龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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現代思想2011年12月増刊号『上野千鶴子』を読む

2011年12月07日 02時44分33秒 | 評論
現代思想2011年12月増刊号『上野千鶴子』を読む
をJUGEMブログ「メディア日記龍の尾亭」に書きました。

フェミニズムという思想に出会ったときは衝撃でした。
女の子の謎は、女性が女性であることによって引き起こされているのではなく、むしろ男の側の幻想というかホモソーシャルな排除・抑圧の結果なのだ、と突きつけられた「真実」はびっくり仰天。

無論女性性とか男性性とかは「社会的に作られる」
ぐらいのセリフは子どもの頃から知ってはいたし、ジェンダー概念まではっきりしたものではなくても、どうも「女らしい」とか「男らしい」とかいう手合いはおよそ胡散臭いのは分かっていた。

けれど、上野千鶴子が挑発的に論じる「フェミニズム」は、「性なんて単なる役割や幻想なんだよね」的なお話じゃなくて、読者である「男の子」の自分が、女性性に対する男性として「当事者意識」を持たされていく巻き込まれ感がありました。戦闘的だったんだよね。

自分はそんな戦闘の対象じゃないよっていっても、聞いちゃもらえない感じがあって、それはどうにも理不尽だなあ、と素朴に感じていました。

敢えてするカテゴリー優先の議論の戦闘性は、面白くもあり、やっかいでもあったのを記憶しています。
でも、その「訓練」から、カテゴリーの臨界面を教わりました。

「性」は外にあって着脱可能な範疇じゃない。
自分たちが生きる前提となっている引きはがせない「下駄」であって、それらは社会が男や女を追い詰めて抑圧し、あるいは機能させていく内面化されたシステムでもある。

そしてそれは、「性」の問題だけじゃなくて、「政治」・「権力」の問題でもあるのだ、と目を開かされていくことになります。

結局フェミニズムの問題それ自体に対する理解はあまり深まった記憶はないけれど、社会学的な匂いについては教わったことになるのかもしれません。


旧福島市内のおコメ出荷停止のニュースに対して

2011年12月07日 01時01分24秒 | 大震災の中で
あまりにも周囲の人が驚いていないことに、今日は驚いた。

その土地で作った米を食べられない、そういう場所に住むことのしんどさったらないと思うんだけどなあ。
どうなんだろう。

私は、身体から何かが抜け落ちてしまいそうな脱力感を覚えます。

旧福島市内のコメ出荷停止は、とてもとても大きなショックでした。
このままでいいのだろうか、と考えているうちに心が音をたてて軋んでいくような気がします。

自分の住む土地の作物が食べられないということ。
しかも、主食ですから。毎日食べるべきものがクチにできない悔しさ、不安、憤りに、身体が震えてきそうです(必ずしも比喩ではなく,寒気がします)。

東日本のものはクチにしない、という人もいます。
福島県内に留まっていること自体が大問題だ、という人もいます。
そんなことをいったってそう簡単じゃないぜ、と私自身はずっと感じてきたけれど、今回は正直しんどい。

後出しで、安全を何度も何度も語った挙げ句にもう、身動きが取れなくなったところでハシゴを外すようなことをし始めている。福島県が他県に避難住宅の費用立替え終了を要請する、なんて話もご同様か。
重大でかつ数値の出そうな内部被曝・食品関係の計測は遅々として進まない現状も同断だろう。
福島県沿岸部の魚への影響も、とうてい積極的な情報の開示にはほど遠い。

このまま福島県に踏みとどまりながら、闇の中を立ちすくむようなことに、十分な意義を見いだせるのだろうか。
セシウムの被害それ自体よりも、食べられないことがダメージだった、といったら、愚かだと笑われるだろうか。

たかが人為的にしかも暫定的に決められた出荷基準に抵触したというだけのことだ。
だが、それほどの「とりあえず」のなんちゃって基準でも、食べられないと判定されたっていうことの負の意味は、思いの外に重かったようだ。

福島市民にとっては余計なお世話、かもしれない。外野が何をいってもなかなか境界線の内部には声は届かないものだ。

でも。

「境界線の近傍」に身を置くようなふらふらした生き方をしてきたからか、むしろ余計に今回のことがボディブローのように「効いて」きそうなのです。





上野修『デカルト、ホッブズ、スピノザ』講談社学術文庫を読む

2011年12月07日 00時44分03秒 | 評論
上野修『デカルト、ホッブズ、スピノザ』講談社学術文庫を読む
メディア日記龍の尾亭」に書きました。

上野修センセの文章が頭にすっきり入ってくるようになったのは、時代の変化かこちらの脳味噌が変質したのか(進歩したと言うより、むしろ惚ける一瞬前のクリアさ、という意味で)。

國分センセがデカルト読みというスタンスからスピノザを丁寧に読んでいったと言っていたのに少し近い感じで、この本での上野センセは、ホッブズからスピノザに接近している。

その中でスピノザがデカルトやホッブズから「異様」にズレている様を描き出していく。

まあ、スピノザっていう人をデカルトの延長戦上の言葉で語ろうとするとどうしてもそうなっていくのだろう。
もう一つの「近代」の可能性をはらんでいた17世紀、という視点。
そして、私達がその説明として使用している近代的な「論の前提」それ自体が反転していく形で示されていくスピノザ像。

かつては「近代的思考」を自明の前提としている、ということを前提としてスピノザの「異様さ」を描出していたのだろうな、と上野論文を読んで感じた。

それは上野センセが、というより、時代がっていう感想ですが。

だから、今読むと分かりやすい。
その場所から距離を持つようになったから。

じゃあ、「今」私は私達はどこにいるのか?
「本来性なき疎外」(國分)や、「一元論的<力>」(白井聡)という言葉がその場所を指し示しているようにも思われる。

今はもっと様々なところからのアプローチが始まっている、という感じもある。
そういう意味では上野修のこの論文集は、ちょっと息苦しい生真面目な感触もないではない。

偉そうにいうなって話ですがね。
いや、その「生真面目」な感じに導かれてやっとぼんやりと話の輪郭が見えてきたってことなんですけれど。

面白いです。お薦め。