HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

楠木正成に悔いがあるとしたならば・・・

2017-05-20 03:46:50 | 歴史について

後醍醐天皇に忠誠を尽くした楠木正成、日本史を代表する忠臣と謳われているが、それはそののち水戸光圀公らによって再評価されてのことだった。それまでは「逆族」の扱いだった。

それが江戸中期、水戸光圀公などの再評価により、南朝正統論が力を持つようになった。明治以降になると、さらに南朝正統論が勃興し、楠木正成らの復権が実現した。最終的には明治天皇御自ら南朝の正統性についてのご言及があって決着がついた。以来楠木正成は敗戦を迎える時まで、学校の教科書でも日本を代表する忠臣の一人として国民に教育されてきた。

 

楠木正成で有名なのは湊川の戦で、楠木正成とその一族郎党は、この戦いで壮絶な最後を遂げた。その戦いのありさまは、「太平記」によると戦を戦った相手の足利尊氏も、敵ながらあっぱれと称賛するような見事な戦いぶりだったという。後醍醐天皇に建武の新政に不満を抱いた武士や民の声を代弁して京へ上ってくる足利軍に対して、「このたびは尊氏を受け入れてほしい」と嘆願した楠木正成だった。諫言である。しかし、その訴えは聞き入れられなかった。最早戦に望むしかない。しかし、勝てる見込みは歴戦のつわものの正成にしてみても、強大化した足利尊氏軍に、この時ばかりは勝てる見込みはほとんどない状態だった。それは、建武の新政が、あまりにも公卿たちの私利に傾き、後醍醐天皇復帰のために戦った侍たちや、一般民衆への思いやりや心配りのない政治姿勢に、その限界があったからである。

民心の信頼を失った後醍醐天皇側には勝利の見込みはほとんどあり得ない状況だった。最後、楠木正成は死を覚悟して出兵していったのである。

 

楠木正成に無念さがあるとすればどのようなことだったのだろうか?

楠木正成にしてみれば、とことん無念さを孕みながらの出兵であったことは間違いがない。本来戦は勝たなくて位は意味をなさないのである。いくら、後醍醐天皇が天皇家の正統的後継者だとしても、その為政が民心から離れてしまっては、天も見放さざるをえない。

楠木正成にしてみれば、湊川の戦で足利軍の上洛を阻止できればいいが、それが難しい場合は、足利軍は京にまで攻め上り、結局後醍醐天皇の親政は挫折せざるを得なかったのである。

楠木正成と言うと、一般にはこの湊川の戦が知られているが、実は楠木正成は極めて優秀な行政能力と、軍事的知識に豊かだった。彼が繰り出す軍略は常に的を得た戦いで、それまで常勝してきたのである。彼の見事な軍略は常に勝利をもたらしてきた。

また民心掌握においてもかれは優秀であった。行政能力抜群の統治能力を持った武将だったのである。

しかしながら、その正成が身命を賭して訴えた訴えは聞き届けられなかった。楠木正成は如何ほど悔しかったことだろうか!

 

楠木が敗戦して後の官軍は、敗走に敗走を重ねて、結局後醍醐天皇と一族は京を離れざるを得なくなった。吉野に逃げて行かざるを得なかったのである。しかし、一旦は吉野に逃れた後醍醐天皇だったが、いわゆる南朝と言われた後醍醐天皇とその後代は結局のところ、その権威を失い。最後は北朝の政権に屈服して行かざるを得なくなるのである。

 

「太平記」は、全40巻(巻22が欠落している。これを前後の巻より類推して補完したものもある。)で、軍記ものとしては最長の内容を備えている。時代は、後醍醐天皇の誕生から即位、建武の新政の失敗と南北朝時代。後醍醐天皇の崩御とその後の室町幕府の動向などが、書かれている。

戦国武将にとっては、「太平記」は兵法書としての側面からこれが読まれ、戦国武将の兵法の教科書としてよく読まれた。また江戸時代の初期には、太平記に様々な注釈を加えて、治世の教科書としても学ばれれうようになって行った。

 

「太平記」の作者は特定されていない。おそらくは複数の人物によるだろうと言うことは確かなようだが、実際に誰が書いたのかとなると諸説あって定かではない。小島法師がその作者とされ、それがこの太平記にしか登場しない児島高徳ではないかとする説や、記述内容を見ると山伏の素養が無ければ書けない内容があることから児島山伏によるものとされる説もある。

概ね南朝方を正統と見る見方で記述されているが、後醍醐天皇の評価に関しては、その治世の在り方が失敗だったという風にも取れる記述もある。

 

結局太平記の作者は、南朝の正統性を訴えながらも、結局後醍醐天皇による親政が失敗せざるを得なかった側面を描くことを通して、後代に反省の材料として示すために書かれたのではとの推察も成り立つ。

 

楠木正成に関してかなりの量を割いて記述がなされているが、楠木の優れた軍略や治世の在り方は、そこに学ぶべき点が数多くある。しかし湊川の戦で死して果てたことは無念さとともに、そのような死に追いやった後醍醐天皇や後醍醐天皇を取り巻いた公家たちの判断や行動にある種の問題を提起しているとも言えるのではと思う。

現代の時局や統一家の動向にあてはめてみれば様々な点で、太平記が物語る内容から学び、今後の政治や我々自身の身の振り方などについての参考になる点が数多く存在している。

<この項続く>

 


産経新聞「楠木正成考」・・「公」を忘れた日本人へ

2017-04-26 14:39:16 | 歴史について

産経新聞に掲載中のシリーズ企画「楠木正成考」

産経新聞をお読みの方は、すでにご存じだと思いますが、連載企画「楠木正成考」が続いています。産経新聞本紙に連載されている記事のほかに、シンポジウムや講演会、史跡めぐりツアーなどが企画されています。

これほど大々的な「楠木正成」に関する企画はかつてなかったことでしょう。

このシリーズのサブタイトルが「『公』を忘れた日本人へ」で、「『公』に尽くす人生の意味を問うている」と紹介文にあります。

奇しくも当HOPEブログでも楠木正成について取り上げてきました。

 

真のお父様も語られた「楠木正成」 江戸時代には諸侯の治世の教科書に

真のお父様が「楠木正成が(忠臣として)いるだろう!」と言われたと聞いた方もあるでしょう。

楠木正成の人生は、戦記物として、特に江戸時代初期には太平記の注釈書も数多く出され、「太平記読み」と言う、「太平記」の講釈を職業にした人たちもいたくらいに、多くの人々になじみ親しまれてきました。

 

 

黄門さんが命じられて建てられた忠魂碑

現在楠木正成が祀られる湊川神社には、黄門さんこと水戸藩主徳川光圀が助さんこと佐々木助三郎に命じて作らせたという供養塔が境内に祀られています。

日本を代表する忠臣であるとともに、その優れた軍略や治世の在り方はその後の諸侯の治世の模範として、特に江戸初期には「太平記」が諸侯の教科書のように珍重されました。

今は忠とか、義とか言うことがすっかり失われてしまった時代です。「公」のために殉じるなどと言うのは時代錯誤のようにさえ言われてきました。

 

実は単純に主君に殉じたという人物ではなかったことが楠木正成の偉かったところ

しかし、楠木正成の生きざまは、単純に「主君に殉ずる」と言うようなものではなかったことが、その生涯を学んでみるとよくわかってきます。

このブログでも紹介してきましたが、楠木正成は仕えた後醍醐天皇にただ盲目的に従った人物ではありませんでした。もとより当時後醍醐天皇の側近を固めていた公卿たちの言うがままに生きた人ではさらさらありませんでした。

いつのときも、積極的に軍略を説き、治世のありかたについては、いつも民の生活を案じながら幅広い民衆の支持のもとで立派な治世を行っていたのです。

湊川での最後は、最後の最後まで潔く戦って、攻める足利尊氏も、深い尊敬心をもって相手として戦ったと言われています。

湊川に至る前までは、このたびばかりは官軍に理が無いことを説き、足利尊氏の声を聞き入れるように、最後の最後まで天皇に進言したものの、側近の公卿たちに撥ね退けられ万やむを得ずの出兵となったものでした。

常に「公」の立場で物事を考え、捉え、「公」に殉じ切った生涯だったということが出来ます。

 

今日統一家の問題解決の鍵も「楠木正成の生涯」に隠されているとも言えるのでは

今日統一家の様々な問題の解決にも、この楠木正成が教訓として遺してきた事柄にとても重要な意味があると思います。

「公」の精神を取り戻すことが、今日何よりも求められているのではないでしょうか!

心ある皆さん、産経新聞のシリーズにも是非目を通してみられることをお勧めいたします。

 

 

 


郷土史学習のすすめ・・・二世や子供たちの情操教育にも最適です!

2017-04-24 09:03:23 | 歴史について

 郷土史学習のすすめ

 

先週の訓読友の会 共に生きる心を!「世界と南北の統一は、真の愛で」(4月19日) のみ言の中に以下のような一節がありました。


「皆様、その最初の段階として、郷土とどのように生きるのかを考えてみなければなりません。自分の父母と共に生きたがらず、郷土と共に生きたくない人が、国を愛するというのは偽りです。」

 「国と共に生きてこそ、世界と共に生きるようになっています。そして、世界と共に生きてこそ、神様と共に生きるようになっています。ゆえに、郷土を愛し、その地域社会を愛してこそ、愛国も可能なのです。」


「郷土を愛し、その地域社会を愛してこそ、愛国も可能なのです」とありますね。

郷土を愛するその一歩が「郷土史」を学ぶことです。自分の生まれ育った故郷の人物や歴史に関心を持ちましょう!

 

子供たちの情操教育に地方史を用いた先生の話

 子供たちの情操教育に「郷土の偉人」の話を取り入れられた先生がいました。その方は地元でも有名な大学の学長も軽々された方ですが、お若い頃は学校の教師として、小学校や中学校の子供たちの教育をしておられました。そのような中で、「どうしたら子供たちの情操を豊かに育てることが出来るだろうか?」と考えて、思いついたのが、自分達の生まれ育った郷土の偉人の話をすることでした。

 この教育はとても子供たちにも好評でした。子供たちは何でもないと思っていた自分たちの町や村だったのが、こんなに郷土や世の中のために生きた人がいたんだということを知って、「ああ自分たちもそのように郷土や世の中のために一生懸命生きる人になろう!」と言う思いを持つようになり。日々の学習や生活の努力を熱心にするようになってきたというのである。

 良い話である。

 

お父さまも故郷を愛しておられた

お父さまも郷土を愛することを勧めておられる。

真のお父様は障害に一度故郷を尋ねられた、「定州」である。親はもういなくても懐かしい血を分けた兄弟や、ともに少年時代を過ごした友人たちや、懐かしい風土のとの思い出はとてもとても貴重なものだった。

幼いころを過ごした山や川、その地が育んでくれた豊かな情操。また定州と言う風土が生んだ豊かな風土、郷土の偉人や学者たち・・・

お父さまの「南北統一」の思いもそこに原点があると言っても間違いないだろう。

 

 

さて、「郷土史学習のすすめ」である。

 福沢諭吉は「学問のすすめ」を書いたが、私は特に宗族的(氏族)メシア活動を意識して取り組まれる祝福家庭の皆さんには是非、ご自分の郷土の歴史や偉人の歩みを学ばれることをお勧めしたい。

 やはり「歴史」は人の歩みです。そして、自分は歴史の結実です。過去の歴史を歩んできた先人や先祖たちの歩みの土台の上に存在している自分たちです。

 自分の血統的先祖のことも学んでみましょう。先祖からの家系図がずっと残っているという家系はそう多くはないと思うが、それでもおじいさんやおばあさんから聞いた伝承や言い伝えがあると思う。先祖のお墓参りをしてみるのもいいかもしれない。

 人の人格や生きざまはその親からそのまた親から伝えられて来た、家系の生きざまと言ったものが大きく左右されている。あるいは地域の大人たちの生き方や、その地域に生きて来た人々の生きざまの伝承が大きく左右する。

 

息子娘たちの教育にも郷土の歴史や偉人の歩みを

 先に、郷土の歴史や偉人を通して情操教育に取り組んだ先生の話を上げたが、我々の跡を継ぐ息子や娘たちにも、郷土の歴史や偉人お話を通して、教育してみてはいかがだろうか!身近な史跡を訪ねることで、郷土愛や、人々への生きざまに対する関心が高まることは間違いない。

あるキリスト教系の大学教授の先生が毎年子供たちを連れて初詣に行かれるという。それを聞いた人が「先生、キリスト教なのになんで初詣何ですか?」とう問いに「情操教育に良いんだ!」と答えられたそうである。地元の神社仏閣にも、故郷の精神的風土がいっぱい詰まっている。こんな場に子供たちを連れていて、先祖や歴史の話を聞かせてやるのもいいだろう。

 

郷土を愛することは自ずと国を愛することに通じ、また世界の諸民族国家を愛する国際人にも通じる。

偉人伝を辿ってみれば分ることだが、世に偉人や聖人と言われる人物を見れば幼いころから生まれ育った環境が、宗教的だったり、きちんとした道徳倫理を重んじる家庭や地域に生きて来たことがわかる。お父さんやお母さん、また周りの人々がお互いに信仰心をもち、また心やさしくお互い思いやりのある生きざまを見せてあげることが青少年の情操を豊かに育てる、土壌のような役割を果たしてくれているのである。

 

きっと、賢明な心をお持ちの読者の皆さんは、郷土の歴史や偉人の歴史、先祖の歴史などに関心をお持ちだと思いますが、これを機会にさらに図書館に行ってみるのもよし、地域の古老や、歴史研究家の話を聞くもよし、是非とも関心を持っていただきたいと思う次第です。

 

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弁明の余地のないそのようなやり方がなぜ続けられてしまったのか・・・過去の過ちを十分反省しきれていないことが今日の問題を大きくしてしまっている最大の要因なのではないか

2017-04-21 00:39:20 | 歴史について

弁明の余地のなかった「‥商法」のやり方

「・・商法」と名付けられて追及された数々の事実・・・それらは弁明の余地のないようなやり方だった。

客として会場に行くとおもむろに「先生」という人がやってくる。姓名判断や家系図を頼りにその人の名系にある、様々な問題点を指摘する。そして、先祖が抱えて来た様々な問題点を解決するためには何らかの条件物が必要だとして、その解決方法として「壺」を勧める。この際、「先生」がいかに素晴らしいかと言う風に持ち上げ役(組織内ではヨハネと言っていた)がいて場を盛り上げる。そうして、この「壺」を買わなければ大変な障りがあるかと言う話になっていく。あるところでは場の雰囲気を盛り上げる?ために演出まで行っていた。それは、会場の一角で「霊障」・・・・先祖が苦しんでいるという障りの「演技」をするのである。そして延々と契約が成立するまで、話が終わらない。さらには、契約が終わると、入金にまでついてくる。「家人には知らせないように」との口止めもする。etc.・・・当時消費者センターに持ち込まれた苦情の数々は普通では到底考えられないような異常としか思えない販売方法の数々であった。それを当時は、皆真剣に、間違っているとも思わないで(必ず良心の呵責はあったはず)続けて行った。それはなぜか?

行き過ぎたやり方に付いていけなかったものも多かった。しかし、そういうメンバーは「実績が出せない」として、販売の前線からは自然に退けられ、多少異常だと思われても「実績を出す」メンバーが貴重視されて用いられていった。

指導者たちにも「良心の呵責」はなかったのか・・・?

確かに「行き過ぎ、やりすぎ」と思っていたリーダーもいたようだが、「実績」の2字のためにその思いはかき消されてしまっていた。実績のためには「やむを得ない」と言う答えだったのである。

 

徹底した批判キャンペーン

最初は共産党が「赤旗」で取り上げて問題視していたのであるが、そのうち商業誌やテレビで取り上げられるようになり、大々的な批判キャンペーンが展開され、万事休すとなって行った。最初は「霊石で救われた人もいる」「反対キャンペーンは共産党の謀略だ」として対抗していたが、さすがに世論の支持は得られず、一方的な防戦に陥らざるを得なくなった。このころ例の「・・商法被害者弁連」なるものが組織され、その後、今日に至るまで単に壺や塔の販売活動だけでなく、教会活動やさらにはその関連活動にまで追及の手を向けて来たのである。

今でも「統一教会=・・商法」のイメージは広く定着して残っている。桜田淳子さんや山崎浩子さんなどが祝福行事に参加したのはそのころであり、彼女たちにもパッシングはおよび、桜田さんは残ったが、山崎さんは去って行った。

最近桜田淳子さんが引退以のライブを行うことで話題になったが、今なお被害者弁連が登場して、ライブを妨害した。

 

結局壊滅的打撃だけが残った

この事件を通してそれまで右肩上がりだった経済の実績も伝道の実績も急速に低下して、組織的には暗くて長い低迷期を歩んでこざるを得なくなったのである。教会員の身内や親族からも嫌われて、表立って「統一教会」の名を出すことすら憚れる年月が続いて行った。今でもそのイメージが完全に拭われたとは言い難い現状である。

それでも、兄弟姉妹は一生懸命努力してきたと思う。様々な困難を乗り越えてよくここまでやってきたと思う。ただしこの「事件」が引き起こされてのちの対処が適切だったかどうかは今でも疑問が残る。

 

問題は何だったのか

問題は何か!多くの兄弟たちが懸念を持ちつつもその後社会的非難を浴びるような非倫理的な販売活動に狂奔してい待ったのだろうか?このことが一番大きな問題だと思う。そしてその過ちを教訓にして、組織や教育、さらには活動の在り方などについての検証や反省がどれだけ行われて来たかと言うことが最も重要な問題なのではなかろうか!

問題があったならば、その問題の本質を明らかにして、再びそのような問題が生じないような対策を講じて行かなければならない。その問題点を曖昧にしたままことを過ごしてしまえば、また再び同じような過ちを繰り返すこととなってしまう。

根本的に問題点を明らかにして、組織の内外からその問題点を修正して方向を転換していけば、その組織は再び復活して前にも増しての発展や飛躍を期待することもできる。この分かれ目が、問題に取り組む姿勢なのである。

 

不十分だった反省

残念ながら、この事件に対する反省の取り組みは十分なされて来たとは言い難いのが実情であろう。それは失われた社会的信用を未だ十分には回復できていない実情が物語っている。いま組織外から客観的にみれば、統一教会今は家庭連合と名称を変更はしたけれど、十分にその信用を取り戻しているとは言い難威のが実情である。本来「統一」してしかるべき団体が誰の目から見ても分裂状態に陥っているのが実情なのである。

問題は、どこにあったのだろうか?その問題の一番の問題点が、HOPEは、真のお父様が済州島、水沢里で行われた修練会の目的と一致していると見るのである。

 

「良心」の喪失が一つの大きな問題だった

「良心は両親に優り、良心は先生に優り、良心は神様に優る!」と教えてくれたお父様であった。長くお父様は日本に入国できない状態が続いていた。日本に一番近い済州島で修練を始められたのは、日本教会の基本的な在り方に本質的な会カウを願ってのことだった。真のお父様が「良心」をしきりに強調されたのは、日本食口の、中でも婦人たちの心の中に「良心」が啓発されないままになってきた、そのことの過ちを修正して下さろうとしたことに間違いがないと思うのである。

先に述べたように、それまであまりにも組織が強調され、「アベル」と呼ばれた、組織の上位者への絶対従順の信仰生活姿勢が、結局様々な問題を引き起こす引き金になってきていたのであった。事の良し悪しを自らの良心に問ううて判断するのではなく、組織の上位者への(盲目的)従順で判断して来たところに、大きな過ちを引き起こす最大の問題点が潜んでいたのである。

 

間違っていた「アベル・カイン」

そののち度々お父様は「日本のアベル・カイン」は間違っていると指摘されて来た。にもかかわらず、その問題点は十分解決解消されないままに来てしまっている。あの済州島・水沢里の修練会であれほど真のお父様が「良心は両親に優る・・・」と語られたにもかかわらず、今の今まで日本教会の食口たちは、自ら自身の「良心に問うことをせず、ただただ、組織の上位者の語る一言一句をそのまま受け入れ、そのまま下位に伝達するという過ちを犯し続けている。

組織の上位者が何を言い何を求めても従順に従うことが信仰であるとの誤った考えが、組織の方向性を大きく狂わしている一番大きな原因となっているのである。勿論、組織の上位やトップにある人間の判断や式指導に従うということは基本的には問題ではないが、そのことが極端に推移すればとんでもない過ちを犯す大原因になるのである。そしてそのような場合、結局誰もその問題の責任を取らずに終わってしまうことが多い。究極の無責任に陥る可能性も大きいのである。

 

子女様が教えた「オーナーシップ」

かつて真の子女様、顕進様が「オーナーシップ」と言う言葉を強調されて指導されていたことがあったことをみな覚えているだろう。その言葉も同様の意味を持っている。皆がトップ(オーナー)の意識や観点に立ってこそ、その組織はその力量を発揮して発展して飛躍していくようになるのである。そういう上下の意思の疎通のけけた組織は何かと問題を引き起こしあやすのは一般社会においても同様である。

「お役人根性」と言うのがある、組織の最終的トップでは無くて、中間管理職になると、全てが事なかれとなり、最終的トップの意向とか医師に関係なく、その組織の下位の人々に対して差別的であったり、否定したり無視したりする態度を取りやすいものなのである。

 

中間管理者の陥る過ち

まさに、問題を大きくした統一運動の組織の中間者はそのような誤りに陥っていたと言えよう。

だから、お父様は中間組織はいらないと言われた、最終的には統一教会さえ必要ない。とも言われた。しかし、いまだに組織は残存している。そして真のお父様が懸念されていたように、中間管理職の「お役人」たちが、ただただ組織の残存に狂奔する醜態を晒している。

組織がすべて悪いわけではない!お父様が指導されたようにすべての食口が「良心」を大切にし、また子女様が指導されたように、皆が「オーナーシップ」をもって事に当たり事に対処していけば、その組織は組織としての役割を最大限発揮して、大きな成果を出すことも可能になってくるのである。

 

自由闊達な組織が発展をもたらす

皆が「良心」をしっかり持って歩み、皆が「オナーシップ」をもって歩みさえすれば、そこには自由で闊達な様々な取り組みが生まれてきて、創造的発展的組織活動がなされるようになるのである。

理不尽な「通達」や自由のない閉塞的な組織運営は障害でしかありえない。最近よく見る「公文」や「通達」の類は、本来活性化された組織にはあり得ないことなのである。

何故、組織を防衛しなければならないのか!、それは組織に何らかのも問題があるからだと考えなければならない。一部のものだけに権力が集中する組織では、組織的問題の自浄作用が失われて、どんどんと問題が拡大し、最終的には収拾がつかないレベルに陥ってしまうのである。そういう組織においては警鐘を発するものがともすれば排除され、組織の反逆者とみなされることが多い。しかし、それは組織全体の自滅行為だということを知らなければならないだろう。

 

危機を乗り越えるために

今、統一運動は絶体絶命の危機に瀕しているというべきであろう。組織内の自由性の欠落と様々な問題を隠蔽する体質がそうさせているのである。これは、「・・商法」で統一運動最大の壊滅的な打撃を受けた時に非常によく似通っている。

過去の失敗を忘れてしまってはいけない。過去の失敗を十分反省して生かし切れていないことが、今日の大きな問題なのである。

陥ってしまった過ちに気づき、その方向性さえ改めることが出来れば、再び統一運動が復活し飛躍することは夢でも何でもない、十分すぎるくらいに可能性を秘めているのである。

皆が「良心の自由」を取り戻そう!それが一番の鍵であるとHOPEは思う

 

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訪韓修練会み言集③ 真の父母と重生

2017-04-20 10:36:14 | 歴史について

訪韓修練会み言集③

真の父母と重生
 19931220日 韓国・済州研修院

 

真の父母と重生
 これに、入ってくる時は左のほうから入ってくるのです。分かりましたか? なぜ左のほうから入るかというと、お母様が左のほうだからです。入ってきてお母様の腹の中に入ったとしても、その入った子供とお母様の根っこは何かというと、渋柿の根っこから切って取り返してきたものです。分かりますか? それが天の家庭に入るには、手続きをしないといけないのです。何の手続きかというと、愛の手続きです。だから、真のお母様の腹の中に入っていても、それは真のお父様の真の愛と真の血統にはまだつながっていないのです。お母様は真の愛と真の血統を持っていません。向こうのほうなのです。それは、新婦の立場で、新郎を迎えて一つとなるということです分かりましたか? 分かりましたか? (はい! )。

 全世界がここに入ってきて、それからどうなるかというと、真の父母の夫婦関係によって、はらんだ子供、その者を、真のお父様の真の愛を中心に、真の子供の種を持ったお父様が愛の関係を結ぶことを、実感したあとに生まれたと同じようになるのです。そのような期間を通過しながら、お母様の腹の中に入った子供たちが、真の父の子供の種が真っ赤だったとするならば、愛の関係を繰り返すことによって、色が染められていって、ピンクからだんだん深まっていくのです。 ピンクからでもそうなったとすれば、真の父母の愛と真の子供の種と接ぎ木したという、つないだということになるのです。分かりますか?こっちは本物で、こっちは偽物で、(先生がしぐさされる)兄さんと弟と同じです。分かりましたか?そういうふうに一つとなった状況をもって、それはずーっとこれを回って、母の腹の中を通して、先生の体を通して、再びお母様の腹を通していくのです。右のほうを通してです。


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