明日は彼岸会

2009年03月19日 | Weblog
今日は朝から、お寺中の掃除で、お彼岸の準備です。
遠い所から、朝早く、お寺の御宝前をきれいにさせてもらおうと、お参りになったご信者の気持ちがありがたいです。
そのうち、そういう篤信の人がほとんど、いなくなったら業者に清掃を委託するのでしょうか。
それは、佛立宗のご奉公精神の死を意味します。
昔、わが遠妙寺に森タカさんというご信者がおられました。
私が子どもの頃、すでにお年寄りでした。
この方は、ケガをされて足が不自由で引きずるように歩いておられました。
でも、そういう身体なのに、お寺の回廊をひとりで、すこしづつ、いつも、いつも雑巾で拭き掃除。
誰が見ても、休んでいてもらったらと思う、その方がいつも掃除されていました。
本当に穏やかなご信者で、にこにこ、喜んで掃除されていた、あの顔が忘れられません。
お彼岸に、そんな話を想い出しました。
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床屋さんで

2009年03月19日 | Weblog
きのう、床屋さんで産経新聞を読みました。
ドキッとしたのは、最近の宗教に公益性はあるか、何のために法人税などが課税されていないのか、意味がないということを書いた囲み記事がありました。
いわく「最近、世の中が不況になって、テント村ができたり、非正規労働者などが雇用止めとなり、たちまち住む所がなくなり、社会問題となっている。このような時に、炊き出しをしたり、彼らを助けているのは宗教家ではなく、宗教に無縁のボランティアだけである。このような情景を見ていると、今や日本の宗教は社会との接点がなくなり振り返られなくなると思う。いったい宗教に公益性はあるのだろうか」
というような記事でした。うろ覚えで正確ではありませんが、まぁこんなところです。
私は、いま、食べるのにも住居にも困っている人が目の前にいれば、手をさしのべなくてはならないと思います。でも、この問題は、果たしてボランティアが食事を作り、当座、住む所を何とかするということだけで解決できるのでしょうか。
このような事は政治、あるいは経済上の大きな問題で、極めて人為的に起こされたといっても良いサブプライムローンの証券化から端を発して、このたびの不況が巻き起こされ、それに伴って引き起こされたことです。基本的には、二度とそのようなことが起こらないように世界的な規模で資本主義なり株式市場の制度的な問題に対して対策を取るのが先決です。派遣ぎりや正社員ですら解雇されるという雇用の問題などへの対応も、やはり、政府が中心となって法律上の手当をしたり、地方公共団体も積極的に動かなくてはならないことではないでしょうか。
吾が宗だけでなく、全国のありとあらゆるお寺や神社やキリスト教の教会でも、たとえば飢餓で大勢の人が死にそうになっていたら、最後の一粒のお米まで提供するかも知れません。でも、どのお寺も財産が豊富にあるわけでも、持てるものが無尽蔵だというわけではありません。そんなに続くものではありません。それより、この記事を書いた人は、どこのお寺でも神社でもいいから、一円のおさい銭を上げたことがあるのでしょうか。ふだん、宗教法人がどのような活動を行っているのかも知らず、また、佛立宗のように真面目に菩薩行を行っている団体も存在することも調査もしていないに違いありません。中には、宗教法人を隠れ蓑にして、脱税行為まがいのことをやっている所も事実、あるでしょう。一般の人はふだん、ほとんどお寺に寄付や寄進をすることはないでしょう。国税や地方税として納付される税金の額と比べれば、はるかに限定された特定の信徒のわずかな浄財では、炊き出しをやっても何日も続かず、とても恒久的にそのような活動を続けることはできないでしょう。
だからといって、宗教人が社会的な問題に無関心で良いというわけではありません。世の中に無関心で、葬儀と回向に専門にプロとして従事する江戸時代末期のお寺に挑戦状を突きつけたのは、わが開導日扇聖人でした。
当時の一般人は、まだまだ貧困と病気と時代の変革期にともなう動乱にあえいでいました。開導日扇聖人の頃も今もあまり変わりありませんが、一人ひとりの苦悩に向き合って、それらのあくまでも個人的な問題の解決に一筋の光明を与えることを通じて、社会的な問題にも自然に向き合っている形でした。もっと佛立の教えが拡がり、社会的なうねりを産み出す所までいけば、西洋の宗教改革のようにもっと大きな影響を与えたことでしょう。でも、そこまで弘通ができたわけではありません。
開導日扇聖人は、個人の問題解決だけで宗教の役割は完結するとか、それでよしとされていたわけではありません。
本当は、天下国家の問題を論じて、政治のありよう、政策なども視野に入れ常に権力に批判的に、民衆の視点から宗教家も行動しなくてはならないと考えられていたようです。しかし、信教の自由も全くなく、政府の批判などしたら、たちまち捕縛され、一溜まりもなくお寺も佛立講という組織もつぶされてしまう明治時代、これらの事は将来の課題とされたようです。
今は思想の自由もあれば、言論の自由もあります。ですから、大いに現在の政治や経済のあり方、企業のあり方を批判して、是正を求めていくのが現在の宗教者、また、佛立宗の教講の姿勢であるべきだと思います。
それに、他のボランティア活動は、宗門としても、お寺としても個人としても実際は、ある程度、やらせていただいていると思います。佛立宗の東西福祉会(旧制度)では、もう何十年も前から、ハンセン病の方々に対して何とか力になろうと取り組んできましたし、戦災孤児の救済のために立ち上がった古村師は積慶園をつくり、周囲は応援してきました。これからも、やはり、それぞれのお寺でも、宗門でも何らかの直接的な社会福祉的活動をすべきだとは思います。
しかし、もっとも大事なことは、私たち宗門人がご信心を弘め、一人ひとりの心に光明がさすようにご奉公させていただくことが、根本的な公益活動であることを忘れてはいけないということです。
ですから、もっと幅広く、例えば、自殺者が三万人を超えるいま、電話相談を受けるよう協同して動いたり、社会に食い込んで一人でも救っていこうと教化につながる、つながらないは別にして、菩薩行を実践していく姿勢は大事だと信じます。
ただ、宗教を最初から批判的に見て、理解しようとしない人が、単に外側から見て、政府の税制の改革案として持ちあがっていた「宗教法人に課税しようという政策」を応援するような記事を載せることに疑問を感じます。
コメント (2)
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