宋総会長の語った言葉が伝わってきた。
広島で語られたらしい。
ご自身のヨーロッパでの実績、センゲン条約を克服し、真のお父様の入国許可を勝ち取った証の後で、兄弟たちに「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」の話をして、天の父母様と真の父母様の前に、「絶対信仰、絶対愛、絶対服従しましょう!」と語ったと聞いた。
とんでもない嘘偽りである。真のお父様が語られた「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」は全ての宇宙の根本である神様に対しての「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」である。絶対に人間としての御父母様に対する「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」を要求するものではない。
そもそも、「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」は、誰かがそれを要求するようなものではないし。あるいは鼓舞するようなものでもない。神様の愛に対して、素直になれば自然と湧き上がってくるのが「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」の心であり、心情なのである。
HOPEブログでは以前に「忠孝とは?」と言いうテーマで記事を書いたことがある。「忠孝」と言う言葉自体が、それをどこかの誰かが要求すること自体がおかしいとその時書いた。
朝鮮朱子学や、日本の朱子学でも親孝行とは、親の言いつけに絶対にそのまま従うことのように説いているが、それが大きな間違いであることを指摘した。神様の親の心情に相対し、その愛に感動して応える美が孝の心情であると説明した。
親が子供を愛すれば、子供に孝を説かなくても子供は孝の心を顕すものなのである。王様や領主が民を愛しいつくしめば自ずと忠の心は生じてくるものなのである。殊更に「忠孝」を強調して、ましてやそれを強制するなどというのは朱子学の犯した最大の間違いであり、欠陥であった。これは歴史がすでに実証している結果なのである。
朱熹の説いた教えである朱子学の問題点に疑問を抱いたのがその後その教えをして陽明学と呼ばれるようになった王陽明の考えであった。当時宋から来日した禅宗の僧侶を介して日本に伝えられれう王陽明全集を手に知れ、王陽明の教えに感化感動したのが中江藤樹だった。中江藤樹も儒学の学び初めは「親の言いつけに絶対的に従うことが親孝行」だと考えていたが、必ずしもそれが本当の親子うことは言えない矛盾に悩んでいたが、そのご王陽明全集を読むにつけ単純に親の言うことを守るということが本当の親孝行ではなかったということに気づくようになったのである。
中江藤樹のこの悟りがその後の日本の精神史に極めて大きな良い影響を与えたことが、「代表的日本人」を著述した内村鑑三の著述のなかにも書かれている。日本民族の精神が大きく開花していくきっかけとなったのである。
孝と同様、主君に対する忠もそうなのである。それまで主君の言いつけにただただそのまま従うのが「忠」だと教えられてきていたが、その当時打ち続く戦国の戦いの中でそれが悲劇をもたらす要因であることを、多くの武将たちは気づくようになってきていたのである。たとえ主君の言うことでも、その指示に理が無ければ果敢に進言し諫言し、理にかなった戦いを上奏するのが本物の中心であるという考えが芽生えてきていたのである。
日本の戦国時代の優れた武将には優れた家臣が多く存在していた。戦国の覇者のとなっていたののは、単に優れた主君をいただく明けでなく百戦錬磨の家臣を多く抱えた武将が勝利を重ねて戦国大名の覇者になっていった。そのような勇猛果敢な家臣団は単純に主君に盲目的に従う家臣団ではなかった。時には主君の命令に命がけで逆らったり、命がけで主君に諫言して、忠誠を尽くした家臣をかかえた戦国大名が最後の覇権を獲得して、名最相明家臣として称えられたのである。
指揮官の言うことを単純に良しとしていては戦いに勝てないことは冷厳な現実である。単純に主君の言うことに従うことが本当の忠義ではない事をその時代の人々は学んでいったのである。時には主君に一時逆らうように見えても、最後の勝利を獲得することこそが真の忠義の姿なのである。
第二次大戦が終結して、東条英機首相が戦犯として東京裁判において裁かれたときにかれは「敗北したことに責任を感じる」としたそうである。当然のことである。「勝てる、勝てる!」として国民を総動員したのに結果的に敗北して、国民を塗炭の苦しみの中に追いやり、戦をとどめたかった昭和天皇の意思に背いたのだから当然の話である。
日本を代表する忠臣と謳われた楠木正成も後醍醐天皇の前に諫言したが受け入れられず、結局湊川の戦に負けがわかりながら出陣、結局一族郎党すべてが討ち死にする悲惨な最後を遂げた。それは一見美談だが、楠木の諫言を受け入れなかった後醍醐天皇は結局、京を追われ吉野に逃れ、南朝を開くが結局最後は北朝側に屈服せざるを得なくなったのである。この時代を描く戦記物の「太平記」はこの時代の経過を克明に描いている。主に南朝方の人物や武将を多く描いているこの読み物は、確かに南朝方の人物が書いたものだとされているが、単純に南朝側に立って、楠木正成や後醍醐天皇に忠誠を尽くしたという人物の美談を取り上る書物ではない。何故に南朝が滅んでいったのか…その経過を知ることを通して、真の忠臣の在り方や、治世の在り方を説いた経世の書だったのである。だから江戸期に「太平記読み」が珍重され、諸侯の治世や軍略の教科書足りえたのである。後に水戸光圀公が南朝こそが正統であるとして「大日本史」を著述させるが、いかにも南朝こそが正統であったとしても、その戦い臨み、治世にあたっての現実を無視した判断決定の拙さが、南朝滅亡の結果をもたらしたこともその歴史の中に記述されているのである。その点からも楠木正成の湊川の討ち死には悲劇であったが、最大の教訓を残していったのである。
忠孝を尽くしながらも何故敗北していったのか、そこに教訓があったからである。盲目的信仰や忠孝を要求すほどの愚はない。
残念ながら今日、総会長の今日話されたという話の内容を聞き及ぶにつき、盲目的信仰や従順の要求であったと聞いて唖然とした。これは統一教会が滅びることでしかない。かつて日本では南朝が滅び、大東亜戦争で敗北した盲目的愛国や忠孝の強制がもたらしたと同じ過ちを日本統一教会も繰り返しているのである。日本統一運動史では「・・商法」と呼ばれて、日本教会発展の最大の障害となった事件を引き起こした当時の教会体質の過ちを繰り返してしまっているのである。
あまりにも愚かである。公のような盲目的な信仰や服従の要求こそが、組織壊滅の最大要因となるのは必定である。批判を許さない、なにものををも従わないものを分派呼ばわりする。そして何より大きな過ちは子女様を蔑ろにして分派呼ばわりする非礼である。まかり間違っても子女様である。子女を否定することは父母を否定することである。今日も宋総会長は子女様を否定する発言を平気でしていた。誰がそのような言動を許容しているのだろうか。そういう言動に「アージュ」を要求するのか!
今は食口たちは従っているかのように見えるかもしれないが、それら食口の「良心」を否定する言葉の数々は、必ず天の審判を受けざるを得ない結果が待っている。どのように強弁しようが組織は確実に崩壊に向かっているのである。大本営発表に驚喜していても、現実は確実に敗北に近づいていたように。最後の末路に突き進んでいるにもかかわらずである。