その3 白河天皇の登場 「強い生命力が皇室の条件」
藤原氏が考案した政権を牛耳る手法は、天皇の母方の祖父になることだった。天皇の父は天皇だから、后に自らの娘を送り込んで外祖父になる。しかし、それに対抗する手法があった。つまり天皇の実の父親、即ち上皇ならもっと力が発揮出来るはずだ。それが「院政」だ。天皇が早々に幼い息子に譲位し継続して権力を維持する。白河天皇の以前にも例はあるが、院庁を構え明確な意図を持って、しかも長期に亘ったのが白河上皇が最初なので、歴史上「院政の開始」としている。現代でも社長が引退後も会長や相談役となって権力を維持することを、「院政だ。」と言われる。決して良い意味に使われない言葉だ。この後、天皇よりも上皇が力を持ち、複数の上皇がいると、最も力を持っている上皇を、「治天の君」というようになる。要は権力の分散だ。新たな闘争の始まりとなる。その根本を作ったのが白河上皇(天皇)だ。
白河上皇
まずは、『神皇正統記』(北畠親房)から見て行くと、そこには世の中には不満が募っていて、院政の開始についても批判的に書かれている。父の後三条天皇が、藤原道長、頼道時代の摂関家全盛期から政治の実権を取り戻したものの、白河は息子である後継天皇をないがしろにしたとして、神皇正統記では「世も末」と酷評している。そして最後に、57年間世の中を治め「治天の君」と呼ばれるようになり、77歳で崩御するまで、世の中を思うがままにしたとし、「すごろくのサイコロ、鴨川の水、そして比叡の僧兵」を自分の意の通りにならないものと嘆いたが、言い換ればそれ以外は自らの思い通りにしたと書かれている。
さて、白河天皇は、父後三条天皇の第一皇子で二十歳の時に、父の病いが重くなり即位したわけだが、後三条天皇在位中から、藤原摂関家の支配が弱体化しているのが幸いした。白河天皇の「三大不如意」は、先ほども書いたが、「鴨の水、双六のサイコロ、比叡の山法師。」天皇の意の通りならないものと言う話だが、当時の鴨川は暴れ川で、しばしば氾濫し多くの死人を出した。天候はどうにもならない。また、サイコロは言うまでもなく確率の問題だ。どちらも何人も意のままにならない。一方比叡の山法師は、しばしば御輿を担いで朝廷に強訴に及んだ。白河天皇の最大の悩みの種だったのだ。実際、年表で確認すると白河天皇即位早々の1073年の6月には『京都大洪水』の記載があり、2年後の6月にも同様の記載があり現在のような梅雨時のゲリラ豪雨があったものと思われる。また、強訴については毎年のように記載があり、1092年9月には延暦寺僧徒による訴えで高級公家が流罪になっている。また、比叡山と奈良興福寺の争いや、天台宗の寺門派と山門派の争いではしばしば京都洛中を戦場にする有様だった。このように、庶民の辛酸をよそに、白河上皇は皇室の一時代の政治体制を構築した。その結果、しばらく親から子への継承が続く。しかし驚くべき事態が起こっていた。白河上皇は76歳まで生き、子の堀河天皇は早世し、そして孫の鳥羽天皇には早期の退位と曾孫の崇徳天皇の即位にまで口出ししているのだ。しかも崇徳天皇の実父は、白河上皇その人であるらしい事だ。記録には、孫の鳥羽天皇が息子であるはずの崇徳に対し「叔父子」と呼んでいたことが書かれてあり、当時からうわさされていたようだ。お相手は待賢門院璋子(しょうし)で、鳥羽の皇后になる前に、白河上皇のもとで育てられた。そして孫の鳥羽に差し渡した後も関係を続け、崇徳を儲けた。とにかく皇位継承を担う天皇はアレがお強いのである。しかし現代では考えられない異常な家族関係の中であった。遺伝子を残すという事は大変だ。