龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

2011.12.23(水)の日記

2011年12月23日 23時09分27秒 | 大震災の中で
地元の小中高の合唱と吹奏楽が合同でXmasコンサート。

生の音楽はやっぱりいい。
しかし今年は市民会館が震災で閉鎖のため体育館での実施。

極めて寒い。
若くない身体には堪える。

あんなところとかそんなところとかにカイロを貼り付けて出動。
しかし、いささか時間早すぎたのでモスでコーヒーを飲み時間調整。

隣のマックのWi-Fiが入るのでここのモスが気に入っている。

本日ワゴン車の冬タイヤ購入。

朝から「人為の裂け目」と境界線(/)の違いについて考える。

夕刻、元同僚の父通夜。

朝食は温泉卵、海苔、シャケ。
昼食は控室でハンバーグ&鶏カツ&海老フライ弁当。
夕飯はとろろ、牛肉ゴボウ、イチゴとペア、豆腐、葱竹輪、なすとジャガイモの味噌汁。
夜、息子と「/」と裂け目の違いを話して共鳴する。
21:00少々コタツで寝てから、ストーブの前に座って宮台vs大塚『愚民社会』を読み返す。
共感はするが、同じ世代的ゆえのスタンスも感じる。今必要なのはその共通性の確認ではない。
同様に、東浩紀や和合亮一のスタンスを否定することが目的でもない。

あたりまえのことだが。
ただ、この「/」に対する違和感のありようをきちんと押さえておかなければ先に進めない。

で、個人的にやはり國分功一郎おそるべし、の結論。

22:30シャワーを浴びて就寝。

明日は歌川国芳展を見に行く予定だが、天気の予想はは荒れ模様とか。
心配だ。



それはだから「表現」の問題なのだ。

2011年12月23日 08時39分18秒 | インポート
ソウオモッテ寝床から抜け出した後、
ドゥルーズの『スピノザと表現の問題』
を思わず手にとった。

何度読もうとしても読めずにいた本の中の一冊。

まず
本質-属性-様態
とかいう用語から勉強し直さなきゃならないみたいな切なさ。

面倒くさい……っていうか、よくわからん。

でも、人為の裂け目にこだわるとすると、ここは避けて通れない道だ、と思う。

別にそれは何がなんでも
スピノザでなければならないというわけではない。
ドゥルーズでなければ、ということでもない。
多分中世キリスト教から考えたって構わないのだ。
今ここにまだ見えている「近代」の自明を疑うために「/」を参照することは出来ない、というだけのとこだ。

とにかく、裂け目に瞳を凝らし続けるのは容易じゃないってことだけはわかっている。

見なければ取り違えだって交換可能だ。
だが、裂け目に瞳を凝らす行為は、その向こう側にたやすく自然とか神様とかをはじめとする何かを
招き寄せてしまいかねない。
それでもなお、そこをみようとするときには、哲学が必要になる。自分にとって手近に転がっているのがそれらだ、というだけのことかもしれない。

まあとにかく、取り敢えず冬休みの課題図書は決まったようである。



境界線なのか、裂け目なのか。

2011年12月23日 07時08分49秒 | 大震災の中で
鈴木謙介もまた、思想地図beta2で「残余」という概念を持ち出す。
だが、それは実は思想地図beta2に集った言葉たちが持つ、「境界線」の思想の身振りなのではないか?

違和感の正体はどうもその辺にありそうだ。

私は当初から
「人為の裂け目」
「自然=&≠人為」
という捉え方をしていた。

震災以前/以後=変化
境界線の中/外=残余

という言葉の身振りに、決定的な違和感を持つ、ということだ。

それは実はやはり同様に、

宮台と大塚の対談に見る
市民/土人=近代民主主義
エリート/田吾作=敢えてする共同体論

のあられもない正直さに対するうんざり感にも通じている。

内田&高橋源一郎の

上昇/下降
中心/辺境

の区分に、よって「場所」を切り分けるご隠居思想も同様ではないか。

もちろん境界線を拒めばよい、というものではない。

「昔から反原発を唱えていた偉人がいる」
、なんていう論調にすら聞こえる上野の言葉は、宇宙の言語みたいだし。

そう。
私は語り方、スタイルを問いたいのだ。

「境界線の近傍に現れる幽霊たちに瞳を凝らしたい」

とかつて私は書いたことがある。

今はそこに
「人為の裂け目」
をみいだし、そこに
自然=人為
自然≠人為
を重ねつつ、強度と弱さ、力と無力を同時に見たいのだ。

だから、問題の大きなポイントは、語られ方の姿勢に関わる。

國分功一郎がドゥルーズ論で
「自由間接話法」
に注目することと、シンクロしている。

それは萱野稔人が『ナショナリズムは悪なのか』で展開しているナショナリズムの可能性条件の読み直しにも関わるし、白井聡が『未完のレーニン』で語る「一元論的な力」についての語りにも関わる。

それは語る姿勢の課題であると同時に、時間の扱い方でもある。

少しは見えて来たような気もするが、例によって
「ボケてきたから判ったような気がする」
症候群、でない保証はどこにもない。むしろ、「福島」を単純に「聖痕」と読み替えただけじゃねぇか疑惑もそこには残る。

でも、どの「病気」を選んで「適応」するか、とかいう単なる「匙加減」の話でもないと思うね。

「小説が読めない」
症候群の説明も掴めてきそうだ。

現実/虚構

とあると、「/」に目がいく状態なのだね、今の自分は。

それがナショナリズムの再定義の問題でもあり、自由間接話法の問題にもなり、時間軸で震災後以後を分ける行為をスカタンだと感じる所以でもあるのだ。

その「/」は、人為の裂け目でもあり、自然の営為でもあり、ヒトが受ける「聖なる痕跡」でもあるのだ。
そこには動物的恐怖と、人間的存在論の恐怖と、社会的権力の隙間の露呈による恐怖が重ねられている。

だから、それを語るには知性の強度が必然的に要求されざるを得ない。

そういうことだったのだ。

『スピノザの方法』を読んだのが何時なのか、がとても気になってきた。