その時、歴史は動いた。 水野龍と日水上人

2008年06月18日 | Weblog
今日、NHKの「その時、歴史は動いた」を見ましたか?
ブラジル移民の父といわれた水野龍のことを取り上げていました。
水野は明治37年、当時、日露戦争の後、多くの凱旋軍人が町にあふれ、深刻な就職難を解決しようと移民の必要性を感じました。
その頃、不当な手数料をとっていた移民会社に対抗して興国移民会社を興し手数料を半額にして、まず、ハワイへの移民を促進しました。その後、アメリカ、ヨーロッパに反日運動が起き、ブラジルへの移民を考えるに至りました。
 最初に調査とブラジル政府との交渉のため、ブラジルに渡ろうとしましたが、チリを経由しての旅となりました。その時、鈴木という有望な青年と知り合い、彼とともに事業を共にしようとしました。励まし合いながら、チリからアンデス山脈を命がけで越えてブラジルに入りました。
 交渉にも成功し、日本に帰り、移民を募り様々な困難を乗り越え、金銭的な窮地をも脱して、移民船「笠戸丸」を仕立てて渡航しました。その笠戸丸がブラジルのサントス港に着いたのが1908年6月18日でした(明治41年)。
 第一回の移民でコーヒー園に入植した人びとには過酷な労働環境が待ち受け、その上、収穫時期も過ぎ、不作に見舞われた最初の年は大変な苦労を強いられました。農民たちは不満を抱え、抗議しましたが水野にはただひたすら謝り、彼らをなだめるしかありませんでした。何とか、農民たちは鉄道建設に従事して食いつなぎました。
 水野は、再び帰国、さらに第二回の移民を募り前回を上回る900人が応募。水野は会社の権利を売り一社員として働きました。第二回の移民は収穫時期に間に合い、豊作に恵まれ軌道に乗り始めました。その後も移民をブラジルにおくりました。
 彼がめざしたのは、日本の経済発展だけでなく、外国との共存共栄でした。明治の日本は西欧諸国の列強に追いつき追い越せと富国強兵をめざし、その資金確保のため農民に重税を課しました。さらに兵力を以て満州はじめアジアに進出しようとしましたが、これはアジア諸国の利益に相反し、共存共栄とは反対の方向です。水野がブラジル移民にこだわり、何度となく移民、入植を試みたのは、日本の武力による進出に異を唱え、その方向を修正させようとしたからです。
 後に水野は、家族共々、ブラジルに移住したのですが、その子孫たちは今、仲良く幸せに暮らしています。
 テレビで触れていなかったことがあります。それは、水野が本門佛立宗・清雄寺の信者で、第一回の移民船に移民たちの心の支えとして佛立教務の乗船を望んだことです。当時の清雄寺住職、第四世講有・日教上人は茨木現樹師(後の日水上人)を抜擢して、笠戸丸に乗船するよう命じられました。
 茨木日水上人も筆舌に尽くしがたいご苦労をされました。農民とともに、コーヒー園で働きつつ、教化をされながら、多くの移民の精神的支柱の役割を果たされました。とうとう、二十年以上かかってリンスに大宣寺をブラジル最初の寺院として建立されました。
 今日では、ブラジルにサンパウロに日教寺はじめ十一ヵ寺の佛立寺院が建っており、多くの二世、三世、四世のご信者が菩薩行の実践をしています。
 共存共栄の精神の根本は、つまり、佛立信心であり、ブラジル入植は法華経の菩薩行の実践に他ならないのです。
 今年が移民100年、これからブラジルでさまざまな行事があり、いま、皇太子が渡伯されているようです。しかし、佛立宗では一足早く、三月にブラジル開教100年の記念大法要を講有・小山日誠上人がつとめられました。
 多くの人種がほんとうに平等で、差別がなく、また、資源豊富で広大な国土を持ち、共存共栄を旨とした水野のこころが生きていて絶大な信用を得ている日系社会を擁するブラジルは、もっとも将来性がある国です。
 日本にも、共存共栄の精神がますます必要だと信じます。
(写真は1908年4月28日、笠戸丸出航のとき)

コメント (1)
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