昨年末聖和された神山威先生の追悼式が計画されているという。
それについて「神山先生の追悼式に参加したら教会を除名にされるのでは?」との噂を耳にした。あくまで噂である。まさかと思うが、神山先生を除名処分にし名誉会長職も剥奪するとした日本教会である。ひょっとするとそのようなこともあるのではと言われている。
一方、「神山先生はとても天が評価をされている。自ら除名あるいは名誉会長剥奪という辱めを受けながらも、最後の最後まで今際の息のその日まで真実と愛の言葉を語り続け、訴え続けられた姿は天が記憶し永遠に忠臣として称えられるであろう。その姿は真のお父様に仕えた弟子の中でも最も称えられるべきものである。」という声も聞いた。こちらは確かなことである。
神山先生が本当の忠臣だったのかそれとも逆臣だったのか、それはその生涯の歩みを知る人にはすぐにわかることだろう。真のお父様がアメリカ摂理を始められるにおいて、日本から神山先生を呼ばれ、アメリカ摂理の立ち上げから展開に至るまで最も信頼し頼られてきた。お父様の願いに常に命がけでこたえられて歩んできた神山先生の姿は特に在米の兄弟姉妹はよく知るところのものである。お父様はその神山先生に聖和直前に麗水に足を運ばれながら何度も「食口たちを頼む!」と言われて来たのである。
それだからこそ、米国における聖和式には米国家庭連合の祝福家庭の兄弟姉妹も多数参加しての聖和式が挙行されたのである。米国協会ではHPでこそ掲載はされなかったが公式的に神山先生の聖和式の報が伝えられたと聞いた。
にもかかわらず、日本教会では「追悼式に参加したら除名」?という噂を聞く。あくまで噂であるから、まさかそのようなことを行うとは考えられないが、もしやそのような通達でも出されるようならそのような指示や通達を出した責任者は、イエス様の時の「イスカリオテのユダ」のように歴史に記録されるのではないかと懸念する。
日本の歴史ではいかに戦った相手でも「国のために殉じた者ならば」と篤く葬るのがその精神の伝統である。出雲大社や法隆寺は攻め滅ぼした者への追悼の意味で建てられたとも言われている。そのような日本でそのように、ただ「教会の指示に従わなかった」という理由でその地位や名誉を剥奪し、その追悼の場に参加さえ許さないというようなことはあり得るのだろうか。日本の精神風土からも考えられないことである。宗教的立場からはあり得ないことである。
あらためて「許せ!愛せ!団結せよ!」と全米ツアー時の真のお父様のメッセージを最後の言葉として遺された神山会長の篤い思いが蘇ってくる。
天の神様のみ旨成就のためにすべてを捧げつくされた真のお父様の姿が浮かんできます。
今すべての祝福家庭は争っている時ではない。お互いに非難したり、だれが正統だとか誰が後継者であるとかと言うことを論じて争うことでもありません。お父様が求め続けた神様のみ旨をどのように果たすかが問題です。そのみ旨を果たす為に兄弟姉妹が、祝福家庭が共に手を携え協力し一つになって行くことが肝心です。憎しみや恨みを開放して一致協力していくことが大切な今の時ではないでしょうか!
今回安倍総理大臣が訪米、トランプ大統領との首脳会談に先立ち、米軍兵士の眠るアーリントン墓地に参拝、米国は四軍(海兵隊と陸海空軍)の儀仗をもって応え、君が代がその場で吹奏された。その姿は篤い感激をもって全米と世界に伝えられました。(なぜか日本のメディアは多く報道していなかったが)昨年末には安倍総理はハワイを訪れ日米戦の犠牲者に花を手向けた。かつて激しい戦いを戦った日米両国が今は最も信頼し最も助け合って世界の平和と繁栄に貢献している。これが本当の姿でしょう。
全人類の模範となり平和のモデルとなることを目指した世界平和家庭連合です。同じみ旨を求めて歩む祝福家庭の兄弟を除名するとか、除名した人物の追悼の場に参加したというだけの理由で「除名だ!」などと言う、偏狭な考えや行動では世の見本にも何にもならないのではないでしょうか。ましてや創立者である文鮮明先生、真のお父様の前に忠誠を尽くして歩みぬかれた方への追悼の場への参加を禁ずる教会と言うのはあり得ないことではないでしょうか。
日本教会本部の幹部や責任者がどのような意識を持ちどのような考えを持ちどのような決定をしていくのか、それはわかりません。賢明な指導者が道義的にも悖る判断や行動をとるとは考えられません。行った行動には必ずその結果が伴うものです。その行いが道理にかなわないものであれば、その結果はおのれ自身に帰ってくると言うことだけは明らかにしておきたいと思います。
いずれにせよ、我々は自らの良心に従って行動することが何より大切です。真のお父様は済州島、水沢里の女性研修で「良心は両親に優る。良心は先生に優る。良心は神様にも優る。」と「良心」の大切さを説かれました。それが宗教の本質ではないでしょうか。宗教団体や宗教家が「良心」を失えば、それは宗教団体や宗教家からの逸脱を意味しています。
我々は心静かに自らの「良心」に問うて、行動していくべき時だとみるべき時なのではないでしょうか。
次回は「忠孝の心は・・」について書いてみたいと思っています。