アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

964回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」⑳

2023-02-03 14:05:10 | 日記

本編 2  57代陽成天皇~59代宇多天皇 綱渡りの継承劇

 

その1 狂気の天皇 陽成天皇

17歳で退位した悲運の天皇と、その和歌。意外と知らない百人一首 ...

 歴史には、狂気の王がしばしば登場する。権力を握ってから狂気化する場合、狂気なるものが王権を持ってしまった場合、さらに狂気なる振りをすることで自らの命を守る場合など、色々ある。しかし、勝者が残す歴史は王統の変更(政権の交代)があれば必ず前政権の最後の王者を貶めて記録される。それは、新政権の正統性を強調したい為に行われる歴史書の鉄則だ。

陽成天皇もそのケースである。しかし、宮中における殺人事件(自ら犯行を疑われている)など、史実に基づく真実も多く「若気の至り」どころではない激しいもので、相当荒れた性格であったらしい。何せ生後2か月で皇太子、そして9歳で即位したのだからその素質を見極めて天皇になったのではない。父の清和天皇同様、藤原氏の庇護があってこその即位であり、もしかしたら、自らの主義主張を持った人間であれば青春の一時期「荒れる」こともあろうかと推量する。その証拠に、陽成天皇の奇行の記録は、即位後数年から退位時までに集中し、退位後長寿を全うするまでは誠に常識的な老後(あまりにも長い)を送っている。従って、陽成天皇の狂気は、後世の藤原氏や藤原氏に取り込まれた歴史家の忖度により、過大に表現されたものだと思う。いずれにしても、すでに皇位は、奪うものでも素養適切を判断してなるものでもなくなっていた。ひとえに藤原氏の都合のみが決定の判断であった。

陽成院(陽成天皇) 千人万首陽成天皇の後は3代さかのぼり光孝天皇へ


963回 あちゃこの京都日誌  新シリーズ「新天皇国紀」⑲

2023-02-03 09:00:22 | 日記

その4 皇位継承の基本形 「皇位は奪わない」

全国に広がる武家藤原氏の子孫たち。実はあなたも藤原氏 ...

 この時代重要なことは、「皇位は奪わない」ものにした事だ。藤原氏はいつでも天皇家を滅ぼし自らの一族に皇位を奪うことも出来た。しかし、天皇家の神秘性を利用しその実権のみを奪い取る方が、合理的で権力と財力を得るには上策であることに気づく。これは世界にも例がない日本固有の権力形態となって行く。皇位は奪うのではなく天皇の権威を利用して、権力(実権)を得るのである。天皇は男系男子という限られた制約の中で継承していくが、藤原氏は増殖を繰り返し政権の中枢のみならず、荘園制度を利用して地方政治にも根を張り、和歌や雅楽などの文化にまで支配が及んで行く。もちろん中国のような王朝交代時の徹底的文化破壊は起こらなかった為、文化・伝統芸能などの伝承が間断なく続いた功績は絶大である。

藤原家と皇室を例えば、旧家の本家と分家の関係になぞらえればどうだろうか。本家が如何に衰えて分家が栄えようと、本家は本家であり法事や慶事の時の拠りどころである。分家が如何に財力や権力を持とうと分家には違いがなく、本家の権威には及ばない。天皇家という本家を担いでいれば分家は一族の中で相応に自由に振る舞える。因みに、藤原氏の祖先は神話の「天児屋命」であり「アマテラス」に仕えた。天の岩戸の伝説や天孫降臨の際にも伴っていて、皇室に最初に仕えた「神」ということになっている。従って、大神になるのではなく、大神(皇室)に仕えることで一族の存在意義を見出したのである。その後、藤原氏の嫡流近衛家鷹司家九条家二条家一条家五摂家に分立し、五摂家が交代で摂政関白を独占し続ける。また、五摂家以外にも、三条家西園寺家閑院家花山院家御子左家四条家勧修寺家日野家中御門家など数多くの支流・庶流がありそれぞれ独自の得意分野を誇る。源平藤橘(げんぺいとうきつ)と言われる日本の姓の源流の中でも、藤原氏が圧倒定な存在感と子孫の数を持つに至る。なお、源氏・平家や鎌倉幕府における北条氏、室町幕府の足利氏などと皇族との関係性はまだまだ研究の余地がある。

ここまで、桓武天皇即位迄書くつもりだったが、藤原氏の台頭にまで及んでしまった。そして江戸幕府においては、「禁中並公家諸法度」でしばりを強め、一方で幕末には皇女和宮を将軍家に迎え公武合体を目指すなど特異な経緯をたどる。最後は、大政奉還により遂に政治の実権を皇室に返上する。まさに、「建武の中興」以来の大変革に至る。

さて、話は平安時代に戻そう。