アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

975回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㉚

2023-02-19 17:39:35 | 日記

③ 時として、金銭欲・権力欲・性欲、3欲の絶倫天皇が現れる

待賢門院 (たいけんもんいん)とは【ピクシブ百科事典】待賢門院 イメージ

 皇位継承について考えている。その為には、金銭欲・権力欲・性欲は必要だ。特に、性欲は直接的に後継者を多く作ることになるので最低条件である。白河天皇以降は、73代堀河天皇―74代鳥羽天皇―75代崇徳天皇と、順調に皇位が親から息子に引き継がれているようだが、崇徳天皇の母君は、待賢門院(璋子)で、もちろん鳥羽天皇の皇后なのだが、しかし、実父は曾祖父白河天皇と言われている。性について、おおらかな昔の話とはいえ、自分の寵姫を孫である鳥羽帝に差し出した。それだけでも現代では考えられないが、その後にも関係を続けたのである。その待賢門院 (藤原璋子)は絶世の美女と言われ、幼少から白河院の手元で育てられ、慈しみ。そして女?にされたのである。その璋子を密かに国母(天皇の母)にするために、用意周到に孫の鳥羽天皇に差し出したのである。この経緯は、渡辺淳一作『小説天上紅蓮』に詳しい。鳥羽天皇は、生涯、崇徳院を「叔父子」(子とは言え祖父の子は叔父)と呼んで嫌った。白河上皇の庇護があり崇徳天皇となったが、白河院の死去後、その影響力が無くなると崇徳天皇に対して鳥羽上皇は実の子の近衛天皇に無理やり譲位させた。そこで崇徳上皇が、せめて自分の子に次の皇位をと思って仕掛けたのが、「保元の乱」である。その時点では、白河上皇も待賢門院もこの世にはいないが、二人の不倫行為は国を二分する大騒乱を招いたのだ。それにしても待賢門院はかなりの美人で魅力的な女性だったのだろう、鳥羽天皇との間にも4男2女をもうけている。出産をはさんで美貌が落ちる当時のことを思えば驚異的なことである。そして、何よりこの時代の皇族たちの生殖能力の高さに驚く。


974回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㉙

2023-02-17 08:54:03 | 日記

ここまでの着眼点

② 兄弟相続がまだあたりまえの時代

 

 意外なことに、醍醐天皇から後三条天皇までの11人の天皇で、親子相続なのは2例しかない。甥への継承が3例あるので、5例は次世代につないでいるが、なんと兄弟・従兄弟への継承が6例もある。藤原摂関家の思惑が原因だが、古代に多くみられる兄弟相続の習慣が強く残っていたと考えられる。古い歴史では、親子相続では末子相続が主流だった。現代でも末っ子が一番可愛いもので、もしその母が異なると晩年の父親は当然、あとからもらった奥さんとの子を一番可愛がる。現代でも企業の後継者争いなどでは、本妻の子とお妾の子で骨肉の争いになる事件は多い。しかも寿命の極端に短い古代では、相続させる時点で一番若い子に託すのが当たり前の発想だったのかも知れない。その後、兄弟相続が主流になって、長子相続へと変化して行く。壬申の乱などは、兄弟相続が当たり前でなければありえない大乱である。そして後三条天皇の頃は、それらが混在していて、まだまだ不安定な時代だったようだ。そこを藤原氏があらゆる理屈をつけて自らに有利なように皇位継承を操っていたのだ。それを後三条天皇を境に親子相続が主流になってひと時は安定して行く。ただし、持明院統・大覚寺統を経て南北朝時代という大混乱を除けばということになる。

後三条天皇 | 世界の歴史まっぷ

単純に親から子への継承は意外に少ない。


973回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㉘

2023-02-15 09:45:46 | 日記

その4 ここまでの着眼点

  • 摂関家からの権力の奪還

この世をば…藤原道長の「望月の歌」新解釈から見える政権の試練 ...

外祖父とは、天皇の母の実家の父の事で、藤原氏の戦略は自らの娘を積極的に天皇家に送り込むことである。現代でも、お母さんの実家のじいちゃんが一番可愛がってくれるのである。当然、全部の皇子が天皇になるとは限らないし、必ず男子をもうけるとも限らない。従って、複数の娘を多岐にわたって皇室に送り込み婚姻関係を結んでいく。数打てば当たる戦法だ。しかし、藤原氏はそんな甘くはない。自分の娘の子(当然男系男子)を皇位につける為には、積極的に政治闘争を仕掛け、時には陰謀も辞さない。多くの場合政敵を無実の罪に陥れた。要は、汚い手を使って来たのだ。ただ、後三条天皇の母は藤原道長の孫だが、父は後朱雀天皇なので、外祖父に藤原氏はいない。さらに、後三条天皇の中宮や后に道長・頼通に繋がる有力な藤原氏もいなかった。しかも、母の禎子内親王は道長と不仲であった。禎子がもし男子であれば、天皇になって道長の外祖父の地位を得られたので、禎子誕生時、道長は非常に落胆したと伝わる。現代でも、母がその実家と仲が悪ければ、本人はその実家と疎遠になるのは当たり前だ。母から何かにつけて実家の悪口も聞かされていれば尚更だ。当然、道長とその子頼通を好きになることはない。後三条天皇の意思ではなかったものの、結果として摂関家との関係に一区切りつける役割を担うことになった。しかも、禎子内親王は長生きし、曾孫の貞仁親王(白河天皇)即位を、藤原氏の子であることで反対している。むしろ、この女性の存在が摂関家の全盛にピリオドを打ったとも言える。


972回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㉗

2023-02-14 08:55:26 | 日記

その3 白河天皇の登場 「強い生命力が皇室の条件」

刀剣ワールド】白河天皇

藤原氏が考案した政権を牛耳る手法は、天皇の母方の祖父になることだった。天皇の父は天皇だから、后に自らの娘を送り込んで外祖父になる。しかし、それに対抗する手法があった。つまり天皇の実の父親、即ち上皇ならもっと力が発揮出来るはずだ。それが「院政」だ。天皇が早々に幼い息子に譲位し継続して権力を維持する。白河天皇の以前にも例はあるが、院庁を構え明確な意図を持って、しかも長期に亘ったのが白河上皇が最初なので、歴史上「院政の開始」としている。現代でも社長が引退後も会長や相談役となって権力を維持することを、「院政だ。」と言われる。決して良い意味に使われない言葉だ。この後、天皇よりも上皇が力を持ち、複数の上皇がいると、最も力を持っている上皇を、「治天の君」というようになる。要は権力の分散だ。新たな闘争の始まりとなる。その根本を作ったのが白河上皇(天皇)だ。

白河天皇 - Wikipedia白河上皇

まずは、『神皇正統記』(北畠親房)から見て行くと、そこには世の中には不満が募っていて、院政の開始についても批判的に書かれている。父の後三条天皇が、藤原道長、頼道時代の摂関家全盛期から政治の実権を取り戻したものの、白河は息子である後継天皇をないがしろにしたとして、神皇正統記では「世も末」と酷評している。そして最後に、57年間世の中を治め「治天の君」と呼ばれるようになり、77歳で崩御するまで、世の中を思うがままにしたとし、「すごろくのサイコロ、鴨川の水、そして比叡の僧兵」を自分の意の通りにならないものと嘆いたが、言い換ればそれ以外は自らの思い通りにしたと書かれている。

さて、白河天皇は、父後三条天皇の第一皇子で二十歳の時に、父の病いが重くなり即位したわけだが、後三条天皇在位中から、藤原摂関家の支配が弱体化しているのが幸いした。白河天皇の「三大不如意」は、先ほども書いたが、「鴨の水、双六のサイコロ、比叡の山法師。」天皇の意の通りならないものと言う話だが、当時の鴨川は暴れ川で、しばしば氾濫し多くの死人を出した。天候はどうにもならない。また、サイコロは言うまでもなく確率の問題だ。どちらも何人も意のままにならない。一方比叡の山法師は、しばしば御輿を担いで朝廷に強訴に及んだ。白河天皇の最大の悩みの種だったのだ。実際、年表で確認すると白河天皇即位早々の1073年の6月には『京都大洪水』の記載があり、2年後の6月にも同様の記載があり現在のような梅雨時のゲリラ豪雨があったものと思われる。また、強訴については毎年のように記載があり、1092年9月には延暦寺僧徒による訴えで高級公家が流罪になっている。また、比叡山と奈良興福寺の争いや、天台宗の寺門派と山門派の争いではしばしば京都洛中を戦場にする有様だった。このように、庶民の辛酸をよそに、白河上皇は皇室の一時代の政治体制を構築した。その結果、しばらく親から子への継承が続く。しかし驚くべき事態が起こっていた。白河上皇は76歳まで生き、子の堀河天皇は早世し、そして孫の鳥羽天皇には早期の退位と曾孫の崇徳天皇の即位にまで口出ししているのだ。しかも崇徳天皇の実父は、白河上皇その人であるらしい事だ。記録には、孫の鳥羽天皇が息子であるはずの崇徳に対し「叔父子」と呼んでいたことが書かれてあり、当時からうわさされていたようだ。お相手は待賢門院璋子(しょうし)で、鳥羽の皇后になる前に、白河上皇のもとで育てられた。そして孫の鳥羽に差し渡した後も関係を続け、崇徳を儲けた。とにかく皇位継承を担う天皇はアレがお強いのである。しかし現代では考えられない異常な家族関係の中であった。遺伝子を残すという事は大変だ。


971回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㉖

2023-02-13 07:58:57 | 日記

その2 後三条天皇の登場 「院政の始まり」

後三条天皇 - Wikipedia

 壮年期になって満を持して登場した後三条天皇は、次世代を切り開くように次々と親政により政治の実績を積み上げた。代表的なものは、荘園整理令だ。藤原頼通の政権時代に急激に拡大した摂関家所属の荘園は、タックスヘブンの様相を呈していた。これは正に摂関家を外戚に持たない天皇にしかできない改革である。次は、焼失したままの大極殿の再建だった。三条天皇時代に内裏が焼けたことで、道長が「それは天皇の徳の無さ」といじめたことは書いたが、当時はどの天皇の時代も、必ずと言って良いほど内裏が罹災した。徳の無さというより、落雷への知識不足であり、むしろ官僚貴族たちの管理面の甘さだった。後三条天皇は、大極殿の復活のみならず大規模に内裏全体の再建を命じた。その財政基盤を確立する為に、宣旨枡を制定し全国ばらばらだった枡を統一し徴税の安定を図った。荘園令とともに高度な判断力と摂関家から解放された政治権力の強さがうかがえる。当然、※大江匡房などの門閥に拘らない助言者を抜擢登用したことも大きい。

イラストで学ぶ楽しい日本史

 さて、院政の始まりを後三条と見るか、次の白河天皇と見るかだが、そこには皇位継承の思惑が深く関わっていることは無視できない。そもそも摂関政治という現役の天皇をないがしろにする政治形態に対して、同様に院政というある種同じような政治形態を望む道理がない。後三条天皇の場合真相は、子の白河天皇の後に弟の実仁親王に継がせようと、早々に譲位しその後の継承を意図通りにしたかったようだ。白河天皇の中宮に摂関家出身者がいて、その中宮を白河が深く寵愛していたから、もしその間に子が出来たら将来また摂関政治の復活になるという懸念だ。そこには、道長を祖父に持ちながら摂関家に反発する後三条の母の※陽明門院(禎子)が深く希望したと思われる。当時相当な高齢であったはずだが、並々ならぬ執念とも言える。結果、実仁親王の早世でそのことは実現せず、しかも白河天皇は父への反抗もあり子の輔仁親王(後の堀河天皇、母は藤原賢子)へと継承していく。このように皇位継承の経緯を見ると、後三条天皇母子の藤原摂関家への恨みは相当強いものであったことがうかがえる。一方、摂関家側も以前のような影響力を発揮する力もなくなっていたことは間違いない。 従って、本格的院政の始まりは、やはり白河天皇の時代になるとされる。

※大江匡房 平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。後三条天皇治世下では、天皇が進めた新政(延久の善政)の推進にあたって、ブレーン役の近臣として重要な役割を果たした。

※陽明門院(禎子内親王) その誕生時、祖父道長と父三条天皇の間がしっくりいかない最中のことであり、道長は天皇の子が男子でなく皇女の誕生に不機嫌であった。従って、その後禎子と摂関家の関係は悪化していく。