっているとうい印象を受ける。以下、清水の『NIMBYシンドローム考』から引用しつつその点について論じる。


 清水はかつて、沖縄の基地の土地使用について、


「歴史に残る『沖縄軍用地紛争』は、いたいけな少女の悲劇に触発された人権の

叫びからはじまって『一握りの不逞分子』の抵抗を排除する政治的処分によって終わった。『はじめ』と『おわり』との間には、絶望的な深淵(アピス)が横たわっている」(『NIMBYシンドローム考P237ー238』


と述べている。事態の深刻さを憂慮する視点、現実の悲惨さを受け止める視点は失われていないといっていいだろう。それを前提としつつも


「いってみれば、本土ー沖縄関係は『現象』にすぎず、安保体制こそが事の『本質』である、ここは問題のとらえ方として大事な点で、原子力発電にも廃棄物の件にも共通する方法的論点だ。けれども私はあえて現象にこだわりたい。わかりやすく言うなら、原子力発電にかんして出発点で『原発の是非論はさておいて』と述べたのと同じように、『安保の是非論はさておいて』という土俵の設定を、とりあえず私は行いたいのである。不徹底だとか中途半端だとか言われるかもしれないが、『現象に徹底する』のも、これはこれで一苦労だ。こうした方法論の意図するところについては、いずれ最終章であらためて述べるつもりだ」(同書P217)


と、敢えて「土俵」を設定すると宣言する。その上で、


「しかしそういった、まず白か黒かをはっきりさせないと先に進ませないような論理はまったく不生産的だ。(中略)原子力立地問題の議論を深めていけば、早晩、原子力発電の是非論に突き当たるであろうことも、容易に予想がつく。(中略)だれにいわれなくても自明である。我々の社会において問題なのは、そうした『本質論』についての空中戦が雲の上で展開されているときに、地上では現実の迷惑施設の立地が、リアルな認識ぬきで、金ずくで、ずるずると進められていることである。」(同書P257)


という指摘に至るのだ。


①迷惑が進行している悲惨の現場、現実に注目すべきだ。

②敢えて「是非論」はさておく。

③「本質論」はNIMBYにとって不生産的だ。


さて、その視点で今回の論集をみてみよう。清水は、この論集の執筆者たちを「御用学者」だと断定する者たちを敵と認定する。なぜなら、彼らは、反原発を主張することに「正義」を見いだし、その正義に依拠して科学的な知見を無視した主張を繰り返して自分たちを攻撃しつづけているからだ。しかし自分たち執筆者は、彼らのように反原発ドクトリン(教理)に毒されてはおらず、現実を科学的に認識しつつ論じている。もとよ私たちは御用学者などと呼ばれるいわれはない。対立・分断や混乱を招いているのはむしろ、「被害者/加害者」の二分法を振りかざし、被害者に寄り添って反原発を声高に論じて、非科学的な言を弄して(科学的に正当な結論を導いている)私たちを攻撃する者たちがいるからだ。その偏見を去って科学的な基盤を共有して正当に議論をすれば、福島の人たちは「しあわせ」になれる……といった論理展開をしている。


反原発というドクトリンに適合しないと自分たちが考えた場合に、その論者を「御用学者」認定してSNSなどで攻撃するふざけた者たちを擁護するいわれはない。その清水の姿勢には同意するし、御用学者認定を受けた時に、おそらく憤懣やるかたない思いを抱いたであろうことについては同意するのにやぶさかではない。


だが、今回の事例(私たちが被った福島第一原子力発電所の原発事故)においては『NIMBYシンドローム考』において展開されていた①②③が、きわめて縮減された形で適用されてしまっている。どういうことか。


第一に、ふくしまにおける人々の亀裂・対立・分断・あつれきを生んだ主要因が何かということについての考察が全くなされていないという点が問題だ。

 確かに、「御用学者」、と執筆者諸氏を白昼堂々指弾して憚らないのは、反原発ドクトリン(教理)に流された無思考な発言だろう。安易なレッテル貼りはそれをする側にとってもされる側にとっても有害であること、論をまたない。

そういった跳ね返りたちの「踏み越し」は、


「市民・住民の側にたって『御用学者』と対峙する対抗専門家が、権力側の専門家による価値判断の提示にまさに『対抗』してオルタナティブな価値判断を提示するとき、そこにもまた『踏み越え』の危険性がある」(科学者に委ねてはいけないことP27)


との指摘もあるように、反対していればいいというドクトリンに流された無視考を戒めねばならない。

では、清水たちの議論それ自体に、反原発ドクトリン派の踏み越えのような踏み越えがあるのかどうか、が次に問題になる。これは清水にも一ノ瀬にも開沼にも共通しているが、初期の混乱が終わってみれば、結果としては原発事故由来の被曝線量は低いということで概ね専門家の意見は一致しており、だから安全だったのだ、むしろ反原発のドクトリン(開沼は「最終審級開という言い方をし、一ノ瀬は「である」ことへの「べき」の侵入と論じている)こそが、分断の主原因なのだと主張している点では選ぶところがない。


ここがこの論集において考慮しなければならない大きな問題点の第一である。


「そこ(制度としての御用学者問題)に共通の課題は何かを探ると、そこには科学的知見というものは誰が導いてもひとつに決まる、と見る「固い科学観」が存在している。裏返せば、セカンド・オピニオンの意義への視点が欠如しているのだ。セカンド・オピニオンには、異なった組織や立場から、異なった見解がもたらされることが前提とされており、知の多様性が重要であることを科学的思考の基盤として確認するものである。『営みとしての科学観』において、そうした思考の基盤が不可欠であることは言をまたない」(同書P28)



この本の執筆者が、政府や東電(反原発側から見た「敵」)から特別な利益供与やバックアップを受けているかどうかは、慎重に精査されてから判断されるべきであって、その検証がないまま加害者の味方認定をすることはもちろんできない。

しかし、彼らがこの本で行っている


対象の縮減と科学の最終審級化、および仮想敵としての反原発派をたたくこと



この三つを重ねて論じることによって、人びとの分断を見かけ上封じ込め、その結果素朴な疑問や自然な感情の表出を根絶やしにした上で、彼らのいう科学的な議論の基盤において「語らせよう」とするこの姿勢は、犯罪的といっていいだろう。


1,縮減について

彼らは前掲書の指摘のようには、「踏み越し」を行わない。あくまで「科学的に結論の出た」とされる低線量の被曝について、問題がないということを前提として、その縮減された彼らのいう「科学的な事実」のみを前提として立論していく。しかし、「そこにもまた踏み越え野危険性がある」というのは、御用学者の意識的・無意識的踏み越えを前提として、反原発側に発せられた批評にすぎない。ここで展開されているのは


反原発側→踏み越しを行う跳ね返りがいる→かえって分断を生む。

私たち→踏み越しを行わない→科学的基盤の上に議論を共有できる→分断を解消してしあわせになれる


という程度の粗雑な展開でしかない。『科学者に委ねてはいけないこと』を参照するまでもなく、今なお議論されているのは、科学における解明の限界であり、解釈の複数せいである。仮に、彼らの議論の前提「科学的な基盤の上に議論をする」をみとめたとしても、セカンドオピニオンの必要性があることは当然だろう。

だが、彼らは極端な事象の縮減によって、「正しさ」を獲得するのだ。するとどうなるか。


清水修二にとっては福島大学の役員として避難指示しなかったことが問題ではなくなり、池田香代子にとって、反対する人は心理的な負荷を背負わされた不幸な治療の対象となり(「科学的には問題」がなかったので、当然そうなる)、一ノ瀬正樹にとっては、不勉強な活動家が残念な主張をして、「である」という事実認定の領域に「べき」というドクトリン(教理)を持ち込んで暴れていただけだということがもはや結果として分かってしまったのだ、と得意げに語る……


そういうことばの欲望の群れが立ち現れることになるだろう。


開沼は、人は最終審級によって物事の価値を判断するものだ、という「認識」を述べたあとで、今放射線量がどれだけさがり、どれだけ廃炉作業がコントロールされているか、という数字を並べることによってその科学を数値化して強化していく。


これらはそれは、原発事故全体の問題を矮小化する大きな「効果」を持ことになるだろう。




2,ことばを奪い、改めて語らせること

こうした縮減による「科学的な議論」の基盤化は、福島に住む人びとの言葉を奪い、改めて被曝線量を心配せずに、かれらのいう「しあわせ」なことばを口にすることが促されていく。原発事故は清水修二も『NIMBYシンドローム考』で述べているように、様々な水準の利害が関わり、価値観の対立も含むものだ。清水がその著書で行ったのは、原理的な対立をいったん宙づりにすることで、対立の現象それ自体に目を向けて議論が結果としては深まるということだった。ところが、この本の清水では、立場の対立や葛藤は驚くべき事にどこにも語られていない。言説の複数性を担保した前著(結論は宙づりにしたにせよ)に比して、まったく単数の語りに終始している。

これはこの発話者個人の欲望がただ噴出しているだけで、言説としては読むに耐えない。そして、読者がもし仮に(そんなお人好しの読者がいたとすれば、の話だが)この単線的な主張を受け入れてしまえば、原発による被曝の問題は「解消」してしまうのである。原理的には、福島県だけではない、日本全国どこでも通用する問題の「解消」がなされてしまうのだ。


池田香代子は文学的側面から、私たちの言葉を奪う。つまり、心理的に追い詰められた住民の気持ちは分かる、譲歩することによって、住民の心理的な負担に対するケアの必要性を語るのだ。たしかにケアは必要だろう。しかし、問題を語ることがケアの対象になるというその片務的な扱いを、このような小文で実現してしまっているということは、この「科学的な基盤の上に議論しよう」という縮減された「公正性」が、どんなことを生み出すか、見えてくると思われる。


一ノ瀬正樹の場合は、原発事故以後の被爆が科学的に低線量で影響がないと分かった以上、それは発生点に遡及して考えれば、避難もふくめてまったく痛ましいことだった、とまで言い切る。そして、哲学的思考を学ばない素人の無知をあげつらい、認知的バイアスがどんな被害をもたらすかを嘆いてみせる。象牙の塔へお帰り、というほかないほどのてっていぶりだ。


開沼博は、主著『フクシマ論』で分析した、原子力ムラの構造には全く触れること無く(ここにはあきらかに開沼の意図的目的的な選択がある)、数字だけを論じていく(『はじめての福島学』でも展開されている姿勢だ)。数字だけをみればよい、現状を価値中立的にみればよい、という確信犯にたどりつく。



以上みてきたように、彼らがおこなった縮減によって、それをいったん受け入れたならば、かれらの言説の圏域における主体として、それに適合した言葉を発するか、もしくは「非科学的」な言説として抹殺されるかの二択を求められることになる。ことばはもとより、嘘をついていてさえ真理への欲望に支えられている。だから、彼らがこのようなことばを白昼堂々と語るのには、おそらく理由がある。だが、重要なことは「科学的な基盤」を主張する彼らのことばたちは、真理ではなく真理への欲望が渦巻いている場所なのだという点だ。それが見えなくなると、人びとの中から出てくる言葉を奪い、その上で彼らの「科学的基盤」に乗ったことばを語らされることになるだろう。「科学」概念を単数化し、事象を縮減したことの効果は、事実認定や事象の課題を縮小するだけでなく、私たちの言葉=思考をも縮減してしまう力を持っているのだ。


3,ここに書かれた言葉によって「しあわせ」になるのは誰か?


これはもはや明らかなことだが、この言葉たちによってしあわせになるのは、一義的には執筆者であって、原発事故について思考を巡らす全ての人ではない。現に私は、一字一句詠むたびに切なく、悲しい気持ちになった。ここにあるのは、「科学的基盤」を最終審級(開沼によることば)として、低線量被曝の危険はない、と言い切ってしまえば、多くの対立や分断がみかけのものになる、というきわめて単線的なことばの流れだ。


少なくてもその「科学」その「正しさ」への信頼が根こそぎ奪われたからこそことばを紡ぎ続けていかねばならないと考えたエチカ福島とは全くことなることばに対する姿勢がここにはある。


4,彼らの言葉がもつ暴力の波及する範囲


非歴史性をもった歴史主義的実証

科学的に小さな値や現状を持って基盤とする擬似的な実証主義

むしろ「正しさ」をふりかざすパターナリズム

ルサンチマンを公共性とすりかえる手さばき


かれらの言葉たちが持つ暴力の波及する範囲はきわめて広い。

そのことによってどんな被害がさらに再生産していくのか。

(未完、続く)

















漫才「オズワルド」が面白い。

2022年01月07日 12時01分36秒 | メディア日記
M-1で優勝を逃した、と話題の「オズワルド」がおもしろい。


賞レースに若手の漫才師の人たちがこだわるのもそうだろうな、とは思う。実際私も2021年のM-1の決勝番組で「オズワルド」を初めて意識したのだから、なるほどM-1の効用は大きい。

しかし、「オズワルド」の面白さはちょっと他の人とは別次元だったと思う。
特に決勝の一発目のネタ、「友達」はやはり歴史的傑作かと思う。

「サンドイッチマン」も「ミルクボーイ」も、安心して身を任せられるという意味ではとても素晴らしい。
コント「空気階段」のテイストもスゴいと思う。

だが、マイクの前から動かず、小さな糸口からシュールな世界を展開する畑中と、突っ込みながら飲み込まれていく伊藤の絶妙なバランスは、比類ない手練れ、との印象を持つ。
もとよりお笑いの良い受け手ではないし、「ラーメンズ」「ポイズンガールバンド」(活動休止中ときく)「笑い飯」など、大きな笑いよりはシュールな世界観に惹かれる方なので、一般的にどうなのかは分からない。

しかし「オズワルド」はスゴいと思う。
YouTubeで「オズワルド」と検索するとかなりの数のネタが観られます。よろしかったら。


「ゴシップ」見始めてしまった黒木華の連ドラ

2022年01月06日 23時41分00秒 | メディア日記
2022年1月6日から始まったフジテレビ系の連ドラ
『ゴシップ』(黒木華主演)
(内容はHP参照のこと)

を見始めてしまった。まずい。見続けてしまいそうだ。
黒木華という女優を真面目に観たことがなかったのだが、今回の

「空気を読まない」

キャラが楽しい。

そして、捜していた証拠を発見したときの表情

「みぃーつけた!」

がちよっとコワくて萌える。

斜陽な出版業界のそのなかでも採算のとれないWEBニュース部門の廃部or建て直しという物語の枠組みは、今をうつすフレームとしても好適だろう。


特にオススメしなくてもいいとは思うが、自分は観ていたい種類の女優さん、というか演技だ。



『フロイト入門』妙木浩之を2022年の初めに読む。

2022年01月05日 11時30分00秒 | メディア日記


最近物忘れがひどく、読んだ本の題名も中身もきれいに忘れてしまうということがあるので、干からびたブログに水遣りをするぐらいの積もりで、メディア日記を書いていこうと思う。
まず第一冊目。

年の始め、ちくま新書の
『フロイト入門』妙木浩之
を読んだ。

フロイトについてのスキャンダラスな出来事、新たに分かった史実、家族や弟子との葛藤に満ちた関係etc.

人間フロイトを観ることが、精神分析のフロイトを入門しなおすことになる、という感じの本。

興味深い。


弟子との関係は特に各説の早わかりとしても便利。どこから読んでも面白い。フロイト全集を古本屋で購入したこともあるので、今年は改めて少し覗いてみようかと思っている。



冬こそ屋根を開けて走ろうロードスター

2022年01月04日 11時29分00秒 | クルマ
「○○には二種類しかない。」
という常套句がある。
不適切なほどそのジャンルの沼にはまった人が必ずといっていいほど一度はつぶやいてしまう、あれだ。

例えば私の場合、

「車には二種類しかない。屋根が開くか開かないかだ。」

ということになる。

まあそうはいっても、屋根が開けば何でもいいというわけではなく、結局のところ「ライトウェイトオープンFRスポーツ」のマツダロードスターがいい、ということになるのだが、趣味というのはわがままなもので、譲れない一線をどうしても設定してみたくなってしまう。


正直なことをいうと、私の乗っているNCはマツダロードスターのシリーズの中では最も重量が重く、

「車には二種類しかない。軽いか、重いかだ。」

派の人からは同じロードスターでも継子扱いされがちだったりもする。

退職&看護の日々を迎えるにあたって三年前に手放したロードスター(NC初期型のVS・RHT)が、戻ってきて三ヶ月、改めて手になじんできた(もはやそういっていいだろう)愛車は、冬場に屋根を開けて走るのが最高だ、と改めて実感した。

オープンカーオーナーにも実は、屋根を開ける派とあまり開けない派がいる。私は典型的な前者だ。
せっかく屋根の開くクルマに乗っているのに、開けないなんて勿体ない、と思う。中でも冬場に防寒着に手袋とマフラー
を身につけて、シートヒーターをかけながらオープンクルーズをしていると、世界中の幸せを一身に身に受けているような錯覚を覚えるほどだ(笑)。

オープンカーは冬が似合う。
 本当は輸入車の洒落たオープンにでも乗れば良い年齢なのかもしれない。でも、見せるクルマでなくていい。乗って楽しく、10年以上の思い出が詰まっているクルマが手元に戻ってきたのだから、可能な限りオープンクルーズを楽しみたい。

助手席に乗る酔狂な客はそうそういないだろうから、独りで、ゆったりと。

喪ったはずの人生の楽しみが一つ、帰ってきた。
今年はこの愛車とゆっくり付き合っていこうと思っている。

冬のオープンクルーズは露天風呂にも比せられる気持ちよさですよ。よろしかったらぜひ一度ご賞味あれ。

アニメ『王様ランキング』をサブスクでイッキ見。

2022年01月03日 11時06分00秒 | メディア日記
『王様ランキング』のアニメをサブスクでイッキ見した。
(作品については以下のサイトを参照。

面白い。一見童話、というか絵本的なキャラクターに見えて、漫画らしい仲間を作っていく成長物語にもなっているし、内面的葛藤もキャラクター毎に適切配分されているし、今時の作品らしくテンポも速い。

息子に聴いたところ、作者は中年の挫折組で、40歳過ぎてからネットでバズったところから、の逆転勝利作品、とのこと。

お話の枠組みは、全く無力で誰よりも弱く耳が聞こえず口も利けない主人公の王子が、父親の遺言では次の王になるはすだったのに、諸々の思惑が重なって王位に就くことができずに暗殺の危機を乗り越えて落ち延びるという典型的な貴種流離譚の結構だが、一人一人のキャラクターに付与された荷物、というか強いられた宿命のようなものが簡潔にしかもキチンと書き分けられているのがすばらしい。

思えば『鬼滅の刃』もそうだったが、それぞれのキャラクターが抱える各々の物語を蔑ろにすることなく、メタ的な解釈をするのではなくてそれらの物語をキチンと束ねて言ってくれる「無力さ」の秘密(別に隠されてはいないが)がここにもある。
隠された物語が明らかにされる、必要はない。それは一つのカタルシスに過ぎない。
今も求められているのは
「たった一つの冴えたやり方」
ではないのだ、と改めて思わせてくれる一作。

マンガについては『ゴールデンカムイ』を読むべくまんが喫茶に籠もらねばならないのだが、その前に、らねばならないことがあるので、そのやらねばならない原稿の代わりに、サブスク映像逃避をしている。

しかし、面白かった。
お暇なら観ておいて良いかもー


『マトリックス』1~3をサブスクでイッキ見した感想

2022年01月02日 10時46分00秒 | メディア日記
『マトリックス』をシリーズ三巻イッキ見した。最近サブスク沼にはまっているのでなにでみたか判然としないが、多分Netflix。

第一作目は文句なしに何度観てもスゴいと思う。仮想世界と現実世界を往復しつつ、あの世ではなくこの世に幸せをもたらす救世主の覚醒を描く。皆さんご存知の傑作に贅言は不要だろう。
「ケータイで連絡が取れるのになぜ電話?!」
と突っ込みながらも、夢の中でなんとか自己=世界の崩壊を防ごうとする絶望的な恐怖や、うつせ身を宇宙船に置いたまま、仮想世界の死はそのまま現実世界の死につながり、しかも現実世界の生身歯無防備な無意識状態にあるなどのジレンマをここまで見事に映像化していることに改めて感嘆する。

つまり、普通ファンタジーは虚構の世界で空を飛んだり最強になったりするが、私たちの現実世界こそが虚構だ、とすることで、怪獣も魔法も出さずに実写化することが可能になっている。
他方、リアルに気持ち悪い世界(例えばエイリアン)の描写も、リアル世界という設定になっているからこそ気持ち悪さがこちらに迫ってくる。

いろいろね意味で凄かったのだなあ、と思う。

2と3は、袋小路になった「哲学」とお金をかけた「アクション」の二分法でお話が進行するから、これはこれでサービスとしてはあり、ではあるにしても、一本目の仮想-現実の繰り返される往復と反転のわくわくには及ばない。
さらっと復習するのが吉かも。


映画『偶然と想像』を観た。

2022年01月01日 10時28分00秒 | メディア日記
年末(2021年12月29日)、友人の退職祝い兼忘年会兼編集会議で福島に行った帰り、時間が会ったので
友人に勧められていた映画
『偶然と想像』を観た。
メチャクチャ面白かった。

映画の内容は下記を観てもらうといい。
監督が最初に登場して、舞台挨拶さながら客席に語りかけるのも楽しかった。
40分前後の短い独立した映画が三本「偶然と想像」という題の下に映されていくのだが、一番びっくりしたのは、映画の中身ではなく、極めて個人的な体験のことだ。

(誰でもするように)映画館を出て車に戻るまで歩きながら内容や印象を反芻する。いつものようにそれをしよう思って映画館の階段を下りはじめたとき、

「あれ?」
と思ったきり、固まってしまった。

二本目の映画の内容が全く思い出せないのだ。

一本目の三角関係めいた話は覚えている。三本目の女性二人の同窓会ネタも大丈夫。ところが、二本目の内容が分からない。

余りにキレイさっぱり抜け落ちているので、だんどん怖くなり、答え合わせのために映画館に戻ってパンフレットを買い、しかしそれを開かないままもう一度最初から思い出そうとしてみた。

だめだ……。

なんとしても思い出せない。

一本目のラストシーン、工事中の都会のビル街は思い出す。

三本目の始まり、仙台駅前のシーンも分かる。
なぜ間の二本目の記憶だけ、まるごと消えているのだろうか。

周りの人にこれを言うと「老化」「痴呆」「認知症」と決めつけられてしまいかねない、このまま思い出さなかったら病院にいかなきゃならない、など、余計ななことが頭を過り、かえって思い出せなくなる。

この後すぐに思い出せばネタ(笑い話)になるかもしれない。だが、パンフレットとかサイトを観るまで思い出さなかったら、自分自身にとって洒落にならない。

たった今、数10分前に観た映画なのだ。その前も後も分かるのに、と思うだけでだんだん背筋が寒くなってくる。

歩く速度を緩めて、念力を使うように全身全霊で思い出そうとする。
横断歩道の信号待ちで、うなり声をだしそうになるほど苦悶していると、金属でできた卵のようにツルツルして手がかりのないその記憶の塊の表面に、糸屑の綻びのようなものの手応えが見えた。
それを触って引っ張ろうとするがなかなか糸の先が掴めない。そうイメージしているうちは記憶の内容が全くこちら側には流出してこないのだ。信号が青になる。歩き出す。
あ、と思ったら……思い出しました。

エロい本を朗読する女性の情景が。
(内容は本編をご覧ください)

いやー、マジで焦りました。
人生の中で記憶に絡む「バグ」は何度か経験していて、その多くは
「運転中に、今走っている道路についての見当識を失う」
というもの。
平たく言うと、
「今どこの道路をはしっていて、道路の先がどうなっているかわからず、だから目的地へ向かう手順もそこ方向も全くわからなくなってしまう」
というもの。

知らない道を走っていれば同じ状態じゃないかって?
そうではないのです。それはあたかも分からないものの中に放り込まれた恐怖とでもいうか、走っている車の速度についていけないぐらいのパニックなのです。

今回のものはそれとはすこし種類が違っていました。

この短編三部作のパワー、つまり
全く異なった想像力を観るものに強いてきて、それを切断しつつ繋いでいく力、にやられたのかもしれません。

もしかすると、普段からこういう忘却を経験しているのかもしれなくて、この作品の「偶然」と「想像」と「切断」が、むしろ普段なら抑圧してしまうような「切断」=忘却を、表層に浮かび上がらせたのかも?

そんなことを思ってしまいました。

おもいだしてよかった、ですけど。

できればぜひ、映画館の暗闇でご賞味あれ。