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忠孝あれこれ・・・・⑤文鮮明先生の語られた「忠孝烈」と韓国民族の忠臣 「忠孝」に関しての・・長所と欠点

2017-02-20 13:25:25 | 忠孝

韓国民族の忠孝

文鮮明先生のみ言

真のお父様が「忠孝烈」について語られたみ言です。

「神様の摂理から見た南北統一」p268~ 第5節韓国人の民族性  二 忠孝烈の国

神様の摂理から見た南北統一 - Page 268 - Google Books Result



真のお父様が韓国民族の「忠孝烈」について誇らしく語っておられます。そのお父様が誇られる韓国民族の「忠孝烈」はいまどうなっているのでしょうか?



真のお父様はこの韓国民族の「忠孝烈」を代表する物語や人物として、「忠」を代表する人物として鄭夢周、「孝」を代表する物語として「沈清」、「烈」を代表する物語として「春香」をあげておられます。



統一家の食口ならば誰もが知る人物や物語でしょう。 

「鄭夢周」と言えば、高麗帝に最後まで忠誠を尽くした人物。そう、「丹心歌」のテーマになった人物ですね。高麗朝の末期、李氏朝鮮を起こした李成桂が高麗の重臣であった鄭夢周に高麗王に仕えることを辞めて自らの側につくように勧めた時に、これまで忠誠を尽くした王を裏切ることは出来ないと、忠誠の詩を読んだ。それが「丹心歌」だというわけです。



高麗王朝の最後と鄭夢周そして丹心歌については次のブログが良く纏められています。出来れば読んでみてください。

高麗王朝最後の忠臣鄭夢周



韓国民族の忠臣と日本の忠臣比べてみると

鄭夢周のが生きたのは(13371392)、楠木正成が生きたのが(12941336)、年代を比べると楠木正成が湊川の戦いで最期を遂げた翌年に生まれたのが韓国民族を代表する忠臣鄭夢周だったことがわかります。少し時代がずれてはいますが、楠木正成が後醍醐天皇に忠誠を尽くした世界と鄭夢周が高麗王に尽くした中世には相通じる世界がありますね。

共に学んだ学問は儒学(当時は朱子学が主流)だったようです。朱子学が朝鮮に伝わったのは13世紀、その後李氏が朝鮮の主権を掌握すると高麗の仏教を排して朱子学を官学としてとういつします。

日本に朱子学が伝わったのは12世紀末ともされますが、本格的には1299年に元から来日した僧、一山一寧によって学理が完成したとされています。後醍醐天皇や楠木正成の行動原理には朱子学によるものと思われるところが多く見受けられ、両者が朱子学の熱心な信奉者であったともみなされています。(参照 WIKIPEDIA 朱子学



奇しくも日本と韓国いずれの民族を代表する忠臣も壮絶な最後を遂げて行きます。

楠木正成と鄭夢周に共通するのは両者とも高い見識をもって主君に尽くしたという点です。また彼らはともに軍略においても高い見識と実行力を備えていました。また主君が劣勢の時にも忠誠の心を変えなかったということです。そして、彼らは主君の誤った判断(政治や軍略上マイナスの結果をもたらすような主君の判断)には、勇気をもって諫言もしているということです。

しかし、最後は主君の判断が間違っていてもその主君を裏切ることなく死の瞬間まで忠誠を尽くしたということです。



朱子学の長所と欠点

ここで朱子学の持つ長所と欠点を見ておきたいと思います。

朱熹の説いた朱子学は上下の秩序を重んじることにおいてはとても優れた一面を持ちます。国を一定の秩序で統治するには恰好の教えであるということです。しかし、欠点もあります。ともすれば下位にある者に秩序を強制するという一面です。

朝鮮では3年の喪に服さなかったと官吏が民を棒で殴打したと言われます。日本の歴史でも朱子学の官学化で朱子学以外の学問が規制され、体制の硬直化が起こってしましまいました。

本来忠孝や烈の心は、主君や、親や夫の家臣や子供たちや妻から自然に生じる「美」であるはずのものが、殊更に下位の者の上位者への忠誠や従順を意味する言葉に置き換えられてしまう弊害です。



実際、日本を代表する忠臣であった楠木正成が悲惨な最期を遂げたのも、時の情勢や武士たちの立場、庶民の事情や心を無視した天皇の判断ミスに起因しています。天皇中心の権威と威信にこだわった公家たちの誤った進言が後醍醐天皇の政治や判断を誤らせてしまいました。朱子学の硬直した面の欠点が露呈したとも言えます。

高麗王朝に仕えた鄭夢周もよく似た道を歩んでいます。

高麗王朝を倒した李成桂ですが、李成桂が高麗王に反旗を翻した理由は足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した理由とよく似ています。足利尊氏は鎌倉幕府を滅ぼしましたが、それは元寇の役によって疲弊した武士団に対する北条政権の無策に起因しています。後醍醐天皇を立てての新政に期待ましたが、実際に行われた「建武の新政」は彼らの期待を裏切るものでした。報償は公家に篤く武士に薄く民への重圧は強化され民心の支持も失っていました。だから、九州に逃れた尊氏側に圧倒的多数の武士たちと民が味方したのです。

高麗王朝も同様でした。元寇の役は朝鮮半島の高麗にも多くの疲弊と矛盾をもたらしました。そのような中、親元派と親明派の対立の中、征明軍の指揮を任された李成桂が梅雨時に進軍の困難さから出兵に反対したにも関わらず王は進軍を命じました。鴨緑江の威化島に差し掛かった時折からの大雨で多くの兵が溺死、兵糧も尽き、脱走兵の相次ぐ中、回軍の許可を都に求めるも王と側近の反対でかなわず、李成桂は兵を返してクーデターを実行するのです。

背景には現実の実情を無視した王の判断と、権威や威信に依存した貴族的階級者の誤った進言がありました。



本当の忠孝とは?

それでも仕えた主君に忠誠を尽くして死に至る忠臣は凄いですが、少し残念な気もしますね。

それは原理もある、主体者の愛があって対象者の美があるという原理を少し外れているからではないでしょうか。

本当の意味で「忠孝烈」が重んじられ、尊重され、それが世界をリードする美点となるためには本当に賢明な主人、本当に賢明な親、本当に賢明な夫となる努力と対位にある「忠孝烈」となることではと思います。

主体者は主体者として、対象者は対象者として、共通の主体者としての神を大切にすること、共通の対象者である民や子供たちを愛することが大切です。

日本には「上下一心」という言葉があります。一の上下を超えて上下が一つ心になるということです。そのことで発展が生まれます。

原理で言えば、「主体と対象が合性一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包されるようになる。」(原理講論p72)と言うことでしょう。

そのようになれば、忠臣や孝子が死の道を行くという残念な結果ではなく、主君も家臣も、親も子も、夫も妻も、ともに喜ぶハッピーエンドの時代を迎えることが出来るのではないでしょうか。

親の目を治すために自ら死の道を行くというちょっと極端な美談より、ともに幸せを味わう親子関係がその先にあるような気がしてなりません。



長所と欠点

「忠孝について考える」・・・考えてみるいろんな思いが涌いてきます。

ここ数日はフィギアスケートの中継があって日本選手が活躍しています。どんな競技でもそうですが、自分の長所を伸ばし、自分の欠点を克服する。これが高得点の秘訣であり、勝利の秘訣です。

韓国人も、日本人もそれぞれの思想や文化の長所を伸ばし欠点を克服すれば発展は間違いないでしょう。

統一家も長所を伸ばし、欠点を克服することが大切です。

「忠孝」も殊更に強調しすぎると却ってマイナスが大きくなります。愛と美はともに授受して発展し一体化が目的です。これを強調して分裂では意味なしです。(悟れ!)

 


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