美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

尾崎 森平 個展 「1942020」 2/18~3/1 ターンアラウンド

2020-02-25 12:57:38 | レビュー/感想

一見して建築パースの世界である。大抵はこの類の建築パースは高度なドローイングソフトで描かれている。しかし、ご苦労なことだが、作家は手書きの筆でこれを描いているのである。そこが建築パースではなく、そしてデザインでもなく、この絵を、絵画ジャンルにかろうじて、止めている重要な要素であることを画家は誰よりもよく知っているのかもしれない。

かといって、リアリティを追う写実主義からたどる西洋近代美術史の上に成立した、空気感まで描かれたハイパーリアリズムの世界ではない。建築パースのように描かれた彼の絵は、その種の絵画の様式を借りたシュミラクルなのである。それは西洋の流行に常に晒され、様式の意味を深化させる間もない日本の画家の誰もが必然的に陥る錯覚なので致し方ないことではあるが。

だから、我々は、むしろここではここに描かれた「記号」の意味を追うことになる。それは彼のモチベーション、情熱のソースでもある。会場でいただいたパンフレットで彼自身が語っている言葉がもっとも参考になるだろう。彼が大学時代影響を受けた「環境心理学」。目新しい分野だ。形作られた環境から社会や個人の心理を読み解くということなのだろうか。シンプルな画面構成の中に配されたガソリンスタンド、墓石、ホテル、ホームセンター。となるとこの岩手特有の空と大地で区切られた、だだ広い風景は、例えば箱庭療法の格好の舞台のようなものなのだろうか。

ブラシタッチによる自然なエクリチュールの楽しさをあえて抑圧して、深層を含めた彼の頭の世界の絵解きをしていく。ロードサイドのありきたりのショッピングセンターやパチンコ屋に貼り付けられた、私には判読不明なイタリア語の仰々しいスローガン。彼は、政治とビジネスのプロパガンダの近似性を語りたいのだろうか。

そして人の内部にあるおどろおどろしいものを象徴するように屠殺された牛がガソリンスタンドのキャノピーにかかる(オシラサマ)。なぜかレンブラントの皮剥された牛の絵を思い出した。(この場合は贖罪の象徴なのだが)人々の心に染み通った祭儀性と行き過ぎたモダニズムのアンバランスが、ムソリー二のようなファシズムの母体となっていると言いたいのだろうか。そのクリティカルな真意はよく分からず、しかし、絵を見て心踊りたい私の中の馬鹿な原始人には、これが現代美術と言うのだろうが、なぜか命が細り辛くなる絵ではあった。

 

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