HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

偽りの絶対信仰、絶対愛、絶対服従・・・盲目的服従の要求の末路

2017-04-30 21:58:18 | 統一家の行くべき道

宋総会長の語った言葉が伝わってきた。

広島で語られたらしい。

ご自身のヨーロッパでの実績、センゲン条約を克服し、真のお父様の入国許可を勝ち取った証の後で、兄弟たちに「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」の話をして、天の父母様と真の父母様の前に、「絶対信仰、絶対愛、絶対服従しましょう!」と語ったと聞いた。

とんでもない嘘偽りである。真のお父様が語られた「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」は全ての宇宙の根本である神様に対しての「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」である。絶対に人間としての御父母様に対する「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」を要求するものではない。

そもそも、「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」は、誰かがそれを要求するようなものではないし。あるいは鼓舞するようなものでもない。神様の愛に対して、素直になれば自然と湧き上がってくるのが「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」の心であり、心情なのである。

 

HOPEブログでは以前に「忠孝とは?」と言いうテーマで記事を書いたことがある。「忠孝」と言う言葉自体が、それをどこかの誰かが要求すること自体がおかしいとその時書いた。

朝鮮朱子学や、日本の朱子学でも親孝行とは、親の言いつけに絶対にそのまま従うことのように説いているが、それが大きな間違いであることを指摘した。神様の親の心情に相対し、その愛に感動して応える美が孝の心情であると説明した。

親が子供を愛すれば、子供に孝を説かなくても子供は孝の心を顕すものなのである。王様や領主が民を愛しいつくしめば自ずと忠の心は生じてくるものなのである。殊更に「忠孝」を強調して、ましてやそれを強制するなどというのは朱子学の犯した最大の間違いであり、欠陥であった。これは歴史がすでに実証している結果なのである。

朱熹の説いた教えである朱子学の問題点に疑問を抱いたのがその後その教えをして陽明学と呼ばれるようになった王陽明の考えであった。当時宋から来日した禅宗の僧侶を介して日本に伝えられれう王陽明全集を手に知れ、王陽明の教えに感化感動したのが中江藤樹だった。中江藤樹も儒学の学び初めは「親の言いつけに絶対的に従うことが親孝行」だと考えていたが、必ずしもそれが本当の親子うことは言えない矛盾に悩んでいたが、そのご王陽明全集を読むにつけ単純に親の言うことを守るということが本当の親孝行ではなかったということに気づくようになったのである。

中江藤樹のこの悟りがその後の日本の精神史に極めて大きな良い影響を与えたことが、「代表的日本人」を著述した内村鑑三の著述のなかにも書かれている。日本民族の精神が大きく開花していくきっかけとなったのである。

孝と同様、主君に対する忠もそうなのである。それまで主君の言いつけにただただそのまま従うのが「忠」だと教えられてきていたが、その当時打ち続く戦国の戦いの中でそれが悲劇をもたらす要因であることを、多くの武将たちは気づくようになってきていたのである。たとえ主君の言うことでも、その指示に理が無ければ果敢に進言し諫言し、理にかなった戦いを上奏するのが本物の中心であるという考えが芽生えてきていたのである。

日本の戦国時代の優れた武将には優れた家臣が多く存在していた。戦国の覇者のとなっていたののは、単に優れた主君をいただく明けでなく百戦錬磨の家臣を多く抱えた武将が勝利を重ねて戦国大名の覇者になっていった。そのような勇猛果敢な家臣団は単純に主君に盲目的に従う家臣団ではなかった。時には主君の命令に命がけで逆らったり、命がけで主君に諫言して、忠誠を尽くした家臣をかかえた戦国大名が最後の覇権を獲得して、名最相明家臣として称えられたのである。

指揮官の言うことを単純に良しとしていては戦いに勝てないことは冷厳な現実である。単純に主君の言うことに従うことが本当の忠義ではない事をその時代の人々は学んでいったのである。時には主君に一時逆らうように見えても、最後の勝利を獲得することこそが真の忠義の姿なのである。

 

第二次大戦が終結して、東条英機首相が戦犯として東京裁判において裁かれたときにかれは「敗北したことに責任を感じる」としたそうである。当然のことである。「勝てる、勝てる!」として国民を総動員したのに結果的に敗北して、国民を塗炭の苦しみの中に追いやり、戦をとどめたかった昭和天皇の意思に背いたのだから当然の話である。

日本を代表する忠臣と謳われた楠木正成も後醍醐天皇の前に諫言したが受け入れられず、結局湊川の戦に負けがわかりながら出陣、結局一族郎党すべてが討ち死にする悲惨な最後を遂げた。それは一見美談だが、楠木の諫言を受け入れなかった後醍醐天皇は結局、京を追われ吉野に逃れ、南朝を開くが結局最後は北朝側に屈服せざるを得なくなったのである。この時代を描く戦記物の「太平記」はこの時代の経過を克明に描いている。主に南朝方の人物や武将を多く描いているこの読み物は、確かに南朝方の人物が書いたものだとされているが、単純に南朝側に立って、楠木正成や後醍醐天皇に忠誠を尽くしたという人物の美談を取り上る書物ではない。何故に南朝が滅んでいったのか…その経過を知ることを通して、真の忠臣の在り方や、治世の在り方を説いた経世の書だったのである。だから江戸期に「太平記読み」が珍重され、諸侯の治世や軍略の教科書足りえたのである。後に水戸光圀公が南朝こそが正統であるとして「大日本史」を著述させるが、いかにも南朝こそが正統であったとしても、その戦い臨み、治世にあたっての現実を無視した判断決定の拙さが、南朝滅亡の結果をもたらしたこともその歴史の中に記述されているのである。その点からも楠木正成の湊川の討ち死には悲劇であったが、最大の教訓を残していったのである。

 

忠孝を尽くしながらも何故敗北していったのか、そこに教訓があったからである。盲目的信仰や忠孝を要求すほどの愚はない。

残念ながら今日、総会長の今日話されたという話の内容を聞き及ぶにつき、盲目的信仰や従順の要求であったと聞いて唖然とした。これは統一教会が滅びることでしかない。かつて日本では南朝が滅び、大東亜戦争で敗北した盲目的愛国や忠孝の強制がもたらしたと同じ過ちを日本統一教会も繰り返しているのである。日本統一運動史では「・・商法」と呼ばれて、日本教会発展の最大の障害となった事件を引き起こした当時の教会体質の過ちを繰り返してしまっているのである。

あまりにも愚かである。公のような盲目的な信仰や服従の要求こそが、組織壊滅の最大要因となるのは必定である。批判を許さない、なにものををも従わないものを分派呼ばわりする。そして何より大きな過ちは子女様を蔑ろにして分派呼ばわりする非礼である。まかり間違っても子女様である。子女を否定することは父母を否定することである。今日も宋総会長は子女様を否定する発言を平気でしていた。誰がそのような言動を許容しているのだろうか。そういう言動に「アージュ」を要求するのか!

今は食口たちは従っているかのように見えるかもしれないが、それら食口の「良心」を否定する言葉の数々は、必ず天の審判を受けざるを得ない結果が待っている。どのように強弁しようが組織は確実に崩壊に向かっているのである。大本営発表に驚喜していても、現実は確実に敗北に近づいていたように。最後の末路に突き進んでいるにもかかわらずである。

 

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「真の愛の起源が神様だ!」 『原理講論』に「真の愛の起源」という言葉を入れなければなりません

2017-04-30 09:13:12 | 原理

真の愛の起源が神様だ!

Apr.30.2017今日の訓読のみ言 から 「神様と人間は父子の関係」  宇宙の根本を探して より


<最後の部分です>

男性の愛と生命の起源はどこですか。神様でしょう。二性性相の中和的主体であると同時に愛の根本であるお方が神様です。『原理講論』に「真の愛の起源」という言葉を入れなければなりません。「真の愛の起源が神様だ」という言葉を入れなければならないというのです。『原理講論』を修正することができる主人公は私しかいません。それを知っていますか。


原理講論を修正しなけばなりません。修正できる主人は私しかありません。「真の愛の起源」を入れなければなりません。そのように語られています。


男性の愛と生命の起源は神様 ⇒このことをきちんと入れ込んだのが「原理本体論」ですね。だからお父様は最後の最後まで「原理本体論」の教育の徹底を叫ばれていました。これまでの「原理講論」と「原理本体論」の最大の違いがそこにあるのです。

そのことがあればこそお父様は「原理本体論」の重要性を強調されたのですね。


原理本体論は必要ない!と言うことは「愛と生命の起源は神様」という重要な一言を無視していることです。(フェミニズム思想からは受け入れがたいのかもしれませんが)


「原理本体論」によれば、原理講論で説かれているよりより明快かつ明確に男性と女性の役割の違いが説かれています。

アダムとエバ(男性と女性)は神様の息子であり娘です。神様の子どもであることは同じですが、その役割は明確に区別されています。神様の愛と生命は男性(生殖器)を起源として女性(生殖器)を通して新たな生命(子女繁殖)として結実し繁殖していきます。この大原則は宇宙の根本であり。天地がひっくり返っても変わらないものです。サタンはこの原則を覆す試みを為そうとしています。それが、フェミニズムでありジェンダーフリーの思想です。

家庭連合の教えの根本はここにあります。このことが覆されるならば、家庭連合が家庭連合でなくなると言わなければならないでしょう。

宇宙の根本がここにあります。神様の宇宙創造の原則中の原則です。愛と生命とそして血統の主人です。

 

↓↓ 宇宙の根本は覆されない!と思われたら応援よろしくお願いします。

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宗教紛争の解決方法・・・祝福家庭のあるべき姿とは (み言訓読から)

2017-04-29 13:08:21 | 統一家の行くべき道

今も世界では葛藤と戦争が続いています。

東アジアでは北朝鮮の挑発に、これ以上放置しておくことが出来ないと、米国トランプ大統領が挑戦しようとしています。

昨日も北はミサイルを発射!失敗したと伝えられています。

世界の紛争には宗教が絡んでいる事変が数多くあります。中東地域の紛争も必ずと言っていいほど宗教絡みです。

 

訓読友の会の最新のみ言を読んでのまとめと感想です。

Apr.27.2017 今日の訓読のみ言 「平和の原理と愛の息遣いを生かす」自叙伝  P.15

以下に、その後半部分をコピーさせていただきました。(全文は上記リンクを! 文中の強調文字はブログ主が付けました)

 宗教紛争が頻繁に起こるのは、多くの政治家が自らの利己的な欲望を満たそうとして、宗教間に潜む反感を利用するからです。政治的な目的を前に、宗教は方向性を見失ってよろめき、本来の目的を喪失してしまうのです。宗教は本来、平和のために存在するものです。すべての宗教が世界平和に責任を負っています。それなのに、反対に宗教が紛争の原因となったのですから慨嘆がいたんするほかありません。その醜悪しゅうあくな様相の背後には、権力と資本を握ったどす黒い政治が隠れています。指導者の本分はすべからく平和を守ることであるのに、かえって逆のことをして、世界を対立と暴力へと追い立てているのです。

 指導者の心が正しく立たなければ、国と民族は行き場を失って彷徨うことになるでしょう。悪しき指導者は、自らの腹黒い野心を満たすために宗教と民族主義を利用します。宗教と民族主義の本質は悪いものではありませんが、それらは世界共同体に貢献してこそ価値があるのです。私の民族、私の宗教だけを絶対視して、他の民族と他の宗教を無視して非難するとすれば、その価値を失ってしまいます。自分の宗教を押し立てて人を踏みにじり、人の宗教を見下して、憎悪の火を燃やして紛争を起こすとすれば、そうした行為はすでに善ではないからです。私の民族だけ、私の国だけが正しいと主張することも同様です。

 お互いを認め合い助け合って生きる、これが宇宙の真理です取るに足りない動物もそのことを知っています。犬と猫は仲が悪いといわれていますが、一つの家で一緒に育ててみると、お互いの子を抱きかかえ合って親しくなります。植物を見ても分かることです。木に絡からまって上に伸びていく葛くずは、木の幹に寄り掛かって育ちます。だからといって、木が「おまえはなぜ私に巻き付いて上がっていくのか」と葛くずを責めたりはしません。

お互いに為に生きながら、共に生きることがまさに宇宙の原理です。この原理を離れれば、必ず滅亡するようになります。今のように民族どうし、宗教どうしが相互に罵ののしり合って、争うことが続くとすれば、人類に未来はありません。絶え間のないテロと戦争によって、ある日、吹けば飛ぶ埃のように消滅してしまうでしょう。しかし希望が全くないのではありません。もちろん希望はあるのです。

 私はその希望の紐ひもをつかんで放さず、生涯、平和を夢見て生きてきました。私の願いは、世の中を幾重にも囲んできた塀へいと垣根かきねをきれいさっぱり壊して、一つになる世の中をつくることです。宗教の塀を壊し、人種の垣根を取っ払い、富む者と貧しい者の格差を埋めた後、太古に神様がつくられた平和な世の中を復元するのです飢えた人もなく涙を流す人もない世の中ということです。希望のない世界、愛のない世の中を治療しようとしたら、私たちはもう一度、幼い頃の純粋な心に戻るしかありません。

 

◇最初に 宗教紛争が頻繁に起こるのは、多くの政治家が自らの利己的な欲望を満たそうとして、宗教間に潜む反感を利用するからです。」とあります。宗教紛争が起こるのは政治家の利己的欲望だと喝破しています。

指導者の心が正しく立たなければ、国と民族は行き場を失って彷徨うことになるでしょう。とあります。

指導者の心が正しく立たないといけないと言われます。そして 「私の民族、私の宗教だけを絶対視して、他の民族と他の宗教を無視して非難するとすれば、その価値を失ってしまいます。自分の宗教を押し立てて人を踏みにじり、人の宗教を見下して、憎悪の火を燃やして紛争を起こすとすれば、そうした行為はすでに善ではないからです。私の民族だけ、私の国だけが正しいと主張することも同様です。」「私の民族」「私の宗教」そして「私の国」だけを絶対視して他の民族や宗教を国を無視し非難することの非を指摘されています。

「お互いを認め合い助け合って生きる、これが宇宙の真理です。」と言われます。「お互いに為に生きながら、共に生きることがまさに宇宙の原理です。」と続けられます。

「私の願いは、世の中を幾重にも囲んできた塀へいと垣根かきねをきれいさっぱり壊して、一つになる世の中をつくることです。」「宗教の塀を壊し、人種の垣根を取っ払い、富む者と貧しい者の格差を埋めた後、太古に神様がつくられた平和な世の中を復元するのです。」そして希望のない世界、愛のない世の中を治療しようとしたら、私たちはもう一度、幼い頃の純粋な心に戻るしかありません。」と結ばれています。◇


最後にHOPEの感想です

平和世界を創り出す主人になれ!

希望のない世界に希望を、愛のない世界に愛をもたらすことが文鮮明先生の生涯の目標でした。「幼いころの純粋な心」と言われます。私たちの心の奥底に息づいている本心の叫び!私たちの「良心」ではないでしょうか!

文先生、真のお父様は私たち食口一人一人がそのような心に満たされて生きるものとなることを願われています。そして世界の指導者たちがそのような心を持って生きることが出来る。民族や宗教や国家を指導して生きるものとなるよう、心の治療を施すことのできるものとなってほしいと願っておられます。

私たち祝福家庭は真のお父様ご自身がそうであったように、常に幼子の心に立ち返り、常に「為に生きる」心に満ち溢れ、あらゆる宗教、あらゆる民族、あらゆる国家を超えて「為に生きる文化」を拡大していく主体者となることを願っておられるのではないでしょうか!


祝福家庭に願われること

真の祝福家庭とは、そのような文鮮明先生の教えた「平和を愛する心」「為に生きる心」で率先して自ら実践し、世の政治的リーダー達をも感化して、平和な世界、ともに幸福に生きることのできる世界実現に日々邁進して生きる家庭のことを言うのではないでしょうか!

まかり間違っても、他の宗派を否定したり、自分たちの派閥のみが正しいとして他を非難したり中傷したりするものではないことは明白です。今こそすべての祝福家庭が初心を取り戻す時が来ているのではないでしょうか!

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箱モノづくりに熱中しすぎると、そのうち信徒は逃げて行く・・・器じゃない中味でしょ!

2017-04-28 23:12:00 | 宗教

ヨンギ和尚が紹介の  HJ天苑プロジェクト説明2017.28.徳野会長

大体宗教団体が箱もの(建築物)づくりに一生懸命になると、ほとんどの宗教団体が成長が止まってしまうようである。

初期の何もない時代こそ、精神復興が激しく展開されて、熱心な伝道や布教が進むものである。ところが伝道や布教が進んで、巨大な建造物を作るようになると急に霊的な復興が止んで教団は衰退に向かうというのが常である。

勿論、教団が成長を続けてあまりにも多くの人が集まりすぎて、収容場所がなくなって止む無く施設を作るというなら別である。

今家庭連合は施設を新しく作っている時なのか?今やどんどん「分派?」に人が流れて、深刻な状況になっているのに、今更箱モノなのだろうか?はなはだ疑問に思う。

分派、あるいは教団が分裂していくのは大概がその教団の教祖や教主が死んで後継者問題から方針の転換や、財産の相続問題などから起こってくる。大概教団が作り上げた人や物の基盤に関わる利権の争いから生じてくる場合が多い。

長い歴史を経てきている教団や宗教は、その精神性の継続が順調になされての結果である。大概は教団の教祖が亡くなると一時教団は衰退するが、その後継者が最初の教祖の精神性を正しく継承しているところは長続きしてさらなる発展をしていっている。箱モノばかりを作ってきたような教団は最終的には崩壊したり、廃墟になっている例が枚挙にいとまがない。

 

HOPE子は結構いろんな宗教団体を見てきているが、賢明な宗教団体の本部は大概が実に質素である。勿論建物の本体や祭壇などは立派であるが、かといって過度の装飾などはあまりない。そして、大概教祖の家庭や一族は皆が質素である。私の知るある教団などでは教祖のうちに生まれると本当に貧乏生活を余儀なくされるという。本当に華美なものは一切使用しない。何かもの、学用品などでも、買ってほしいと言っても、クラスのみんなが持つようになってからねと教えられたという。

そういう教団に限って恩恵が大きい。人生や仕事上の悩みなどに気軽に相談に乗ってくれる。そして極端なお布施や献金は決して要求しない。本当に恩恵があって商売がうまくいったり、作物が良く取れたら、そのお礼に献金やお布施をする。それが普通である。

何か恩恵を期待して多額な献金をさせるなど問題外である。

 

アメリカやヨーロッパなどでも巨大教会(メガチャーチ)が衰退して、がらんどうになった教会が売りに出されることがたくさんあるらしい。生活が豊かになり、生きる余裕が出来てくると人々は宗教団体や教会になどほとんど足を運ばなくなるものなのである。

立派な教会堂を建てればしばらくは人が集まってくるように見えるが、そのような外的な要素で集まってきた人々はもっと外的な刺激のあるものが出てきたら、さっと引き上げて誰も来なくなる。

 

人が求めるのは器じゃない。中味でしょ!

 

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逆戻り・・・真逆な教理に舵取りを変えた結果は・・・とある教団の行った道

2017-04-28 18:34:05 | 宗教

師観さんが引用された「独生女信仰の問題点」 読ませていただいて感想です。

 

知から無知への逆戻りか!

我々は原理の最初、総序の宗教と科学の目的に関する内容の中で以下のごとき一節があったことを覚えているだろう!

「人間は有史以来今日に至るまで、休むことなく、無知から知へと、無知を克服しようとして真理を探し求めてきた。その際、内的無知を克服して内的知に至る道を見いだすべく内的真理を探求してきたのがすなわち宗教であり、外的無知を克服して外的知への道を見いだすべく外的真理を探求してきたのが科学なのである。このような角度から理解すれば、宗教と科学とは、人生の両面の無知を克服して両面の知に至る道を見いだすべく両面の真理をそれぞれ探求する手段であったということを知ることができるのである。それゆえに、人間がこのような無知から完全に解放されて、本心の欲望が指向する善の方向へのみ進み、永遠の幸福を獲得するためには、宗教と科学とが統一された一つの課題として解決され、内外両面の真理が相通ずるようにならなければならないのである。」(原理講論総序より)

このような観点で説かれたのが統一原理では無かったのか!

しかし「独生女論」は全く無知から知に至る道の結果として統一原理の宗教的且科学的真理からも逸脱ししまっているので、まさに「知から無知に逆戻りした非真理」としか言いようのない内容です。


明らかに統一原理とは異なる「独生女論」

今日お母様が語っておられるとされる「独生女論」(これはお父様が語られた意味での「独生女」ではないことは明らかです。現在の家庭連合が否定しながらもそのサイドから漏れ伝えられるお母様が語られたとされる「独生女」に関する話である。)

その「独生女」に関する論理が宗教的にも科学的にもあり得ない内容だから問題になっている。少しでもきちんと原理を納得して学んだものならば、どうしても理解できない論理だから、そのことへの困惑が家庭連合全体に拡大している。

ある一定の知的水準のある人間ならば「これはおかしい」となる。だから多くの幹部たちはお母様の「独生女論」の存在を隠そうとする。しかし科学的論理的思考能力のない幹部は「お母様が語られることだから絶対だ!信ぜよ!」と強制しようとする。

まさに家庭連合の幹部の中でも完全に見解が分かれている内容なのである。


ただし、ここで明確にしておくべきことがある。桜井正実さんが「神と共に生きる真なる息子娘として」のブログで、お母様と「独生女信仰」を同一視してはならないの記事中「私が間違っていると指摘しようとしているのは一部の祝福家庭のリーダーによって生み出された「独生女信仰」であって、お母様の価値を貶め、辱しめようという動機からのものではありません。」語っているように、お母様が語っておられるという「独生女論」とお母様の問題は別個だということである


お母様ご自身の発想とは考えづらい「独生女論」

お母様が語っておられる「独生女論」は、お母様ご自身からの発想によるものだろうか?それとも非科学的、非原理的、非論理的思考の何者かによってお母様に吹き込まれた論理なのだろうか?ということである。真のお母様の語る「独生女論」は一見神学的である。こういう論理の展開はお母さま御侍史委によるものだとは考えづらい。何者かが仕組んだ論理と考えるのが妥当であろう。人類始祖のエバに「とって食べてもいい」と教え込んだのが天使長ルーシェルだった。同様に今もお母様に「非科学的、非原理的論理を教え込んでいる」一部幹部が歴然と存在しているということが事実ではなかろうか。

 

お父さまの教えとは真逆な「独生女論」

いずれにせよ、「独生女論」が真のお父様が掲げて来た統一原理に基づく価値観とは真反対の内容であることは明らかである。今は「独生女論」を支持するもの、これに異を持ちながらもこの問題からの回避を続けているもの。さまざまであるが、こういう状況がそう長く続くとは思われない。

統一原理からの完全な逸脱では、さすがの信徒たちも自らの進退を考えざるを得ないであろう。

 

「反安倍」となった日本会議の母体「生長の家」

昨日書いた「新潮45」の特集記事の中で「「反安倍」となった日本会議の母体「生長の家」藤倉義郎」の記事があった。

かつては保守系宗教団体と見られていた「生長の家」が今は完全に左翼系宗教団体になってしまっていた。サブタイトルには「現総裁は古参幹部、親兄弟を排除し、教団をエコ左翼宗教に変えた」とある。

生長の家は1930年に谷口雅春師が創設した宗教団体で神道、仏教、キリスト教など諸宗教の融合させ、「万教帰一」を説いてきた。教団最盛期には300万の会員(公称)を誇っていた。政治にも進出し「生長の家政治連盟」は自民党の中に強力な保守系政治家を送り込んでいた。今は三代目の谷口雅宣氏が総裁を務めるが、今は教団本部には「脱原発」が掲げられ、政治的には昨年6月、7月の参議院選挙を前に「与党を支持しない」反安倍の姿勢を打ち出し世間を驚かした。

生長の家と言えばかつては最も保守的な宗教団体として知られ、保守系議員が数多く参加していることで知られる、日本会議の生みの親とも言われる団体だった。ところが、教団はこの日本会議に関しても「生長の家とは異質」と断定し、教団の左翼路線への急転回を印象付けた。

 

生長の家変貌の経緯

かつての右翼教団がなぜこのような180度真逆な変貌を遂げてしまったのであろうか?

問題の発端は1983年の参議院選挙の直後に生長の家政治連盟が突如その活動を停止したことに始まる。83年の参議選で生長の家が推薦した寺内弘子氏が落選、その責任問題から教団内部が紛糾、その時に発言力を増したのが現総裁の雅宣氏であった。

1985年に谷口雅春師が亡くなると、二代目の総裁に就任したのが雅春師の娘婿の谷口清超氏で、その息子が現総裁の雅宣氏だった。1990年に雅宣氏が副総裁に就任すると生長の家の一般向け機関紙の「理想世界」で大東亜戦争を日本の侵略戦争だったとする見解を発表。生長の家にとっては大事件だったようである。「雅宣氏は学生時代(青山学院)左翼セクトのメンバーだった。」との話も伝わっているようである。

2009年に二代目総裁の清超師が亡くなると、雅宣氏が総裁に就任、彼が総裁になると、それまでの天皇信仰や明治憲法復元論を封殺、祭祀の重点を「鎮護国家」から「世界平和」へと変更した。その後も教団の教義は変貌を続け、創始者の雅春師の著述や言葉は雅宣氏流の表現や解釈に変貌を遂げて行った。もともと生長の家は初代総裁の谷口雅春師に心酔してきた古老の幹部も多数存在していたわけだから雅宣氏がそう簡単に主導権を取って切ったわけではないが、父の清超師が総裁になり、長男が妖逝する中、残る男子の中で最年長の雅宣氏が副総裁になると、父子間で主導権争いもあったようであるが、最終的には教団の主導権を掌握し、教権基盤を盤石のものにしていったという。この間、谷口雅春師の著作の新刊書発行停止や既刊書の重版停止と言うこともなされた。雅宣氏は親子対決を制したのみならず、教団役員も自らの意に沿う役員に挿げ替えて権力基盤を盤石にしていった。

 

いまの生長の家は5万人程度か 「環境の話ばかりで”救い”がない」と言ってやめて行く会員

最盛期には公称300万を誇った教団は現在の公称は52万である。「実質は5万人程度では」とも言われている。

雅宣氏の親兄弟他一族も大半が教団とは一歩置いた立場に立っている。雅宣氏自身の子どもたちも、長女は教団職員だが、長男次男とも教団とは関係のない仕事をしており、教団を継ぐ意思は無いようである。教団を継ぐ副総裁の立場は空席だそうである。

今教団本部は「森の中のオフィス」という施設になっているが、ほとんど環境団体の事務所のごとくであり、宗教色が消えて行っている。「環境の話ばかりで”救い”がない」と言ってやめて行く会員が後をたたない。と言うのが実情のようである。

最後に藤倉善郎氏は「ただ単に右翼が左翼になっただけではない。宗教的充実感そのものが、生長の家から失われてきているのではなかろうか」と結んでいる。

 

家庭連合は何処へ行く

初代教祖の文鮮明師の教えとは180度違う教義を掲げて先に進もうとしている「家庭連合」は、どこへ行くのだろうか!

性格は違うと言えども、「生長の家」がたどった歩みには何か共通する要素を感じさせる。

生長の家現総裁の雅宣氏は、祖父の雅春師からはかなり厳しく躾けられたようである。祖父の雅春師を「恨んでいた」のではとの声も聞く。現総裁の谷口雅宣氏は教団を潰そうとしているのでは!とさえ今は言われている。かつての熱心な信者たちは、それぞれに独自の集団を作ったり、保守系思想で共通する「幸福の科学」に流れた信者も多いと聞く。

「家庭連合」もこのままお母様が主導権を握り、さらに女の子女様が継承していくとなれば、本来真のお父様が立てられた精神や思想、宗教性とは全く違った教団になって行くことは否めない。そうなってもついて行く信徒はどれくらいいるのだろうか? 最後までそこに従っていく人は極めて少数になるのは間違いないだろう。

今のうちに、その進路をしっかり考えて行った方がよさそうである。

 

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