アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

968回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」㉓

2023-02-08 08:50:08 | 日記

その4 ここまでの着眼点

 

ⅰ狂気とされる天皇 

17歳で退位した悲運の天皇と、その和歌。意外と知らない百人一首 ...陽成天皇と和歌

政権が変わった時、新政権はその正当性を強調したい為に前政権の最後の権力者を貶める。源頼朝が政権を奪った平氏の最後の棟梁平宗盛や、鎌倉幕府の最後の執権北条高時、さらに信長が滅ぼした最後の将軍足利義昭など、いずれも統治能力に欠けるイメージが強い。天皇家でも、武烈天皇や陽成天皇などそうと思われる天皇は何人かいらっしゃる。今回の陽成天皇は、退任後かなりの長壽であった事、奇行、蛮行は20歳までの血気盛んな青年期だけだった事、文徳・清和・陽成の系統への復活の可能性もあった事など、総合的に考えるとおよそ人格に異常のあった方には思えない。退位当時、皇統が変わってしまうとは思ってもいなかったが、別の血統が正統となった為に、後世「奇行の帝」と言われてしまったのだ。

 

ⅱ皇統を繋ぐ役割の天皇に「光」の尊号  

55歳で即位された【第58代光孝天皇陵】は仁和寺の近く! - 松凬 ...光仁天皇- 快懂百科光仁天皇イメージ

 天皇の崩御後の呼び名を、功績を称える場合「諡号」と言う、生前の業績を考慮し次期天皇が贈ることが多い。一方、住んでいた御所や御陵の所在地に因む場合は、単に「追号」と言い区別している。例えば、清和天皇とか白河天皇とかは所縁の地名による。ただし、安徳とか崇徳など「徳」のつく諡号は、死後の怨霊を恐れた場合もあるので、この事だけで十分に研究の材料になる。さて、「光」のつく諡号は3名の天皇だけだ。中国では漢王朝の光武帝が有名だが、劉邦が興し一旦滅亡した漢王朝を復興した劉秀(後漢初代)は、後に光武帝と呼ばれた。光の字義は、「能紹前業」といい「よく前業を継いだ」という意味だ。このように「易姓革命」による王朝交代を繰り返す中国とは違うが、一つの皇統を繋ぐ日本でも本流が傍流に、傍流が本流にと血統の変遷は行われた。光仁天皇の場合、桓武天皇が後漢の光武帝と同様、父を王朝の再興・創始者と見なしたのだと解釈できる。同様に、光孝天皇においても子の宇多天皇が、傍流からの即位について正統性を強調するために「光」のつく諡号をあえて選んだと思われる。勿論、桓武天皇も宇多天皇も、あえて自らを正統な後継者と主張する必要があるほど、まだまだ政権基盤が盤石ではなかったこともうかがえる。なお、「光」がつくもう1例は、時代を大きく隔てた江戸末期の光格天皇である。大変重要な天皇であり後で詳しく書く。また、現在の皇統には入っていないが、北朝の天皇には、光厳・光明・崇光・後光厳・称光と多くの天皇の諡号に「光」がついている。正当な皇統は南朝ではなく北朝だという執念すらうかがえる。