アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

675 アチャコの京都日誌    生きてるだけで丸儲け  ⑥ 砂川捨丸 中村春代

2019-12-09 07:52:35 | 日記

「砂川捨丸」の画像検索結果

「砂川捨丸」の画像検索結果高級万歳?


「ええー。漫才の骨とう品でございましてね。」と、始まる。オール巨人がたまに物まねをするが、本ものを見た人は少ないのでなかなか面白さが伝わらない。

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漫才よりも、「万歳」と表記する方が相応しい。まさに「骨とう品」だ。鼓(つつみ)を手に持つ漫才師は他に見たことが無い。しかし本来の三河万歳の形を残している。踊りを披露する時に、相方の春代が、「出た手足に目鼻を付ける。」と指示する。捨丸が、本当に手足に目をくっつけながら踊ると、春代の張扇(はりせん)が捨丸のひたいに飛ぶ。晩年はこのギャグだけだったが、100以上のネタを駆使し、基本的に鼓とあほだら経などの節回しをじっくり聞かせる。万歳が能や狂言など古典芸能と同一線上にあった時代だ。今の漫才が古典芸能とは言わない。

明治23年(1890年)大阪府三島郡味生村(現摂津市)に生まれる
明治32年(1899年)千日前の井筒席で初舞台(江州音頭)
明治38年(1905年)萬歳師として独立。捨丸16歳。
明治45年(1912年)10年近く萬歳の上演が禁止されていた神戸で、上演を解禁にした。捨丸23歳
大正13年(1924年)中村春代とコンビを結成
昭和35年(1960年)串本町名誉町民
昭和46年(1971年)10月12日死去。享年80歳

捨丸だけで、一冊の本が出来る。

大衆芸能の伝承者であった。普通、ベテラン芸人を呼ぶとき、「師匠」と言うのが一般的だが。捨丸だけはさらに敬意をこめて「先生」と呼ばれていた。エンタツ・アチャコも「先生」と呼ばれていたいたのではないか。

弟子・一門は100名を超えていたという。

子供の頃の筆者には、当時このコンビが出て来たら次の芸人が出るまでの「辛抱」だったが、今思えばよく観察しておけば良かった。

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