HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

韓国よりすごい日本の金正男暗殺報道~大波乱のドミノ崩壊が待ち受けている。

2017-02-28 00:15:40 | 時局

金正男暗殺報道は韓国が凄いのかと思いきや、どうやらその情報量は日本の方がはるかに多いらしい。日本のテレビなどのマスコミでは、犯行の手口や、その後のマレーシア警察当局の捜査、北や各国の動向などを連日連夜報道している。ところが韓国では、情報量が、日本に比べはるかに少ないようだと、朝鮮日報のWEBページなどが伝えている。やはり、マレーシア警察当局などとの情報のパイプが日本は凄いらしい。フジテレビなどは防犯映像を徹底分析して、金正男を襲撃した二人の実行犯の女性だけでなく、周辺で様々な様子で移っている、北の工作員らしき姿を、米の専門家などにも委嘱して映像分析している。またVXの成分や特徴など事細かにコメンテーターを準備して報道している。

これらの報道を見れば、まぎれもなく今回の金正男殺害は、北朝鮮の国家的犯行であることは否定しようもない。にもかかわらずそれを否定し続ける北の大使館や広報関係者のコメントは、却って北朝鮮という国の異常さを浮き彫りにしている。

北内部での軍事クーデターの起こることも取りざたされている。今の状況は何が起こってもおかしくない状況であり、今回の殺戮が、用意周到であるようだが、防犯カメラの映像にバレバレの実行犯の状況を見れば、実際の実行は実にずさんである。それらに対するコメントもあまりにも無理のある内容しかコメントできない実情は完全に北が行き詰っていることを歴然とさせている。

特に今回金正恩が、実兄を殺害したということは、いかに共産主義体制とはいえ、長い儒教的倫理観の民族の歴史からして到底許されざることであり、反正恩クーデターには恰好の口実が出来たことから、実際に軍部が動く可能性は、急激に高まっている。

今、中国が今回の金正男殺害に関しては極めて態度が曖昧である。金正男はこれまで中国政府の保護のもとにあったと思われるが、金正男の金ハンソルの動向が不明である。北が次に殺害を企てる対象として当然であるが、マレーシア警察からDNA鑑定を願われているようであるし、遺体の確認と引き取りのためにマレーシアに入国してもしかるべきであるにも関わらず、いまだ実現していない。

米国トランプ大統領の動向が気になって仕方がないのが中国共産党の中枢であろう。アメリカの睨みがなければ一挙に北にいざとなれば軍事行動を起こしてでも親中政権を立てたいのが習近平であろうが、堅物のトランプが大統領になったことで下手な行動には出られないのが中国である。逆に北を米国が抑えるようになれば、一挙に東アジアにおける中国の覇権は失墜してしまわざるを得ないのが現状である。北の崩壊に合わせて自分たちの政権までドミノ式に倒れる可能性も大きくなっているのである。

そう考えると韓国は、日本以上に今回の金正男殺害事件に敏感に反応し、情報収集しなければならないのに、少なくともマスコミに関しては情報量が圧倒的意に少ない。せいぜい、日本からのネット情報などを通して事態を的確に把握していくことが重要である。

ともかくも、家庭連合(統一教会)においても、内輪もめのようなことにうつつを抜かしている時ではない。すくなくとも北や周辺国の動向に敏感になり、内部的抗争は一時停止してでも今後の事態に対処しなければ、とてつもない混乱が今後起こってくる可能性が大きいことを自覚すべきである。

特に、お父様の血統を直接にひいている顕進様の動向や発言に関心を持たなければならない。天の摂理の動向と、現実世界の動向に最も関心を持ち、お父様から引き継いだ天的な感性で今の時代、だれが何をすべきであるかを誰よりもよく理解している方なのであるからである。このような状況のもとでは、だれが正統かなどとの論議は無用である。すべてを覆いつくすような大波が迫っているのに誰がリーダーとかの面子は関係ない。東日本大震災で、メンツにこだわる論議をしていて逃げ遅れた石巻の小学校の悲劇を忘れてはならない。


忠孝あれこれ・・・⑧中江藤樹とその弟子熊沢蕃山、そして名君池田光政

2017-02-27 18:24:25 | 忠孝

ようやく入門を許された熊沢氏、学問に飢えていたこの青年は藤樹先生のその教えを瞬く間に吸収し、自らのものとして行った。もともと熊沢は学問の素養があったが、藤樹先生の弟子の中では、その教えの習熟において優れ、最後は藤樹先生も最も信頼し、最も教え甲斐のある弟子となって行ったのである。

さてこのころの学問、儒学と言えば朱熹の説いた朱子学が主流の時代だった。しかし、中国では、明の時代になり、朱子学の教えの矛盾点や過ったところを明らかして説いた王陽明の儒学が広まっていこうとしていた。王陽明は学理に走った朱熹の教えに対して、「知行合一」あるいは「致良知」と言った実践的学問を説いたのである。時あたかも中国の王権は明が衰退し、清が勃興して移って行く時代であった。この当時、需要の京店は主に禅僧などによって書物として日本に入ってきていた時代であった。

中江藤樹先生は正保元年(164437歳の時に「王陽明全集」を入手したと伝記にある。王陽明全集を手にして一気に読み通した藤樹先生は、その説かれている内容があまりにも理にかなった教えであり、自分がこれまで学んできた朱熹の教えにいだいた疑問点に明確に答えていることに深い感銘を覚えた。王陽明は朱熹の教え(朱子学)があまりにも学理に傾きすぎで、現実に適合せず、階級的差別をもたらすものだったのである。

王陽明全集を読破し感動して、さっそく書簡にしたためて熊沢(当時26歳)に送った。そこで熊沢青年も陽明全集に接することとなったのである。当時王陽明の儒学は「心学」と呼ばれていた。中江藤樹先生が熊沢に送った手紙には「心学をしっかり学ぶように」と書かれたものもあった。

正保2年(1645)、熊沢は再び備前岡山藩に復仕。二郎八と改称した。そしてその後、江戸時代一番の名君と謳われた池田光政のもとで藤樹先生に教わった儒学をもとに仁政を藩主池田公とともに実践していくようになるのである。



熊沢が岡山藩に帰藩を申し出たこの時、藩主池田光政は快く、再出仕を許可したとある。熊沢は以前、池田藩に仕えていたが、藩主光政は熊沢の能力を見抜き、あえて諸国を訪ねて学問を磨き再びそのもとに帰ってくるのを待ちわびていたかとも思われる。

熊沢が藤樹先生から学んだのはもともと朱熹の学問が基本であった。しかし、そののち藤樹先生が王陽明に感銘を受けてからは、藤樹先生は熊沢にも王陽明を勧めた。(陽明学と言う言い方は明治以降に言われるようになった言い方。当時は王学あるいは心学と呼ばれていた。)を深く学んでいったものと考えられる。実は池田光政自身が王陽明を学んでいたのではとも思われる節がある。池田光政は儒学を重んじ、他国が寺請制度を取る中、神社請を実行し、藩士の教育には儒学を基本として教育を進めて行った。民の教育にも積極的に取り組み、庶民教育のための学校、閑谷学校を設けるなど一般庶民の教育にも力を入れた。

近江の一寒村で始まった藤樹の教育は、その弟子に熊沢蕃山を得て、当時を代表する名君の政治に結実し、その影響は全国に拡大しさらには明治の開国の時代にまで影響を及ぼしていくのである。

故郷の母親に孝養を尽くす一心で仕官を投げ出してまで故郷に還った藤樹の真心が、その後の日本の歴史と文化に明るい結実をもたらしていくのである。


郭炳憲教会長のその後

2017-02-26 23:23:01 | 統一家の行くべき道

声明文を発表した能登教会長郭炳憲氏、今回の人事異動で能登教会長を解任、本部待機待遇になったとか~

やはり報復人事なのでしょうか?「勝手なことは言うな、するな!」という本部の意思の表れでしょうか。

当ブログ村で有名な「奇知外記」氏は、そのもとで教会員だったようですな。随分ご自分の考えとは違う教会長だったようで、一人気炎を発しておられたようですね。

まあ、本部の言い分を代弁していたので、教会長が離任してよかったですなあ。

まさか、言うことを聞かないと見るや銃殺か暗殺を実行する北とは違うようだが、発想の次元はよく似ている。つまり誰かを絶対視して、絶対化に都合のいい理論を組み立て、それに従うことを強要する。そのあたりは北も南も家庭連合も同一である。

まずは神様第一ではないのかなあ。神様はご自分がないからひたすら人間や万物を無条件で愛する。だから神様を信じる人、宗教を信じる人は押しなべて愛を実践する。

まあ、北は神様の代わりに人間を神格化してそこに絶対従順を強制する。そういう人間宗教。南は派閥や政党、宗族を中心として我田引水の争いを繰り返す。教会(家庭連合)も同じ体質。これを変えなければ発展は望めない。

自由意思による自由行動、本心の自由が発揮されるところに発展がある。人々の幸せがある。そこに神様の希望がある。

 


主人や親の言うことにただ従順に従うことがほんとうの忠孝ですか?

2017-02-26 22:04:36 | 忠孝

儒学では親の言いつけに100%従順に従うことが親孝行になる。逆に言えば親の言いつけに従わない子は親不孝になる。

日本でも儒学の教えの熱心な地方では、そういうことが言われてきた。「親の言うことはそのまま聞いて行いなさい」そのように教えられてきた。

しかし、小さい子供のころはともかく、単純に親の言いつけをそのまま聞けば親孝行とは言えない事例があまりに多くある。

この、「親の言いつけを守ることが親孝行」というのは、儒学の中でも主に朱子学の教えである。朱子学は忠と言うことも、主君への絶対従順を教える。儒学でも、陽明学はかなり自由である。陽明がくからすれば親が喜ぶことをする。親を幸せすることが本当の孝行と言うことになる。「忠」の場合も、単純に主君の言いつけを守るのではなく、主君を立派な主君、世から尊敬される主君にすることが本当の忠臣と言うことになる。

HOPEで様々に「忠孝あれこれ・・・」と取り上げているが、皆さんに注目していただきたいのは「本当の忠孝とは何か?」と言うことである。

創造原理には明白に書かれている。「愛と美は四位基台を完成するためにある」と。忠孝烈は主体である主人、親、夫の愛に応える家臣、子供、妻が一つになることのためにある。

ところが朱子学的な「忠孝烈」は極めて一方的で、主体の愛はともかく対象の従順さのみが強調される。

権力が権力を正しい者と規定して、下の者は単純に従順にしたげうことだと教える教えは支配階級には都合がいいかもしれないが、それでは主体と対象の一体化は出来ない。朱子学全盛の朝鮮時代や、日本でも朱子学が尊重された時代は権力者と民の遊離が甚だしく、社会の発展は阻害され、世の中の健全な発展はもたらされなかった。

忠孝あれこれで「中江藤樹」を取りあげているが、「代表的日本人」の著作の中で内村鑑三は「中江藤樹が陽明学を取り入れ、それを弟子の熊沢蕃山が学び、主君の池田光政が取り入れることによって日本の世の中は明るくなった。」と書いている。中江藤樹がもともと学んでいたのは朱子学であった。だから義務的にも親に孝行しなければと故郷に帰ったが、朱子の教えそのものでは本当の孝行の喜びが無いことを感じていた。そのころ王陽明全集を読んで、感銘したのである。ここにこそ孔子や孟子が教えたかった本当の教えがあると、本心で実感したのである。そしてそれを一番心の通じた弟子の熊沢蕃山にもおしえた、熊沢もこれまでの朱子学の教えに飽き足らないものを覚えていたのである。その疑問に王陽明は答えてくれた。熊沢蕃山は岡山の池田藩主池田光政に仕えて、その教えを実践した。それは「愛」の政治であった。藩主光政と蕃山は心を一つにしてひたすら民を幸せにする政治を行った。

「侍は愛である」という一文がある。「農民は農作物を作り、職人は道具を作る、女は料理や衣類を作って皆の役に立つ。しかし侍は何も作らない。だから愛の政治でみなを喜ばすことが侍の務めだ!」というわけである。

その後幕府の朱子学者林羅山に睨まれて、池田公も朱子学を受け入れざるを得なくなり、蕃山もその地位から追放されるが、その精神や考え方はその後の江戸の学者や政治家に大きな影響を与えた。江戸時代一の人気の学者は熊沢蕃山、名君は池田光政と言われた。それはひたすら民の幸せのための政治を行った愛に民も応えてきたからである。内村鑑三が取り上げた代表的日本人の一人上杉鷹山も同様の考えで政治を行った。民をひたすら愛したのである。鷹山は少し知恵遅れだった夫人をひたすら愛した。

江戸幕末になると、幕府の学者たちも表向きは朱子学を講じながら裏では陽明学を学んでいた。その代表例が江戸の昌平黌(徳川幕府の学問所)の総長佐藤一斎であった。その門下には吉田松陰の師、佐久間象山や幕末の藩政改革で有名な山田方谷などがいる。いずれも陽明学の影響を大きく受けた人物たちだった。西郷隆盛や勝海舟も熊沢蕃山の著作などを通し陽明学の影響を受けている。

日本の政治体制が、一部には階級差別的なものがないことはなかったが、概ね健全で明るい主従関係や為政者と民の関係が持たれたのも王陽明の教えが広く受け入れられたことが大きい。

翻って教会(家庭連合)の実態を見てみよう。個々人の主体性よりも、教会本部や役職上位者の指示や命令が尊重されて、従順に単純に従うことが求められてきた。親孝行についても、単純に親の言うことが善だといって、子女様が親の言うことを聞かなかったから親不孝だと決めつける。

王権や、メシアを神格化して、絶対従順を求めるのは朱子学の犯した過ちを繰り返しているようなものである。朱子学的忠孝心は真の幸福を主体者にも対象者にも与えない。結果は主君と家臣が分離し、親と子が分離し、夫婦が分離して行かざるを得なくなり、愛と統一とは真逆な結果に陥って来たのである。

王様に不従順だと言って家臣を拷問する。親に不従順な子だと言って王子まで殺す。夫に不従順だと言って妻を離縁させる。これでは意味ないだろう。孔子も孟子もそのようなことは教えていない。

原理もそのようには教えていないことは前述した。朝鮮朱子学の縛から解放され無ければ統一家に希望も未来も開かれないであろう。


忠孝あれこれ・・ ⑦孝について 近江聖人「中江藤樹」 熊沢氏の入門

2017-02-25 23:32:14 | 忠孝

そのようなときにある一人の若者が藤樹先生のもとに弟子入りしたいとやって来た。その若者と言うのがその後日本に王陽明の教え(いわゆる陽明学、このころは王学あるいは心学と呼ばれていた)を広く行きわたらせることに貢献した名学者熊沢蕃山であった。その若者、もとは備前岡山藩池田光政に仕えていたが、島原の乱には出兵を願ったが許されず、島原の乱ののち、島原の乱で負傷した父親とともに、祖母の郷里の近江の桐原に住まいしていた。

徳川の世になり、諸国が天下泰平の世になってくると、武芸よりも学問が重んじられる時代となり、熊沢青年は父のもとで兵法や、四書などを学んでいた。彼は学問を究めて再び出仕を志していたのである。

そこで父のもとでの学問に飽き足らず、さらに学問を究めるために、いずれかに優れた師ははいないだろうかと探していた。そのさなか、京のとある旅籠で逗留中、とても気になる話を耳にした。

それは越前前田藩から藩の金子を預かって京に届ける役目を預かった使者。、「実は実に正直な馬子に助けられた。自分は越前から京に前田家からの重要な金子200両を預かって旅していた。旅の途上馬を利用した。ところが宿について気が付いてみると御用金を収めた金子が見当たらない。途方に暮れてもうこれは切腹ものだと途方に暮れていたところに、先ほどの馬を引きの馬子がやって来た。『もしやこの金子をお忘れでは?』と宿まで持ってきてくれたのである。

もはや万事休すと思っていたところに、馬子が金子を持ってきてくれて命拾いである。そこで手持ちの金から金15両をお礼だと渡そうとすると『そんなお金は受け取れない』という。額を減らして『受け取ってくれ』と言っても『受け取れない』との押し問答。最後に『それじゃあ、200文だけいただきましょう。それくらいの手間賃はいただいてもいいかも。』と言ったので200文を渡すと、『いただいたそのお金そのまま帰るのもなんだから、一緒に酒でも飲みましょう』といって、皆も誘って酒盛りをした。それで『なんでそなたはかくも正直なのか?』と聞いてみると、『それは藤樹塾の先生に教えていただいたからだ。』との答えだった。『その先生は?』と聞くと、もとは伊予大洲藩に仕えた学者さんだが母親への孝養のために藩を辞し故郷に帰り、故郷の村人に徳のある生き方を教えてくれている。その先生に学んだ教えが、人は「明徳」をもって生きなければならないというもので、自分はその教えの通りにしただけだ。』との答えだったという。」

この話を聞いた熊沢青年、「これこそ私が求めて来た師ではなかろうか!是非ともこの先生に教えを請うて弟子としていただこう。」そのような経緯から小川村の藤樹先生のもとにやって来たというのである。



青年熊沢は藤樹先生の門をたたき、「是非とも弟子にしていただきたい。」と願い出た。しかし、藤樹先生は「いや私は村人を教えるだけのもの、門人を取るようなことは出来ない。」ときっぱり断った。しかし、まさにこの方こそわが師との思いを強くしたっ熊沢青年は、「先生に入門を許していただくまでは」と、二日二晩、塾の門前に座り込んだ。

そこで助け舟を出してくれたのが藤樹先生のお母さん、「お前、あのように熱心に入門させてほしいと願っている。弟子にするということではなく、ともに学ぶということで入門させてやったらどうか。」と。その母親の一言に藤樹先生も「それならば」と熊沢青年の入門を許可してくれたのである。

熊沢蕃山が中江藤樹先生のもとに入門をした経緯はこの通りである。

藤樹先生が大洲藩を辞して故郷に帰った経緯や、小川村に塾を開いて村人を教えた逸話、藤樹先生の教えの内容などは以下のページにわかり易く記述されている。参照されることをお勧めする。

 国柄探訪: 中江藤樹 ~ まごころを磨く学問

  馬方や漁師を相手に人の生き方を説く中江の学問が、
 ひたひたと琵琶湖沿岸から広がっていった。
この藤樹先生と熊沢氏の出会いと入門が、その後の日本の思想史に重大な役割を果たすことになるのである。藤樹先生の門下生となった熊沢氏がその後どのような歩みをしていくのか、その活躍や藤樹先生との師弟関係のその後など引き続きみて行きたい。
このあたりの経緯は内村鑑三の「代表的日本人」にも詳しく述べられている。こちらもぜひお読みになることをお勧めする。
 
以下続く