アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

961回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」⑰

2023-02-01 09:07:40 | 日記

その3 藤原氏の陰謀 「他氏排斥のドロドロ」

藤原氏 - Wikipedia藤原氏家紋 「下り藤」

 この後、「この世をば、我が世と思う。望月の・・・。」と、藤原氏の全盛期を迎えるその素地は、この時代に出来た。始祖中臣鎌足が藤原姓を賜り、その子不比等を経て、北家・式家・南家・京家と4兄弟が皇室と複雑に絡み合い、同族間で争い、最終的にほぼ北家が藤原摂関家として天皇以上の権力を把握する。しかし、その権力奪取の歴史はあまりにも暗部が多く解明されない点も多い。以下に陰謀を疑われる事件を列挙して見た。敗者の多くが、怨霊やそれに準じる形で手厚く祀られていることから多くが仕組まれたものと思われる。しかも、権力を得ても天皇家を滅ぼさず、天皇家のパラサイトとなり権力の甘い汁を吸い続ける手法を取った。世界史にもあまり見受けられない巧妙で陰湿な例である。しかも平安時代になると、天皇も藤原氏も武力は持たず、その配下に戦わせるというこれも世界史には見られない体制を作る。自分達は血を流さず、死の穢れにも触れない時代(これを平安な時代という)を迎える。さらに荘園制という直轄農地の開拓と自動徴税システムを巧みに操り天皇をも超える私腹を肥やした。血統的には、自らの娘を天皇に送り込みその子が男子なら幼くても即位を強要し男系男子を守りつつ、女系は藤原氏という時代を作り上げた。これは、逆に言うと従来の、「皇后は皇族から」という掟を破る大変な改革だった。従って、これからの時代では、天皇が如何に幼くても、実権は藤原氏が行使するので、つなぎの意味で母が女性天皇となる古代の事例は無くなる。父親をたどると藤原氏になる女性天皇もありえない。このように男系男子を頑なに守る国体の原則を踏み外さず権力を奪取するやり方を藤原氏が確立した。

文徳天皇 - Wikipedia文徳天皇

 その典型例を一つ紹介しておく。桓武天皇の後は、「薬子の変」という大きな戦乱があったものの平城、嵯峨、淳和と桓武の子たちで継いでいく。しかし、嵯峨の子の仁明天皇の後に淳和の子(恒貞親王)を皇太子にした。しかし、藤原氏を母に持たない皇太子だった為、陰謀により廃し、仁明の子のうち藤原氏(順子)所生の子(後の文徳天皇)を無理やり立てた。ところがその文徳も自らの子の藤原氏以外の所生の惟喬(これたか)親王を皇太子にする。しかしこれにも藤原氏(良房)は、文徳に自らの娘を送り込み出来た子(後の清和天皇)を幼いながらも天皇にする。その文徳天皇は32歳で早世する。これらには藤原氏の暗殺説まである。諡号に、安徳や崇徳同様に「徳」が付いているので、あり得る事と思う。このように陰湿で執拗に策謀を仕掛けて行くのが藤原氏の歴史である。皇位継承と天皇のあり様はこのように大きく変化して行く。