「現代思想2011年12月増刊号『上野千鶴子』を読む」
をJUGEMブログ「メディア日記龍の尾亭」に書きました。
フェミニズムという思想に出会ったときは衝撃でした。
女の子の謎は、女性が女性であることによって引き起こされているのではなく、むしろ男の側の幻想というかホモソーシャルな排除・抑圧の結果なのだ、と突きつけられた「真実」はびっくり仰天。
無論女性性とか男性性とかは「社会的に作られる」
ぐらいのセリフは子どもの頃から知ってはいたし、ジェンダー概念まではっきりしたものではなくても、どうも「女らしい」とか「男らしい」とかいう手合いはおよそ胡散臭いのは分かっていた。
けれど、上野千鶴子が挑発的に論じる「フェミニズム」は、「性なんて単なる役割や幻想なんだよね」的なお話じゃなくて、読者である「男の子」の自分が、女性性に対する男性として「当事者意識」を持たされていく巻き込まれ感がありました。戦闘的だったんだよね。
自分はそんな戦闘の対象じゃないよっていっても、聞いちゃもらえない感じがあって、それはどうにも理不尽だなあ、と素朴に感じていました。
敢えてするカテゴリー優先の議論の戦闘性は、面白くもあり、やっかいでもあったのを記憶しています。
でも、その「訓練」から、カテゴリーの臨界面を教わりました。
「性」は外にあって着脱可能な範疇じゃない。
自分たちが生きる前提となっている引きはがせない「下駄」であって、それらは社会が男や女を追い詰めて抑圧し、あるいは機能させていく内面化されたシステムでもある。
そしてそれは、「性」の問題だけじゃなくて、「政治」・「権力」の問題でもあるのだ、と目を開かされていくことになります。
結局フェミニズムの問題それ自体に対する理解はあまり深まった記憶はないけれど、社会学的な匂いについては教わったことになるのかもしれません。
をJUGEMブログ「メディア日記龍の尾亭」に書きました。
フェミニズムという思想に出会ったときは衝撃でした。
女の子の謎は、女性が女性であることによって引き起こされているのではなく、むしろ男の側の幻想というかホモソーシャルな排除・抑圧の結果なのだ、と突きつけられた「真実」はびっくり仰天。
無論女性性とか男性性とかは「社会的に作られる」
ぐらいのセリフは子どもの頃から知ってはいたし、ジェンダー概念まではっきりしたものではなくても、どうも「女らしい」とか「男らしい」とかいう手合いはおよそ胡散臭いのは分かっていた。
けれど、上野千鶴子が挑発的に論じる「フェミニズム」は、「性なんて単なる役割や幻想なんだよね」的なお話じゃなくて、読者である「男の子」の自分が、女性性に対する男性として「当事者意識」を持たされていく巻き込まれ感がありました。戦闘的だったんだよね。
自分はそんな戦闘の対象じゃないよっていっても、聞いちゃもらえない感じがあって、それはどうにも理不尽だなあ、と素朴に感じていました。
敢えてするカテゴリー優先の議論の戦闘性は、面白くもあり、やっかいでもあったのを記憶しています。
でも、その「訓練」から、カテゴリーの臨界面を教わりました。
「性」は外にあって着脱可能な範疇じゃない。
自分たちが生きる前提となっている引きはがせない「下駄」であって、それらは社会が男や女を追い詰めて抑圧し、あるいは機能させていく内面化されたシステムでもある。
そしてそれは、「性」の問題だけじゃなくて、「政治」・「権力」の問題でもあるのだ、と目を開かされていくことになります。
結局フェミニズムの問題それ自体に対する理解はあまり深まった記憶はないけれど、社会学的な匂いについては教わったことになるのかもしれません。