「幸せはある意味、不幸せ。不幸は一面、幸せ」
私は、いろいろな方のお宅に伺って、御講(家庭での法要、法会)をつとめ、御題目をお唱えして、ご祈願したり、先祖の御回向も致します。
また、その時に参詣された方や施主とそのご家族に対して仏様や日蓮聖人等の教えを「御法門」(ごほうもん)という形でお話しします。
また、その後も、施主やご家族とできるだけ、お話しします。
その時、幸せに何不自由なく暮らしている方は、仏様や日蓮聖人の教えをいくら力説しても、何も接点がないので、話をほとんど聞いてもらえません。
それはそうでしょう。困っていることが一つもないので、問題意識もなく、求めるものがありません。お話を聞いている顔はされていますが、まるでかみ合いません。
このような方は、幸せが邪魔をして、仏の教え、日蓮聖人の教えに近づいていけないのです。仏様、日蓮聖人の教えは奥が深く、世の中の真実の姿を映し出す鏡です。その教えに本当の意味で触れることもなく、やり過ごしてしまうのは本当の意味で不幸です。
反対に、悩みがあったり、身体の具合が悪くて、それがキッカケでご信心に興味を持ち、信心が増進すれば、これは幸せのもととなります。日扇聖人は
「あまりにも達者で金持ちで安楽すぎたる人には、それが迷いを増長する故に、達者故に信心出来ず、金がある故に信心おこらず、金がある故に信心おこらず。難の来たる時には俄になげき、臨終に於て大苦を受く」
と説かれています。
私は、いろいろな方のお宅に伺って、御講(家庭での法要、法会)をつとめ、御題目をお唱えして、ご祈願したり、先祖の御回向も致します。
また、その時に参詣された方や施主とそのご家族に対して仏様や日蓮聖人等の教えを「御法門」(ごほうもん)という形でお話しします。
また、その後も、施主やご家族とできるだけ、お話しします。
その時、幸せに何不自由なく暮らしている方は、仏様や日蓮聖人の教えをいくら力説しても、何も接点がないので、話をほとんど聞いてもらえません。
それはそうでしょう。困っていることが一つもないので、問題意識もなく、求めるものがありません。お話を聞いている顔はされていますが、まるでかみ合いません。
このような方は、幸せが邪魔をして、仏の教え、日蓮聖人の教えに近づいていけないのです。仏様、日蓮聖人の教えは奥が深く、世の中の真実の姿を映し出す鏡です。その教えに本当の意味で触れることもなく、やり過ごしてしまうのは本当の意味で不幸です。
反対に、悩みがあったり、身体の具合が悪くて、それがキッカケでご信心に興味を持ち、信心が増進すれば、これは幸せのもととなります。日扇聖人は
「あまりにも達者で金持ちで安楽すぎたる人には、それが迷いを増長する故に、達者故に信心出来ず、金がある故に信心おこらず、金がある故に信心おこらず。難の来たる時には俄になげき、臨終に於て大苦を受く」
と説かれています。