ついでだから、教育論について思いつきを書いておく。
國分功一郎論のための覚え書き(1)のほうもどうぞ。
(The Red Diptychさんの書きブログに触発されて書いています。こちらも参照のこと)
http://d.hatena.ne.jp/HowardHoax/touch
近代の学校制度が始まってから130年以上経ち、私たちはそろそろ教育についてゆっくり考えておいてもいい時期になってきた、と思う。
よく教育改革は喫緊の課題だ、とか焦眉の急だ、みたいに「学力低下」なんぞや「英語教育」などを主題にして、こどもだましの小論文ネタを喧しく論じる場合がある。
そーゆー小さいことは今は措く。
まあ、大切なことなのかもしれないけれど、所詮単一レイヤーの中の事件ってかんじだ。
あ、一言だけ言っておくと、学力を上げたければ上げればいいし、英語を勉強させたければさせればいいと思う。
誰かに任せて上手く行かない、と文句を言うのはもうそろそろやめた方がいいのではないか。
無論教育にはコストがかかる。
家庭の経済状態が悪くて大学とか専門学校にいけないヒトもいる。だが、こんなことを言うのは公立高校の教師としてはあまり適切な発言ではないのかもしれないけれど、自ら楽しむための学び、学びの楽しみの贅沢ならば、様々な形で供給されている。むしろ学校で学ぶがためにつまらなくなってしまうことの、なんと多いことか。
例えば英語を学ぶのに、なにも今の30人も一部屋に入れて扱う制度である必要はない。
もともと今までの学校は「動物」を「人間」に仕立て上げることが目的だった。
これもまたひんしゅくかもしれないが、その「人間観」がもういまや拡散・多層化してしまっていて、学校の教室では昔以上に上手な教室統制・統御の技術が求められてもいる。
教室の権力体系は、いまやかつてないほど微細なところまでコントロールが必要となっていながら、なおかつそこを各々が越え出て行くアクションを促す必要に迫られてもいる。
かつては学級王国などと呼ばれたが、今でも教室は密室空間だ。状況定義力を欠いてしまうと、ほぼ収拾がつかなくなり、いったん崩壊した秩序はこの年度に回復することはほぼ期待できない。
教育は、少なくても近代以降の教室における教育は、あまりにもあからさまな権力の渦巻く場所であり続けてきた。
教育はだから、絶えざる状況定義の更新を前提基盤とする営みにほかならない。
教育の才能は、状況定義力=権力(≒暴力)の行使に関わっている。
だから(何がだから、なのかよくわからないが)、『暇と退屈の倫理学』の、ある種暴力的なまでの明快さは、古今様々な哲学者・思想家に言及しつつも徹底的にそこで「私的」な意味で権力を振るうその状況定義力の行使モデルとなっているのだ。
モデルであることを明示したモデル。
あるいはシナリオとしての「思考」の経路提示といってもよい。
誤解のないように付け加えるが、これは確かに一見強引な答えの提示のように見えるかもしれない。
(1)で紹介したブログ子も、そう分析したのか、と思われる。でも、その意図が十分適切な配置として機能しているのかどうかの評価は別途必要だとしても、この本を読んだ読者は、正解を受領してお仕舞いにはならないのではないか。
また同時に、「答えを求めて」自ら学問する、という風にもならないのではないか。
むしろ、単純に外部の答えを求めるのではなく、歩き出すのだと思うよ。
この本には、ロールモデルを提示してシナリオ学習するシステムと、シナリオが単純な真理への道ではない、という繊細なコントロールが同時に身振りとして配置されている。
つまりは、これ『暇倫』を読むこと自体が、暇と向き合う行為自体ではなく(ブログ子が指摘している通りですね)、むしろ一つのシナリオ学習のようになっているのではないか、ということだ。
補助輪外すのにまで大人の手を借りなければならないとすれば、確かになかなか独り立ちして自転車に乗る機会を逸する危険もある。
この本は千葉雅也氏が言うように、ほとんど「自己啓発書」のスタイルに近い。
超訳みたいなね。読者を上手にある定義に導いてよし、とするような。
でも、実はこれは権力の使い方の入門書、でもあるんじゃないかな?
だから、これはやはり教育的な書物なのだと言うべきだ。
一度目は状況定義力の行使それ自体として、二度目はそれのシミュレーションとして、三度目以降の参照においては、共に歩くテキストとして、変容していく可能性を持っていると思う。
多層なレイヤーを持ちつつそれをどこかて共鳴させることで別レイヤーの幽霊が立ち現れるような。
(この項目、もう少し考え中で)
國分功一郎論のための覚え書き(1)のほうもどうぞ。
(The Red Diptychさんの書きブログに触発されて書いています。こちらも参照のこと)
http://d.hatena.ne.jp/HowardHoax/touch
近代の学校制度が始まってから130年以上経ち、私たちはそろそろ教育についてゆっくり考えておいてもいい時期になってきた、と思う。
よく教育改革は喫緊の課題だ、とか焦眉の急だ、みたいに「学力低下」なんぞや「英語教育」などを主題にして、こどもだましの小論文ネタを喧しく論じる場合がある。
そーゆー小さいことは今は措く。
まあ、大切なことなのかもしれないけれど、所詮単一レイヤーの中の事件ってかんじだ。
あ、一言だけ言っておくと、学力を上げたければ上げればいいし、英語を勉強させたければさせればいいと思う。
誰かに任せて上手く行かない、と文句を言うのはもうそろそろやめた方がいいのではないか。
無論教育にはコストがかかる。
家庭の経済状態が悪くて大学とか専門学校にいけないヒトもいる。だが、こんなことを言うのは公立高校の教師としてはあまり適切な発言ではないのかもしれないけれど、自ら楽しむための学び、学びの楽しみの贅沢ならば、様々な形で供給されている。むしろ学校で学ぶがためにつまらなくなってしまうことの、なんと多いことか。
例えば英語を学ぶのに、なにも今の30人も一部屋に入れて扱う制度である必要はない。
もともと今までの学校は「動物」を「人間」に仕立て上げることが目的だった。
これもまたひんしゅくかもしれないが、その「人間観」がもういまや拡散・多層化してしまっていて、学校の教室では昔以上に上手な教室統制・統御の技術が求められてもいる。
教室の権力体系は、いまやかつてないほど微細なところまでコントロールが必要となっていながら、なおかつそこを各々が越え出て行くアクションを促す必要に迫られてもいる。
かつては学級王国などと呼ばれたが、今でも教室は密室空間だ。状況定義力を欠いてしまうと、ほぼ収拾がつかなくなり、いったん崩壊した秩序はこの年度に回復することはほぼ期待できない。
教育は、少なくても近代以降の教室における教育は、あまりにもあからさまな権力の渦巻く場所であり続けてきた。
教育はだから、絶えざる状況定義の更新を前提基盤とする営みにほかならない。
教育の才能は、状況定義力=権力(≒暴力)の行使に関わっている。
だから(何がだから、なのかよくわからないが)、『暇と退屈の倫理学』の、ある種暴力的なまでの明快さは、古今様々な哲学者・思想家に言及しつつも徹底的にそこで「私的」な意味で権力を振るうその状況定義力の行使モデルとなっているのだ。
モデルであることを明示したモデル。
あるいはシナリオとしての「思考」の経路提示といってもよい。
誤解のないように付け加えるが、これは確かに一見強引な答えの提示のように見えるかもしれない。
(1)で紹介したブログ子も、そう分析したのか、と思われる。でも、その意図が十分適切な配置として機能しているのかどうかの評価は別途必要だとしても、この本を読んだ読者は、正解を受領してお仕舞いにはならないのではないか。
また同時に、「答えを求めて」自ら学問する、という風にもならないのではないか。
むしろ、単純に外部の答えを求めるのではなく、歩き出すのだと思うよ。
この本には、ロールモデルを提示してシナリオ学習するシステムと、シナリオが単純な真理への道ではない、という繊細なコントロールが同時に身振りとして配置されている。
つまりは、これ『暇倫』を読むこと自体が、暇と向き合う行為自体ではなく(ブログ子が指摘している通りですね)、むしろ一つのシナリオ学習のようになっているのではないか、ということだ。
補助輪外すのにまで大人の手を借りなければならないとすれば、確かになかなか独り立ちして自転車に乗る機会を逸する危険もある。
この本は千葉雅也氏が言うように、ほとんど「自己啓発書」のスタイルに近い。
超訳みたいなね。読者を上手にある定義に導いてよし、とするような。
でも、実はこれは権力の使い方の入門書、でもあるんじゃないかな?
だから、これはやはり教育的な書物なのだと言うべきだ。
一度目は状況定義力の行使それ自体として、二度目はそれのシミュレーションとして、三度目以降の参照においては、共に歩くテキストとして、変容していく可能性を持っていると思う。
多層なレイヤーを持ちつつそれをどこかて共鳴させることで別レイヤーの幽霊が立ち現れるような。
(この項目、もう少し考え中で)