HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

顕進様は親不孝?  忠孝あれこれ・・・⑫本当の忠孝の姿を探して

2017-03-08 13:43:32 | 忠孝

「忠孝あれこれ」書いてきました。

教会の古参と思われる何人かの婦人に神山会長のことや櫻井夫人の声明のことを話すと、「顕進様はお父様の言うことを聞かれなかったから・・・」との答えが返ってきました。お父様の言うことを聞かなかったから親不孝だというんですね。そして、今はお母様の言うことも聞かれないから親不孝だという認識なのです。

これは本人たちが深く考えての発言ではないとしても、子女様に「親不孝」とは、言えるのかなあ?と思います。混乱期の真のお父様の苦悩や、子女様の苦悩などはほとんど考えていないように思われます。現在の教会指導者の言動もそうですね。

今回、フィリピンのGPCに参加した、CARPリーダーの声明文に、顕進様が本当に親孝行だという内容があったと思います。

本当の親孝行とは、親を喜ばすことであり、親と子が一つになり、神を中心に家庭が一つになることですね。本来原理的に・・・

様々な困難な状況を超えながら、今回顕進様がフィリピンGPCで示された姿は、真のお父様が神様の前に誓った「神の国」の理想。人類一家族世界の実現に向けて大きく前進するものだとの実感的な姿が、希望として、お父様への本当の孝行の姿だということだと思います。

醜い派閥争いのごときものは神様とは何らの関係のないものです。民衆の困難をさておいて、王権争いを続けてきた、王朝時代の貴族たちは、神様とは何らの関係のない者たちでした。

天国に入るのは神の国を作るものだと、イエスは山上の垂訓で教えました。名前だけ「天一国」を標榜しても、実体の天国が実現されなければ絵に描いただけの「貞一国」です。お父様の描いた「天一国」を実際に作ることが真の孝行者の姿です。その真の天一国の理想の姿をフィリピンで垣間見たからこその野二世たちの率直な感想だったと思います。

東アジアは大混迷の時代です。

一番忘れられているのは北の民であり。共産主義体制の犠牲になっている人々です。

お父様の主唱されて来た南北統一は単なる政権の統一ではありません。同じ血を分けた同胞が苦しむ姿を見て、捨て置けない心がその大元です。

北も南もそしてアジアのすべて、世界のすべての民が希望と喜びに生きる世界の実現がその目標です。全ての民が家族の絆を回復するその日が希望の日です。

その世界を真に実現していくのが本当の孝行者の行く道であり、真の忠臣の行く道にほかなりません。

「忠孝あれこれ・・・」は引き続き記事を書いていきます。

日本や世界に残る忠臣や孝子の姿を見ながら、本当の孝子、忠臣の在り方を考えて行きたいと思います。

ただ「言うことをそのまま聞く」というような単純なことではないということだけは明らかなことでしょう。

 


忠孝あれこれ・・・⑪岡山藩の熊沢蕃山とその後

2017-03-04 14:40:16 | 忠孝

岡山藩での熊沢の活躍とその後

池田光政公に、藤樹先生はこのようにも言ったかもしれない。「殿様、岡山には熊沢君がいるではないですか。彼はわたくしなどよりよほど聡明で、学問をしっかり学んでいます。ぜひ彼を用いてやってください。」と。この年熊沢二郎八は池田公の側役として知行300石を得ている。

さて悲しいことに、藤樹先生はその翌年慶安元年(164841歳の若さで亡くなってしまった。熊沢は30歳となっていたが、池田公の代理で藤樹先生の墓前に弔問している。

その後、熊沢は池田公のもとで、全国に先駆けて藩校「花畠教場」を設けるなど、目覚ましい活躍を成し遂げ、池田家岡山藩の治世の成功の噂は江戸表にも届き、慶安二年(1649)光政とともに参勤に加わり、当時、徳川家光公からも認められて、幕閣としての登用の話も進んでいました。しかしその年家光公が無くなり、将軍家綱の補佐役に保科正之が立てられるようになると、熊沢の信奉していた心学(陽明学のこと)は幕府の学問を司るようになっていた林羅山(朱子学者)などから危険視され、池田藩自体が幕府から謀反の疑いがあるのではとの目で見られるようになり、心学に心酔していた池田光政公も、やむなく朱子学に転じざるを得なくなって行った。

 

岡山藩を去った熊沢蕃山

熊沢の活躍や抜擢は藩内でも不平を漏らす者も出てくるようになり、熊沢を城下から遠い寺口村(のちに蕃山村に改称、その後蕃山の名はここから来ている)に隠棲する。

万治2年(1659)光政公没。その年蕃山は摂津山本に仮寓ののち、豊後岡藩に民政指導、その後京に上ると、公卿や武士らが多く学びに来る。これを幕府は危険視し、吉野に蟄居、在京許されるも公卿との交際禁止、寛文9年(1669)明石城主松平信之にお預けとなる。延宝7年(1679)藩主松平信之の転封に従い大和郡山に、その後天和3年(1683)大老堀田正俊の諮問に応じて江戸に、主著とされる「大学或問」などを著す。貞享4年(1687)蕃山69歳の時古河藩主松平忠之に預かりの身となり禁錮。元禄4年(1691年)73歳で没した。

熊沢蕃山は、藤樹先生の訓戒と藤樹先生を通して学んだ王陽明の教え(心学)を自らの信念として生涯を歩みぬいた。その信念の強さのあまり、時の幕政の批判も歯に衣着せぬようになしてきたので、幕府のとくに幕府が国学とした朱子学者たちからは嫌われ憎まれ、度々蟄居や禁錮を受け、その著書も出版禁止になったりもした。しかし、蕃山の教えやその生きざまに共感するものも多く、江戸時代には最も人気の学者番付ナンバーワンは熊沢蕃山であり。その生きざまは歌舞伎の演目「朝顔日記」として演じられもした。




忠孝あれこれ・・・⑩中江藤樹~熊沢蕃山と引き継がれた陽明学  明治維新の志士にも引き継がれる

2017-03-03 21:01:12 | 忠孝

内村鑑三は次のように「代表的日本人」で述べている。

「陽明学の‥‥お陰で、私どもは、内気で、臆病で、保守的、退歩的な国民になることはなかったのだと考えます。・・・・・王陽明は、孔子の内にあった進歩性を展開させ、間違って孔子を解しがちな人々に希望を吹き込んだのだのであります。」

このように内村は陽明学が中江藤樹によって見いだされ、熊沢蕃山によって広められ、その後日本の精神文化に多大な良い影響を及ぼしたことを核心的に時間していたことがわかります。

江戸の初期、中江藤樹によって見いだされ、その弟子熊沢蕃山によって岡山藩主池田公にもたらされ、全国にその教えが広められた陽明学(陽明学との表現は明治以降、その当時は王学あるいは心学と称されていた。)は林羅山など幕府の学問方から危険視され、否定された。

熊沢蕃山もその後岡山藩を離れて幕府の監視下に置かれるようになるが、蕃山の著書は禁書とされた「大学或問」や「衆義外書」なども含め江戸末期に至るまで向学の学徒に好み読まれ、表向き朱子学を学びながらも陰では王陽明を学ぶ者が多く出てくるのである。

この傾向は幕末に至るとさらに顕著になり、西郷隆盛や吉田松陰の師となった佐久間象山や、幕末の藩政改革で驚異的な実績を残した山田方谷らに継承されて行ったのである。内村鑑三が活躍した時代には朱子学と陽明学の違いが明らかにされていたことと思われる。

王陽明の心学とキリシタンの思想の類似性についてはよく言われているところのものである。また、陽明学は多く禅師を通して伝えられた。禅の教えと陽明学さらにはキリスト教思想との共通性は内村は「代表的日本人」の別のところでも述べている。

仏教思想の研究者によると達磨大師がイエスキリストの教えに大きな影響を受けていたとの見解がある。



中江藤樹先生の近江での村人たちとの逸話などは次のブログ記事がとても参考になりました。藤樹先生の村人との篤い交わりが描かれています。村人と藤樹先生の心温まるエピソードが紹介されています。

http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h15/jog324.html




忠孝あれこれ・・・・中江藤樹をを訪ねた岡山藩主池田光政~熊沢蕃山の入門が日本に陽明学を広めるもととなり日本人に進歩性と希望をもたらした(内村鑑三「代表的日本人」より)

2017-03-02 11:16:49 | 忠孝

池田公の藤樹塾来訪

藤樹先生のもとで学問を学び、さらに王陽明を学んだ熊沢を池田光政公は大いに用い、その学んだ内容を講釈させ、その教えを藩政にも生かすようになり、その後備前岡山藩主池田光政公は江戸初期において稀にみる名君としてその名を馳せるようになった。

池田公は熊沢を通して中江藤樹先生をすこぶる尊敬していた。そこで備前岡山藩主池田光政は、正保4年(1647)参勤交代途上、近江国小川村の藤樹塾に藤樹先生を訪ねたのである。その時の逸話が次のようなものである。

池田公が小川村の藤樹塾に到着したとき藤樹先生は村の学生たちに講義の最中であった。「池田の殿様がおいでになっています」とのことづけに「今は塾生に講経をしていますので」と、すぐにの面会を断った。岡山藩32万石の殿様を待たせたのである。当時身分の格式の激しかった時代に、大藩の殿様を待たせるとはあり得ないことだが池田公も偉い。先生の講経が終わるまで何事もなかったかの如く先生の登場を待たれた。やがて招き入れられた池田公は藤樹先生に切り出した。「先生の教えと人柄のすばらしさは熊沢君から聞いています。是非とも先生にはわが藩においでいただきわが師として相談役として仕官いただけないだろうか」というものであった。普通の学者であれば32万石の大藩の領主自らが仕官してほしいと招聘があれば、すぐにでも喜んでと言うことになるだろう。しかし藤樹先生は違った。この池田公の申し出に対して、「わたくしを高く買ってくださるのはありがたく存じますが、わたくしはそもそも母への孝養のためにこの地に帰って来た身です。しかも多くの村の者たちが私のもとには学びに来ております。殿様のもとには熊沢君もおり、さらにはほかに優れた学者もありましょう。しかし、この村で学ぶものには私しか教えるものがございません。また年老いた母をそのまま置いていくこともできません。せっかくのありがたいお申し出ではありますが、お受けすることが出来ません。」と丁重に断ったのである。大藩の殿様を前に堂々と所信を述べたのである。

そこでの池田公がまたすごい。池田公は「それでは先生、処は離れてはいますが、わたくしを先生の門人の一人として名を加えてはいただけないでしょうか。それと出来ましたら先生のご子息に岡山に出仕してはいただけないでしょうか?」と申し出た。その申し出を断ることもできず、備前岡山藩主池田光政公は藤樹門下の一人としして、その名が加えられた。またそののち藤樹先生の長男が岡山藩に出仕するようになったのである。

これらの出来事は、諸国にも評判となり、藤樹先生は「近江聖人」として知られるようになっていった。全国の諸侯の中には池田公に倣って、近江の小川村の藤樹塾に藤樹先生を訪ねて、藩政の在り方などの指南を受ける者が出てくるようになったのである。

(このあたりのことは内村鑑三の「代表的日本人」に詳しく書かれている。是非一読されることをお勧めしたい。)



中江藤樹と熊沢蕃山の出会いによって陽明学が広まり日本人に進歩性と希望をもたらした

内村鑑三は「代表的日本人」の中で、この熊沢蕃山と中江藤樹先生との出会いを次のように述べている。

内村は聖書の物語を引用しながら、熊沢蕃山については「センセイとして仰ぐべき聖人を全国に求めんとして一人の青年が岡山を旅立ちました。青年のいだいたこの珍しい目的は、昔「博士」たちが、「ユダヤ人の王」を探しに出た旅と同じでした・・・・・」とはじまり、「もし藤樹の弟子がこの人一人しかいなかったとしても、藤樹は国家の最大の恩人の一人として記憶されることでしょう。・・・・・こうして神の摂理は、夜の影を好む宝石を白日の光の下にいざなったのです!」と結んでいる。(岩波文庫「代表的日本人」p126~127)

さて、この「代表的日本人」の中で、内村は中江藤樹と陽明学との出会いについて次のように述べている。

中江藤樹がもともと朱子学を学んでいたことを述べ、その朱子学的自己探求の結果神経過敏を募らせてしまったと書いています。そして、その中江藤樹が王陽明の学問と接触することを通して劇的に変化したと述べています。

陽明学に関しては内村は「代表的日本人」の中の西郷隆盛の項でも述べており、そのことをここ中江藤樹の項でも述べています。西郷は陽明学に影響を受けていました。そのことはまた別項で述べたいと思います。

(この項続きます)


忠孝あれこれ・・・⑧中江藤樹とその弟子熊沢蕃山、そして名君池田光政

2017-02-27 18:24:25 | 忠孝

ようやく入門を許された熊沢氏、学問に飢えていたこの青年は藤樹先生のその教えを瞬く間に吸収し、自らのものとして行った。もともと熊沢は学問の素養があったが、藤樹先生の弟子の中では、その教えの習熟において優れ、最後は藤樹先生も最も信頼し、最も教え甲斐のある弟子となって行ったのである。

さてこのころの学問、儒学と言えば朱熹の説いた朱子学が主流の時代だった。しかし、中国では、明の時代になり、朱子学の教えの矛盾点や過ったところを明らかして説いた王陽明の儒学が広まっていこうとしていた。王陽明は学理に走った朱熹の教えに対して、「知行合一」あるいは「致良知」と言った実践的学問を説いたのである。時あたかも中国の王権は明が衰退し、清が勃興して移って行く時代であった。この当時、需要の京店は主に禅僧などによって書物として日本に入ってきていた時代であった。

中江藤樹先生は正保元年(164437歳の時に「王陽明全集」を入手したと伝記にある。王陽明全集を手にして一気に読み通した藤樹先生は、その説かれている内容があまりにも理にかなった教えであり、自分がこれまで学んできた朱熹の教えにいだいた疑問点に明確に答えていることに深い感銘を覚えた。王陽明は朱熹の教え(朱子学)があまりにも学理に傾きすぎで、現実に適合せず、階級的差別をもたらすものだったのである。

王陽明全集を読破し感動して、さっそく書簡にしたためて熊沢(当時26歳)に送った。そこで熊沢青年も陽明全集に接することとなったのである。当時王陽明の儒学は「心学」と呼ばれていた。中江藤樹先生が熊沢に送った手紙には「心学をしっかり学ぶように」と書かれたものもあった。

正保2年(1645)、熊沢は再び備前岡山藩に復仕。二郎八と改称した。そしてその後、江戸時代一番の名君と謳われた池田光政のもとで藤樹先生に教わった儒学をもとに仁政を藩主池田公とともに実践していくようになるのである。



熊沢が岡山藩に帰藩を申し出たこの時、藩主池田光政は快く、再出仕を許可したとある。熊沢は以前、池田藩に仕えていたが、藩主光政は熊沢の能力を見抜き、あえて諸国を訪ねて学問を磨き再びそのもとに帰ってくるのを待ちわびていたかとも思われる。

熊沢が藤樹先生から学んだのはもともと朱熹の学問が基本であった。しかし、そののち藤樹先生が王陽明に感銘を受けてからは、藤樹先生は熊沢にも王陽明を勧めた。(陽明学と言う言い方は明治以降に言われるようになった言い方。当時は王学あるいは心学と呼ばれていた。)を深く学んでいったものと考えられる。実は池田光政自身が王陽明を学んでいたのではとも思われる節がある。池田光政は儒学を重んじ、他国が寺請制度を取る中、神社請を実行し、藩士の教育には儒学を基本として教育を進めて行った。民の教育にも積極的に取り組み、庶民教育のための学校、閑谷学校を設けるなど一般庶民の教育にも力を入れた。

近江の一寒村で始まった藤樹の教育は、その弟子に熊沢蕃山を得て、当時を代表する名君の政治に結実し、その影響は全国に拡大しさらには明治の開国の時代にまで影響を及ぼしていくのである。

故郷の母親に孝養を尽くす一心で仕官を投げ出してまで故郷に還った藤樹の真心が、その後の日本の歴史と文化に明るい結実をもたらしていくのである。