昨日のお彼岸は案外、天気が回復し、出足は悪かったようですが、結構、にぎやかになりました。
お彼岸では二回、御法門をさせていただいています。
開導聖人の御教歌
かんがえ(へ)て わかろ(ら)う筈(はず)は なかりけり 妙(みょう)は思案(しあん)の 外(ほか)にぞ有ける
を拝読して御法門を拝ませていただきました。
妙とは1、不可思議(ふかしぎ)の義、2、蘇生(そせい)の義であると言われています。不可思議とは考えられないこと、蘇生とはダメだと思ったことがダメでなくなる、よみがえるということです。
その「妙」ということ、実際、考えられないようなことがあることを知らないから、「信心はいったい、何のためにさせていただくの?」とか、一生懸命、ご奉公に頑張っている方に「何で、そんなに一生懸命ご奉公されるのですか?」と疑問を持つのです。
思いつくまま、ご信心を何のために私たちはさせていただくのかをあげてみました。
○ご信心の目的
1 心のささえ(精神的なおはからい。心のご利益)を得るため。安心のため。
2 健康のお計らいを頂くため。
3 他を助ける菩薩行によって人格を磨く。人間として成長するため。
4 その他、現証ご利益を頂き、苦境を脱し運命を好転、幸せになるため。
5 最期のとき安らかに臨終を迎え、寂光浄土に参拝できるように。
6 先祖に供養していただき、御回向が届くように。
7 親孝行のため。先祖に喜んでもらうため。
だいたい、このような目的をもち、ご信者はご信心をさせていただいているのではないでしょうか。
中には、信心信仰とはただ、信ずることに意味があり、神仏に何か願うとか、ご利益を頂くということを望んだり、願うのは、不純であるという人がいます。
しかし、精神的な充足を願うことが不純でしょうか。また、健康を害した時、治ることを望まない人があるでしょうか。
溺れる者は藁をもつかむと申します。もし、本当に危機が迫り、せっぱ詰まるようなことがあったら、純粋とか不純とか言っていられないでしょう。夢中ですがりつくでしょう。だいたい、医師や薬に対してでも信頼感があれば、早く治ります。何も信じないより信じるものがある人の方が精神的に強くなります。
でも、信仰であれば何でも信ずれば良いというわけではありません。教えに筋が通っていること、実際にその信仰を体験した人の声を証人として聞くことが必要です。
そして、「信ずることができる教え」に確実な「信」を得ることができた人は満ち足ります。しかし、「信の世界」に入るには思い切りが必要です。
なぜ思い切れないかというと、世の中のことは、何でも理論的に説明できるはずと考え、こだわっているからです。また、だまされるのではないかと疑う気持ちがあるからです。すべてが合理的に解釈できるはずというのは人間の独断で、一種の信仰です。疑うというのは分からないではないのですが、それは美味しいから食べなさいと言われても、食べなければ味がいつまでも分からないので結局、損をします。佛立宗は日蓮聖人より750年、また、開導日扇聖人の開講以来、150年。いい加減なことをしていたら、ここまで続いていません。
百聞は一見にしかず、実際に不可思議・・考える事も及ばないことを見たり体験すれば疑いようがありません。最初の一歩を踏み出し、「理外の理」を信じることが大事です。
○驚くべき体験談
これは遠妙寺ホームぺージ・信行体験談を見ていただければ分かります。
つい先日も、大きな御利益をいただいた西巻さんと教化子(教化を受けた方)の体験をこのブログでも紹介しました。(3月11日)
○御指南
妙法の御利益は凡夫(ぼんぷ)の愚勘(ぐかん)には理外の理にして、信ずるより外(ほか)、得入の門なし。
とお示しです。
きわめて素直に、謙虚に事実そのものをみつめれば、理外の理というものがあるのだなぁと感じられるはずです。そして正しく信心を起こせば、あなたの前にずっと豊かな世界がひろがり、いきいきと人生を生きることができます。
お彼岸では二回、御法門をさせていただいています。
開導聖人の御教歌
かんがえ(へ)て わかろ(ら)う筈(はず)は なかりけり 妙(みょう)は思案(しあん)の 外(ほか)にぞ有ける
を拝読して御法門を拝ませていただきました。
妙とは1、不可思議(ふかしぎ)の義、2、蘇生(そせい)の義であると言われています。不可思議とは考えられないこと、蘇生とはダメだと思ったことがダメでなくなる、よみがえるということです。
その「妙」ということ、実際、考えられないようなことがあることを知らないから、「信心はいったい、何のためにさせていただくの?」とか、一生懸命、ご奉公に頑張っている方に「何で、そんなに一生懸命ご奉公されるのですか?」と疑問を持つのです。
思いつくまま、ご信心を何のために私たちはさせていただくのかをあげてみました。
○ご信心の目的
1 心のささえ(精神的なおはからい。心のご利益)を得るため。安心のため。
2 健康のお計らいを頂くため。
3 他を助ける菩薩行によって人格を磨く。人間として成長するため。
4 その他、現証ご利益を頂き、苦境を脱し運命を好転、幸せになるため。
5 最期のとき安らかに臨終を迎え、寂光浄土に参拝できるように。
6 先祖に供養していただき、御回向が届くように。
7 親孝行のため。先祖に喜んでもらうため。
だいたい、このような目的をもち、ご信者はご信心をさせていただいているのではないでしょうか。
中には、信心信仰とはただ、信ずることに意味があり、神仏に何か願うとか、ご利益を頂くということを望んだり、願うのは、不純であるという人がいます。
しかし、精神的な充足を願うことが不純でしょうか。また、健康を害した時、治ることを望まない人があるでしょうか。
溺れる者は藁をもつかむと申します。もし、本当に危機が迫り、せっぱ詰まるようなことがあったら、純粋とか不純とか言っていられないでしょう。夢中ですがりつくでしょう。だいたい、医師や薬に対してでも信頼感があれば、早く治ります。何も信じないより信じるものがある人の方が精神的に強くなります。
でも、信仰であれば何でも信ずれば良いというわけではありません。教えに筋が通っていること、実際にその信仰を体験した人の声を証人として聞くことが必要です。
そして、「信ずることができる教え」に確実な「信」を得ることができた人は満ち足ります。しかし、「信の世界」に入るには思い切りが必要です。
なぜ思い切れないかというと、世の中のことは、何でも理論的に説明できるはずと考え、こだわっているからです。また、だまされるのではないかと疑う気持ちがあるからです。すべてが合理的に解釈できるはずというのは人間の独断で、一種の信仰です。疑うというのは分からないではないのですが、それは美味しいから食べなさいと言われても、食べなければ味がいつまでも分からないので結局、損をします。佛立宗は日蓮聖人より750年、また、開導日扇聖人の開講以来、150年。いい加減なことをしていたら、ここまで続いていません。
百聞は一見にしかず、実際に不可思議・・考える事も及ばないことを見たり体験すれば疑いようがありません。最初の一歩を踏み出し、「理外の理」を信じることが大事です。
○驚くべき体験談
これは遠妙寺ホームぺージ・信行体験談を見ていただければ分かります。
つい先日も、大きな御利益をいただいた西巻さんと教化子(教化を受けた方)の体験をこのブログでも紹介しました。(3月11日)
○御指南
妙法の御利益は凡夫(ぼんぷ)の愚勘(ぐかん)には理外の理にして、信ずるより外(ほか)、得入の門なし。
とお示しです。
きわめて素直に、謙虚に事実そのものをみつめれば、理外の理というものがあるのだなぁと感じられるはずです。そして正しく信心を起こせば、あなたの前にずっと豊かな世界がひろがり、いきいきと人生を生きることができます。