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忠孝あれこれ・・・⑪岡山藩の熊沢蕃山とその後

2017-03-04 14:40:16 | 忠孝

岡山藩での熊沢の活躍とその後

池田光政公に、藤樹先生はこのようにも言ったかもしれない。「殿様、岡山には熊沢君がいるではないですか。彼はわたくしなどよりよほど聡明で、学問をしっかり学んでいます。ぜひ彼を用いてやってください。」と。この年熊沢二郎八は池田公の側役として知行300石を得ている。

さて悲しいことに、藤樹先生はその翌年慶安元年(164841歳の若さで亡くなってしまった。熊沢は30歳となっていたが、池田公の代理で藤樹先生の墓前に弔問している。

その後、熊沢は池田公のもとで、全国に先駆けて藩校「花畠教場」を設けるなど、目覚ましい活躍を成し遂げ、池田家岡山藩の治世の成功の噂は江戸表にも届き、慶安二年(1649)光政とともに参勤に加わり、当時、徳川家光公からも認められて、幕閣としての登用の話も進んでいました。しかしその年家光公が無くなり、将軍家綱の補佐役に保科正之が立てられるようになると、熊沢の信奉していた心学(陽明学のこと)は幕府の学問を司るようになっていた林羅山(朱子学者)などから危険視され、池田藩自体が幕府から謀反の疑いがあるのではとの目で見られるようになり、心学に心酔していた池田光政公も、やむなく朱子学に転じざるを得なくなって行った。

 

岡山藩を去った熊沢蕃山

熊沢の活躍や抜擢は藩内でも不平を漏らす者も出てくるようになり、熊沢を城下から遠い寺口村(のちに蕃山村に改称、その後蕃山の名はここから来ている)に隠棲する。

万治2年(1659)光政公没。その年蕃山は摂津山本に仮寓ののち、豊後岡藩に民政指導、その後京に上ると、公卿や武士らが多く学びに来る。これを幕府は危険視し、吉野に蟄居、在京許されるも公卿との交際禁止、寛文9年(1669)明石城主松平信之にお預けとなる。延宝7年(1679)藩主松平信之の転封に従い大和郡山に、その後天和3年(1683)大老堀田正俊の諮問に応じて江戸に、主著とされる「大学或問」などを著す。貞享4年(1687)蕃山69歳の時古河藩主松平忠之に預かりの身となり禁錮。元禄4年(1691年)73歳で没した。

熊沢蕃山は、藤樹先生の訓戒と藤樹先生を通して学んだ王陽明の教え(心学)を自らの信念として生涯を歩みぬいた。その信念の強さのあまり、時の幕政の批判も歯に衣着せぬようになしてきたので、幕府のとくに幕府が国学とした朱子学者たちからは嫌われ憎まれ、度々蟄居や禁錮を受け、その著書も出版禁止になったりもした。しかし、蕃山の教えやその生きざまに共感するものも多く、江戸時代には最も人気の学者番付ナンバーワンは熊沢蕃山であり。その生きざまは歌舞伎の演目「朝顔日記」として演じられもした。




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