龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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國分功一郎論のための覚え書き(2)

2011年12月29日 12時05分09秒 | 大震災の中で
ついでだから、教育論について思いつきを書いておく。

國分功一郎論のための覚え書き(1)のほうもどうぞ。


(The Red Diptychさんの書きブログに触発されて書いています。こちらも参照のこと)
http://d.hatena.ne.jp/HowardHoax/touch
近代の学校制度が始まってから130年以上経ち、私たちはそろそろ教育についてゆっくり考えておいてもいい時期になってきた、と思う。
よく教育改革は喫緊の課題だ、とか焦眉の急だ、みたいに「学力低下」なんぞや「英語教育」などを主題にして、こどもだましの小論文ネタを喧しく論じる場合がある。
そーゆー小さいことは今は措く。
まあ、大切なことなのかもしれないけれど、所詮単一レイヤーの中の事件ってかんじだ。
あ、一言だけ言っておくと、学力を上げたければ上げればいいし、英語を勉強させたければさせればいいと思う。
誰かに任せて上手く行かない、と文句を言うのはもうそろそろやめた方がいいのではないか。
無論教育にはコストがかかる。
家庭の経済状態が悪くて大学とか専門学校にいけないヒトもいる。だが、こんなことを言うのは公立高校の教師としてはあまり適切な発言ではないのかもしれないけれど、自ら楽しむための学び、学びの楽しみの贅沢ならば、様々な形で供給されている。むしろ学校で学ぶがためにつまらなくなってしまうことの、なんと多いことか。

例えば英語を学ぶのに、なにも今の30人も一部屋に入れて扱う制度である必要はない。

もともと今までの学校は「動物」を「人間」に仕立て上げることが目的だった。

これもまたひんしゅくかもしれないが、その「人間観」がもういまや拡散・多層化してしまっていて、学校の教室では昔以上に上手な教室統制・統御の技術が求められてもいる。

教室の権力体系は、いまやかつてないほど微細なところまでコントロールが必要となっていながら、なおかつそこを各々が越え出て行くアクションを促す必要に迫られてもいる。

かつては学級王国などと呼ばれたが、今でも教室は密室空間だ。状況定義力を欠いてしまうと、ほぼ収拾がつかなくなり、いったん崩壊した秩序はこの年度に回復することはほぼ期待できない。

教育は、少なくても近代以降の教室における教育は、あまりにもあからさまな権力の渦巻く場所であり続けてきた。
教育はだから、絶えざる状況定義の更新を前提基盤とする営みにほかならない。

教育の才能は、状況定義力=権力(≒暴力)の行使に関わっている。

だから(何がだから、なのかよくわからないが)、『暇と退屈の倫理学』の、ある種暴力的なまでの明快さは、古今様々な哲学者・思想家に言及しつつも徹底的にそこで「私的」な意味で権力を振るうその状況定義力の行使モデルとなっているのだ。

モデルであることを明示したモデル。

あるいはシナリオとしての「思考」の経路提示といってもよい。
誤解のないように付け加えるが、これは確かに一見強引な答えの提示のように見えるかもしれない。
(1)で紹介したブログ子も、そう分析したのか、と思われる。でも、その意図が十分適切な配置として機能しているのかどうかの評価は別途必要だとしても、この本を読んだ読者は、正解を受領してお仕舞いにはならないのではないか。
また同時に、「答えを求めて」自ら学問する、という風にもならないのではないか。

むしろ、単純に外部の答えを求めるのではなく、歩き出すのだと思うよ。

この本には、ロールモデルを提示してシナリオ学習するシステムと、シナリオが単純な真理への道ではない、という繊細なコントロールが同時に身振りとして配置されている。

つまりは、これ『暇倫』を読むこと自体が、暇と向き合う行為自体ではなく(ブログ子が指摘している通りですね)、むしろ一つのシナリオ学習のようになっているのではないか、ということだ。

補助輪外すのにまで大人の手を借りなければならないとすれば、確かになかなか独り立ちして自転車に乗る機会を逸する危険もある。

この本は千葉雅也氏が言うように、ほとんど「自己啓発書」のスタイルに近い。
超訳みたいなね。読者を上手にある定義に導いてよし、とするような。

でも、実はこれは権力の使い方の入門書、でもあるんじゃないかな?

だから、これはやはり教育的な書物なのだと言うべきだ。

一度目は状況定義力の行使それ自体として、二度目はそれのシミュレーションとして、三度目以降の参照においては、共に歩くテキストとして、変容していく可能性を持っていると思う。

多層なレイヤーを持ちつつそれをどこかて共鳴させることで別レイヤーの幽霊が立ち現れるような。

(この項目、もう少し考え中で)






國分功一郎論のための覚え書き(1)

2011年12月29日 09時23分01秒 | 大震災の中で
『暇と退屈の倫理学』について國分氏自身も紹介しているとても興味深い書評があった。

http://d.hatena.ne.jp/HowardHoax/touch/20111216

ぜひ参照を。

以下はそれについての簡単な感想。

でも、國分功一郎という名前を持つテキストにこれからたくさんのヒトが親しんでいくだろうことを考えたときに、考えておいてよいと思われる視点のメモでもある。

ブログ子が指摘するのは、『暇と退屈の倫理学』は『スピノザの方法』に見られるような「共に読む」感じが乏しく、むしろ一人で考えているのではないか?という疑問だ。
もちろんだからこそ、明快で、分かりやすい。でも、それは果たして読者を本当に教育することになっているのか?読者が自ら退屈と向き合い、停滞をはじめとする経験しながら自己訓練していく体験をもたらす書物足り得ているのか?
テキストとは停滞を排除するのではなく、むしろドストエフスキーのようにポリフォニックな身振りを持つことこそが、読書体験におけるファストフード化を拒むものなのではないか?

そういう疑問を提示している。

この視点の立て方は、納得。
『暇と退屈の倫理学』の異常なまでのリーダビリティの高さは、教育的なテキストとしてどうなのか?って視点のとこです。
なぜなら、デカルト『一撃必殺』の説得力と対比された『弱い説得』とは、國分氏自身がスピノザ主義者として掲げた旗、でもあるわけですから。

「弱い説得」をむねとしつつ、共に歩む身振り。

私はしかし、ブログ子の結論に、ただちには同意しない。
というのは、基本的に国分功一郎という名前を持つテキストの基本的スタンスというか、資質自体は、「一撃必殺の強い説得」にあって、決してスピノザ的な「迷路」を提供するものではない、と考えるからだ。

もし、國分功一郎のテキストがドストエフスキーやスピノザの身振りを身にまとっていたなら、それははなからこんな風に読まれ得るものではなかったはず。

私はむしろ、國分功一郎的テキストの本質をこう考えている。

デカルトの「一撃必殺」=「強い説得」の力を圧倒的に秘めながらも、その単一レイヤー上のテキストに終始するのではなく、境界線上の近傍にたち現れる幽霊、つまりは異なったレイヤー上の「影」にも仮の形を与え、多層なレイヤー(乱暴に敢えて言ってしまえば多層な環世界)を生きる意志のもとに、話法を設定している語りを持つのだ、と。

「惰夫をも立たしめる」のがテキストの力だ、なんてことを石川淳はたしか言っていた記憶がある。

その意味で、國分功一郎的テキストが持つ一撃必殺の強度を、デカルト的説得性においてのみではなく、異なるレイヤー間の共鳴や感染において「も」用いようとする姿勢として考えるならば、ドゥルーズ論における「自由間接話法」への言及も、「弱い説得」に触れるスピノザ論も、もちろん『暇と退屈の倫理学』も、「惰夫を立たしめる」感染性・共鳴性を持ち得ていると、見ることが可能なのではないか。
そういう意味では、私はこの著作を、
矢野茂樹『語りえないものを語る』
と並べて読む本だとおもっている。

ポリフォニックな響きは、テキストの内部だけでは終わらない、という「意志」を感じるのです。

デカルトから出発してスピノザに至る道、というのは、スピノザの道でもあると同時に國分功一郎の道でもある。でもこの道は同じレイヤーを重ねたものではなく、それぞれの仕方で、しかしスピノザのテキストという「磁場」という状況において見える異なったレイヤーの道、でもある。
スピノザをドゥルーズが読む、という行為(を読む行為)もまた、その「磁場」において異なるレイヤーを共鳴させ、感染させていく言葉の身振りなのではないか?

そんな風に感じられる。

テキスト論はガン無視、というブログ子の趣旨からは大分離れた話になったかもしれない。
必ずしも反論しているのではないような気がするのだが、いまはとりあえずのアイディアだけを書き付けておく。