「楠木正成」続きです。
湊川の戦
最後の進言を受け入れられなかった正成はわずか700の手勢を率いて湊川へ向かった。一方の尊氏軍は3万5千、問題にならない差である。最初尊氏は戦力を小出しにして、正成軍を圧倒しようとはしなかった。それは数年前にはともに鎌倉幕府と戦った間柄で、正成の人となりを知っていた尊氏であるから、何とか正成が降伏するのを待っていたのである。しかし、命がけの攻撃を仕掛けてくる正成軍に尊氏は総攻撃を命じた。6時間の戦いののち正成は生き残った72名とともに家屋に火をつけ自刃し、最後に正成は弟の正季(まさすえ)と刺し違えて絶命した。正成42歳であった。
その後正成の首は京の六条河原に晒されたが、その後故郷の一族のもとに送り届けられた。敵として戦った相手ではあるが、正成のあっぱれな姿に敵味方を超えて尊んだことがわかる。尊氏側に立って歴史を記した「梅松論」にも「誠に賢才武略の勇士とはこのような者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」とある。
その後後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を開く。尊氏が開いた室町幕府のもと南朝に付いた尊氏は「逆族」としての扱いを受けたが、永禄2年(1559)正成の子孫と称する楠木正虎の申し出でにより正親町天皇の赦免を受けることとなった。
語り告げられた正成の忠義
北朝側から見れば「逆族」であった楠木正成であるが、その忠誠と武勇の姿は敵味方を超えて語り継がれ、それらの事績は「太平記」や「梅松論」に記されている。
特に40巻からなる戦記物の「太平記」語り告げられ、江戸の時代になると太平記に記された、楠木正成の武勇や治世に習おうとする武将や一般の町人も増えてくる。
すでに室町の時代から僧侶の中に「太平記」を読み聞かせるものが現れるようになり、江戸時代になると「太平記」の解説書である「太平記尽抄」などが発刊されるようになってきた。(越前前田藩や岡山池田藩などにその資料が残っている。)最初は武家の間で「太平記」に基づき兵学や治世学をを講釈するものが現れ、さらに江戸中期になると一般庶民の間にも広がって芸能化していった。この講釈師を「太平記読み」と言い、これが歌舞伎のもととなったとも言われている。
水戸光圀公による顕彰
黄門さんで知られる水戸光圀公は、楠木正成の墓が湊川の地で草に埋もれて荒廃している話を聞き、助さんこと、佐々木介三郎をして楠木正成公の供養塔を建たしめた。そして自ら「嗚呼 忠臣南子之墓」と銘を刻んだ。「逆族であろうと主君に忠誠を捧げた人の鑑であり、全ての武士は見習うべし」とした。この供養塔は大きな亀の台座に乗せられている。儒教式の墓である。この碑が神戸駅の近く湊川神社に鎮座している。皆様も一度楠公(楠木正成公)を偲んで一度訪ねられては如何だろうか。
「太平記」には正成について次のように記している。
「智・仁・勇の三徳を備え、命を懸けて善導を守る人は古より今に至るまで正成ほどのものはいまだいない」
<参考>
「太平記」(岩波文庫)兵頭裕已校注
Wikipedia 楠木正成
楠木正成の生涯 こちらがわかり易く楠木正成の生涯をと人となりを紹介しています。
「良将は戦わずして勝つ」【 あの人の人生を知ろう ~ 楠木 正成 】
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