内村鑑三は次のように「代表的日本人」で述べている。
「陽明学の‥‥お陰で、私どもは、内気で、臆病で、保守的、退歩的な国民になることはなかったのだと考えます。・・・・・王陽明は、孔子の内にあった進歩性を展開させ、間違って孔子を解しがちな人々に希望を吹き込んだのだのであります。」
このように内村は陽明学が中江藤樹によって見いだされ、熊沢蕃山によって広められ、その後日本の精神文化に多大な良い影響を及ぼしたことを核心的に時間していたことがわかります。
江戸の初期、中江藤樹によって見いだされ、その弟子熊沢蕃山によって岡山藩主池田公にもたらされ、全国にその教えが広められた陽明学(陽明学との表現は明治以降、その当時は王学あるいは心学と称されていた。)は林羅山など幕府の学問方から危険視され、否定された。
熊沢蕃山もその後岡山藩を離れて幕府の監視下に置かれるようになるが、蕃山の著書は禁書とされた「大学或問」や「衆義外書」なども含め江戸末期に至るまで向学の学徒に好み読まれ、表向き朱子学を学びながらも陰では王陽明を学ぶ者が多く出てくるのである。
この傾向は幕末に至るとさらに顕著になり、西郷隆盛や吉田松陰の師となった佐久間象山や、幕末の藩政改革で驚異的な実績を残した山田方谷らに継承されて行ったのである。内村鑑三が活躍した時代には朱子学と陽明学の違いが明らかにされていたことと思われる。
王陽明の心学とキリシタンの思想の類似性についてはよく言われているところのものである。また、陽明学は多く禅師を通して伝えられた。禅の教えと陽明学さらにはキリスト教思想との共通性は内村は「代表的日本人」の別のところでも述べている。
仏教思想の研究者によると達磨大師がイエスキリストの教えに大きな影響を受けていたとの見解がある。
中江藤樹先生の近江での村人たちとの逸話などは次のブログ記事がとても参考になりました。藤樹先生の村人との篤い交わりが描かれています。村人と藤樹先生の心温まるエピソードが紹介されています。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h15/jog324.html
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