【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「マイ・バック・ページ」

2011-06-02 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

山下敦弘監督、微妙な題材を選んじゃったかなあ。
どうして?
だって、全共闘運動が激しかった1970年前後に事件を起こした左翼思想の学生と若きジャーナリストにまつわる話だぜ。
いまどき、ハードな題材に、いつもは脱力系の山下敦弘監督が臨む。野心的な試みじゃない。
あの時代を知っている観客がまだまだ健在な中で、あの時代を知らない連中がつくるんだぜ。そうとう厳しい視線にさらされてもしょうがない、勝ち目の薄い企画だ。
最初から、負けている?
負けた側の連中を描く話だから、それでいいのかもしれないけど。
妻夫木聡扮するジャーナリストは自分と取材対象者の距離に悩み、松山ケンイチ扮する学生は安田講堂の立て籠もりに間に合わなかった。取材する側とされる側とはいえ、時代の焦躁感にかられた二人が近づいていくのは必然よね。
というところだけど、そのきっかけが「雨を見たかい」じゃあ、ちょっと弱いような気がしないか。CCRっていえば、あのころは猫も杓子も知っていた。
もうひとひねり、二人が共感しあう二人だけのエピソードがあってもよかったかもしれないわね。
でなければ、妻夫木聡はただ単に松山ケンイチに騙されただけのお坊ちゃんに見えてしまう。
結局、松山ケンイチはただの犯罪者だったのか、それとも崇高な思想犯だったのか。
どっちにしたっていまの感覚ならただの犯罪者だけど、あの頃、思想犯っていうと何か錦の御旗を得たみたいな妙な空気感があったのは確かだ。妻夫木聡がひかれていったのも仕方ないところはある。
政治の季節の熱狂、あるいは熱狂のあとの残り火の時代だからね。
でも、そういう気分がやっぱり足りないかなあ。そういう時代だったんだ、って観客をねじふせるだけのつくりにはなっていない。
時代に動かされちゃったなあ、っていう感慨がね。
それを“涙”のほうに持っていっちゃったけど、“涙”というより“ため息”に近い気がするんだよなあ。
「いろいろあったけどおもしろかったよなあ」とか「きちんと泣ける」というより、「仁義なき戦い 頂上作戦」で菅原文太がつぶやいていたような「俺たち間尺に合わない仕事したなあ」っていう湿気た気分。
そう、かっこよすぎるんだよ、妻夫木君。
原作者が川本三郎だけに映画にまつわる会話もいろいろ出てくるけど、あれも、もうちょっと深掘りしてほしかった。
「ファイブ・イージー・ピーセス」とか「真夜中のカーボーイ」とかグッとくる選択だけど、会話でちょっと触れるだけじゃ、ああいう映画の凄さの核心がよくわからない。そこで涙のありがたみを語られても、実際に映画を観てない人に伝わるんだろうか。
「真夜中のカーボーイ」の絶望的な二人組に比べると、この映画の二人組はまだまだ甘っちょろい?
この映画も、もっとハッタリを効かせてほしかった。
そういう意味では、松山ケンイチがエセ自衛隊員を仲間に引き込むくだりはそうとうキてたけどね。
もっとああいう狂気が漲っていれば時代の何かをすくいとれたかもしれない。
それは本来、脱力系の山下敦弘監督の限界かしら。彼にしては意外なほど誠実な映画に仕上がっていて驚いたんだけど。
平山みきの歌つながりの画面転換は、キてたけどな。
この際、いつもの山下敦弘らしく、ウダウダの映画にしていたら、それはそれでおもしろかったかしら。
神代辰巳の映画みたいにか。
誰、それ?
エッ、お前何年生まれだ?