原理講論を見ると創造原理の第4節の「愛と美」の項目の中に、「忠 孝 烈」についての記述がある。
「目上の人の愛に対して目下の人がささげる美を忠と言い、父母の愛に対して子女がささげる美を孝と言い、また夫の愛に対してささげる妻の美を烈と言う。」
「愛と美」については
「主体が対象に授ける情的な力を愛と言い、対象が主体に与える情的な力を美と言う。」
「愛の刺激は動的であり。美の刺激は静的である。」
とある。
「愛と美の目的は、神から実体として分立された両性が、愛と美を授受することによって合性一体化して、神の第三対象となることによって、四位基台を造成して創造目的を達成するところにある。」
これらのみ言をみれば、愛と美は密接な関係を持っていること、「忠、孝、烈」などもそれ単独であるのではなく、それぞれ主人や親、夫と言った主体者の愛があって対照的な美があることがわかる。
「主体と対象が合性一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包されるようになる。」とあるが、これは、主体と対象が合性一体化されていった結果の中で表れて来るものであり、一体化過程はいかに愛と美が健全に授受されていくかが問題となる。
「忠孝」と言うと、ことさらに対象者の道義として強調されることがままあることがある。
日本でも戦前までは「忠孝」が、学校教育の中でもかなり強調されて教育されてきた時代もあった。「天皇陛下万歳」と叫びながら「戦をどどめたい」という陛下の大御心は無視された時代もあった。
韓国でも国民教育において「忠孝」が強調されて教えられてた時代があったことと思う。「忠孝」は特に儒学の中で重要な道義として取り上げられて教育されてきた。特に朱子学の教育では殊更に強調されてきた帰来がある。
時には「忠孝」が強制的に教えられてきた時代もある。朝鮮朱子学では「親の喪に3年服さなかった」といって、民がこん棒で叩かれる罰を受けたという話もある。「忠孝」を殊更に強調して民を力で強制しては、これはこれは本来あるべき「忠孝」の姿とは真逆な行為である。(別項の「朝鮮朱子学の弊害」で書いた)
「愛」があっての「忠孝烈」であろう。本来、「忠」や「孝」や「烈」は教育する必要のないものであろう。主体者である主人や親や夫に愛があれば自ずと生じるのが「忠」であり、「孝」であり、「烈」であると思うのである。
だから、原理では「愛」と「美」は同列であり、相対的なものであり、「愛」が主体で「美」が対象として説かれていいるのである。そのようにHOPE子は受け取った。如何であろうか。
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