龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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佐藤亜紀『ミノタウロス』を読んだ。

2011年12月18日 11時23分43秒 | 大震災の中で
昨日、泊りがけの読書会に参加した。
国語教師の残骸たちの忘年会である。
まあ、団塊退職者の会合って、年金直ぐ出るから世の中溢れかえってるんだろうねえ。

もっとも、この会合は30年以上続いている、多分福島県では1番歴史が長く、冊数も1番たくさん読んでいる、従って年齢層も上の化石的な会合なんですが。

なにせ50代の私が最若手ですから推して知るべし(笑)。


私がレポーターで、読んだ本は佐藤亜紀『ミノタウロス』。

参加者は元&現役の国語の教授&教師6名。
平均年齢は63,4才。

概ね不評、と見た(笑)。

いやもちろん、みんな小説読みの超手練れだから、勘所は外しやしない。

レポーターがよく知らないので黙っていたピカソのミノタウロスの話もワイルド・バンチの話もとびだし、タチャンカへの偏愛も、ちゃんと読み解いてくれる。

武器オタクで、歴史フェチで、マッチョラブなアンチヒューマンの活劇好きで、という、本文から匂い立つようなところもまあ言わずもがなに球を受けてはくれる。

それでも、この作品の「読者」は、多分わたしだけだったのだろうと思う。

「すかっとしねえんだよね」
と、
「『シチェルパートフ』的人物が書けるんだったら、4,5000枚でこのロシアを描ききればいい」
「そういう意味ではゲーム的」
が、じいばあ予備軍の主たる批評だった。

その中では、ある種の虚無性を示した作品として大正期に日本でも人気があり、新潮の文庫になっていたロシア小説
『最後の一線』
を思い出した、といっていた老教授の言葉が印象に残る。

私はこの佐藤亜紀の『ミノタウロス』を、徹底的に「今」の小説として読んだ。

だが、老人予備軍の「不評」もまた、いくつかの変数を掛けなければならないにせよ、間違いなく「今」の声だろう。この小説の「コントロールされ感」は半端じゃない。

彼ら「亜老人たち=読者層」の敢えてする無理解の態度
と、
作品自体の敢えてするカオスに満ちた暴力描写の透徹性というか、ヲタク的記号コントロール感とのせめぎ合い

とは、そのまま自分の「今」の課題として瞳に映る。

では自分は何をどう「偏愛」するというのか?単に作品を愛でて終わるわけにはいくまい。作品を捨てる身振りを忘れずにいたいものだ。

無論作品を捨ててファンタジーを拾うって話じゃありません。

震災からこっち
「小説が読めない」
という悩みを抱え続けてきたことの意味も、少し見えてきそうなきがする。

この項目、続けて考えねば。



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