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忠孝あれこれ・・・⑥孝について考える・・・近江聖人「中江藤樹」の生き方 忠孝の在り方そして学問とは

2017-02-25 01:07:18 | 忠孝

忠孝あれこれ・・・

 

引き続いて「忠孝」のうち「孝」について考えて行きましょう。

「孝行」という概念は東洋ではかなり古くからあったようです。しかし、その概念も時代とともに変化してきているようで、国によってもその概念は違っています。

 真のお父様は韓国民族は「忠孝烈」を重んじると語られましたが、日本も負けることのない「忠孝」の民族です。「親孝行」は古来日本でも伝えられてきた美徳です。烈はあまり日本では言われないが言われない言葉だが、夫に尽くすという意味で代表的女性は「山内一豊の妻」であろうか?それはともかく、日本の歴史上の人物の中で「孝子」と言うのは多いが、その中でも代表的人物として挙げられるのは言えば近江聖人と言われた、中江藤樹先生であろうと私は思っている。

内村鑑三の書いた「代表的日本人」その中の中江藤樹の項の中に藤樹が母親に孝を尽くすために四国伊予国の大洲藩を脱藩して故郷に帰るという話がある。

中江藤樹先生と言えば日本陽明学の祖とされている。内村鑑三が海外に、日本の精神や文化を紹介した「代表的日本人」という著書がある。そこで挙げられた代表的日本人の五人の中で四番目に取り上げられているのが近江聖人と言われた中江藤樹である。

中江藤樹の一生

中江藤樹先生は慶長13年(1608年)37日の生まれ。小さい頃は物静かな子供だったそうだが、9歳の時に伯耆国米子藩の加藤家に仕えていた祖父、中江徳左衛門吉長の養子となり米子に赴いた。

その後加藤藩が伊予国大洲に国替えとなったので、祖父母とともに大洲に移り住んだ。藤樹先生10歳の時である。祖父は学者として藩に仕えていたが、その祖父から学問を学んだ。10歳の時には立志を決意、この年初めて大学を読んだと伝えられている。大洲では神童ぶりを発揮していたようである。その後、元和2年(1622)に祖父の死亡に伴い家督100石を相続した。17歳の時京から来た禅僧の話を一人最後まで聞いて、その折四書大全を購入した。20歳の時「聖学」を志したと、伝記にはある。

22歳の時一度郷里の母のもとを訪ね帰省。25歳の時仕えていた新谷藩が分封、加藤直泰に仕えていた藤樹先生も主家に従って名義上であるが分属したとある。

寛永11年(163427歳の時に母への孝養と健康上の理由から藩に辞職を申し出るが、認められず、思い余った藤樹先生は脱藩の禁を犯して京に滞留、易の講師などを務めたのち故郷の近江の国小川村(現滋賀県高島市)に帰った。

藤樹先生の脱藩の理由にはもう一つ事件があった。それは主君の加藤泰興が江戸から連れ帰った徳川家お抱えの朱子学者林羅山の若宮道四郎との対立があったとも伝えられている。このころ徳川では、侍はこれまでのように武道で務めるのではなく、学問で務めなければならないとして、徴用された儒学者が林羅山という朱子学者だった。徳川の大御所が学問を奨励していたので地方の小藩でもそれに倣って学問を行おうとして、藩主は林羅山の弟子だという若宮道四郎を江戸から連れ帰ったのである。その若宮道四郎に赤恥をかかせたのが中江藤樹だった。というのは、幼いころから学問に親しみ、周りからは神童とさえ呼

ばれた中江藤樹からしてみれば、立身出世のために学問をした若宮の学問は博識としても極めて上っ面なもので、自ら深い修養を目指した中江には簡単に論破されるようなものだったのである。この若宮道四郎に赤恥をかかせたということが中江藤樹をして脱藩せしめた実は本当の理由であったとも言われている。

故郷の小川村に帰ってのちは、わずかの元手をもとに酒の小売りと貸金で生計を営みながら村の庶民のための私塾を開くのである。これがのちの藤樹書院である。何故藤樹と言うかと言うならば、藤樹先生の家の庭に藤の巨木があり。いつのころからか村人たちから藤樹先生と言われるようになったとのことである。

藤樹先生30歳の時、亀山藩士高橋家女久子と結婚する。この時のエピソードがある。藤樹先生はすこぶる親孝行の方で、親の言いつけには逆らうことがなかった方であるが、妻の久子のことについては母親の言うことに従わなかったのである。と言うのは、久子はかなり不美人だったようで、母親は、このような不細工な女性は息子の嫁にふさわしくないと、離縁して里に帰すように息子に勧めたそうである。しかし藤樹先生は、「いかに母上の言葉といえども嫁してきた嫁を里に帰すようなことは人の道に非ず。」と母親の言葉には従わなかったとある。いかに尊敬し、大切に思う母の言葉とは言え道理に外れたことは断固として従わなかった道理を何より大切にする先生であったといことをうかがわせる逸話であろう。

藤樹先生は近江の小川村に帰ってからは、私塾を開き近隣の村人たちに儒学の教えをわかり易く説いて聞かせていたのであるが、その教えに感化された村人たちは、正直に、善良に生きることがどれほど価値があることかを深く学び、その教えを日々の生活の中で守り行うようになっていった。

そのようなときにある一人の若者が藤樹先生のもとに弟子入りしたいとやって来た。(以下続く)

 

本文がかなり長くなったので以下続きます。文章の推敲もまだ不十分ですが、とりあえず投稿させていただきます。お気づきの点があればご指摘ください。


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