美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

ミレー展 宮城県美術館 11/1~12/14

2014-11-06 12:19:40 | レビュー/感想
ミレーの作品は、ロマン主義でもない、写実主義でもない、その間にあって美術史のメインストリームから独立した性格を持っている。その絵の前に立つと、誰もがリアリティとは何かと言うことを問わざる得ない。それは写実主義的なリアリティではない。例えば、写実主義の代表クールベが労働や自然など身近な現実を描いたとしても、ロマン主義絵画のカウンターパートとしてのイデオロギー化された現実でしかない。弁証法的な発展の歴史を描く美術史の中では扱い安い存在だ。しかし、そういうものとは全く別のリアリティがここにはある。それはこのリアリティがどこから来るのか分からない限り、バルビゾン派という地名に結びつけた便宜的なカテゴリーで括るしかない絵だ。いずれにしろ、岩波のマーク「種まく人」のイメージに重ねて、神聖な労働といった白樺派的な社会倫理に絡めとられたステレオタイプのミレー像からはそろそろ脱却したい。

さて,ミレーの絵は最初からぐんぐんと心に入って来る。頭でっかちは別として、これほど分かりやすい絵はないかもしれない。ここにはミレーの最初の妻、3年間の結婚生活で子供も残さず儚くこの世を去っていたポリーヌ・オノが確かにいる。帰路につく羊の群れの後ろには今まさに暮れ行く秋の空がある。いずれも終わった現実だが、確かにまさに目の前で、今生きて、しかも動き出すかのようで、胸に迫って来るのはなぜだろう。日常の一点景を切り取るという手法には、当時浸透し始めた写真の影響があるだろうが、瞬間の表面を切り取るしか能のない写真ではこうはいかない。ここには並外れて繊細な伎倆でしか描けない、魂のレンジまで踏み込んだリアリティがある。そこから受ける印象は、根源的な「悲哀」といったらいいようなものだ。オスカー・ワイルドの「獄中記」にある「悲哀の中にこそ美がある」というテーゼが、久しぶりに呼び起こされた。

農民の姿を描いたとしても、ブリューゲルの絵が持っているような朗らかな聖なる空間はここにはもはやない。だから、誰もがいずれ労働して死んで行く、楽園追放以来、反復される人生の現実、そこに何の意味があるのだろうか、と絵の前で誰もが、反芻させられるようだ。われわれの現実をそのまま突きつけて来る絵のリアリティー。ゴッホのように、白熱したエネルギーでこの生活のボーダーを越境して行くベクトルはどこにもない。どちらかというと≪我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか≫と描いたゴーギャンに、こんなエゴティストではないにしろ、資質的に近いかもしれない。60才という長くはない人生を、このあまりに現実的な、どこにも飛び立てない世界に耐えて、 一毫も誇張のない、これだけの絵を書き続けたミレーは、立派な体躯と厳つい顔からも推定しうることだが強靭な精神と生活力の持ち主だったと思う。しかし、そんなパーソナリティだけではない。「落ち穂拾い」の聖書的主題である「ルツ記」に描かれたように、困難に満ちた人生であったとしても、時を越えた希望に励まされている、確かな信仰に根ざしていたのだろうか。

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