HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

神山先生の追悼式に出たら除名?

2017-02-14 05:24:07 | 徒然

昨年末聖和された神山威先生の追悼式が計画されているという。

それについて「神山先生の追悼式に参加したら教会を除名にされるのでは?」との噂を耳にした。あくまで噂である。まさかと思うが、神山先生を除名処分にし名誉会長職も剥奪するとした日本教会である。ひょっとするとそのようなこともあるのではと言われている。

一方、「神山先生はとても天が評価をされている。自ら除名あるいは名誉会長剥奪という辱めを受けながらも、最後の最後まで今際の息のその日まで真実と愛の言葉を語り続け、訴え続けられた姿は天が記憶し永遠に忠臣として称えられるであろう。その姿は真のお父様に仕えた弟子の中でも最も称えられるべきものである。」という声も聞いた。こちらは確かなことである。

神山先生が本当の忠臣だったのかそれとも逆臣だったのか、それはその生涯の歩みを知る人にはすぐにわかることだろう。真のお父様がアメリカ摂理を始められるにおいて、日本から神山先生を呼ばれ、アメリカ摂理の立ち上げから展開に至るまで最も信頼し頼られてきた。お父様の願いに常に命がけでこたえられて歩んできた神山先生の姿は特に在米の兄弟姉妹はよく知るところのものである。お父様はその神山先生に聖和直前に麗水に足を運ばれながら何度も「食口たちを頼む!」と言われて来たのである。

それだからこそ、米国における聖和式には米国家庭連合の祝福家庭の兄弟姉妹も多数参加しての聖和式が挙行されたのである。米国協会ではHPでこそ掲載はされなかったが公式的に神山先生の聖和式の報が伝えられたと聞いた。

にもかかわらず、日本教会では「追悼式に参加したら除名」?という噂を聞く。あくまで噂であるから、まさかそのようなことを行うとは考えられないが、もしやそのような通達でも出されるようならそのような指示や通達を出した責任者は、イエス様の時の「イスカリオテのユダ」のように歴史に記録されるのではないかと懸念する。

日本の歴史ではいかに戦った相手でも「国のために殉じた者ならば」と篤く葬るのがその精神の伝統である。出雲大社や法隆寺は攻め滅ぼした者への追悼の意味で建てられたとも言われている。そのような日本でそのように、ただ「教会の指示に従わなかった」という理由でその地位や名誉を剥奪し、その追悼の場に参加さえ許さないというようなことはあり得るのだろうか。日本の精神風土からも考えられないことである。宗教的立場からはあり得ないことである。

あらためて「許せ!愛せ!団結せよ!」と全米ツアー時の真のお父様のメッセージを最後の言葉として遺された神山会長の篤い思いが蘇ってくる。

天の神様のみ旨成就のためにすべてを捧げつくされた真のお父様の姿が浮かんできます。

今すべての祝福家庭は争っている時ではない。お互いに非難したり、だれが正統だとか誰が後継者であるとかと言うことを論じて争うことでもありません。お父様が求め続けた神様のみ旨をどのように果たすかが問題です。そのみ旨を果たす為に兄弟姉妹が、祝福家庭が共に手を携え協力し一つになって行くことが肝心です。憎しみや恨みを開放して一致協力していくことが大切な今の時ではないでしょうか!

今回安倍総理大臣が訪米、トランプ大統領との首脳会談に先立ち、米軍兵士の眠るアーリントン墓地に参拝、米国は四軍(海兵隊と陸海空軍)の儀仗をもって応え、君が代がその場で吹奏された。その姿は篤い感激をもって全米と世界に伝えられました。(なぜか日本のメディアは多く報道していなかったが)昨年末には安倍総理はハワイを訪れ日米戦の犠牲者に花を手向けた。かつて激しい戦いを戦った日米両国が今は最も信頼し最も助け合って世界の平和と繁栄に貢献している。これが本当の姿でしょう。

全人類の模範となり平和のモデルとなることを目指した世界平和家庭連合です。同じみ旨を求めて歩む祝福家庭の兄弟を除名するとか、除名した人物の追悼の場に参加したというだけの理由で「除名だ!」などと言う、偏狭な考えや行動では世の見本にも何にもならないのではないでしょうか。ましてや創立者である文鮮明先生、真のお父様の前に忠誠を尽くして歩みぬかれた方への追悼の場への参加を禁ずる教会と言うのはあり得ないことではないでしょうか。

日本教会本部の幹部や責任者がどのような意識を持ちどのような考えを持ちどのような決定をしていくのか、それはわかりません。賢明な指導者が道義的にも悖る判断や行動をとるとは考えられません。行った行動には必ずその結果が伴うものです。その行いが道理にかなわないものであれば、その結果はおのれ自身に帰ってくると言うことだけは明らかにしておきたいと思います。

いずれにせよ、我々は自らの良心に従って行動することが何より大切です。真のお父様は済州島、水沢里の女性研修で「良心は両親に優る。良心は先生に優る。良心は神様にも優る。」と「良心」の大切さを説かれました。それが宗教の本質ではないでしょうか。宗教団体や宗教家が「良心」を失えば、それは宗教団体や宗教家からの逸脱を意味しています。

我々は心静かに自らの「良心」に問うて、行動していくべき時だとみるべき時なのではないでしょうか。

次回は「忠孝の心は・・」について書いてみたいと思っています。

 


サタンの究極的業は~共産主義唯物論者の姿に見る神を遠ざけた者の行きつく先

2017-01-26 18:49:18 | 徒然

神と共にある者の業は平安と喜び、愛と真理の業である。

しかし、サタンの業はそれらのすべてに逆行する。

サタンの最終的武器は生命の抹殺、すなわち殺人である。

無神論唯物論思想共産主義の最後の結末は凄惨な殺戮の歴史だった。ベトナム戦争時、隣国カンボジアで繰り広げられた凄惨な殺戮の歴史は誰もが覚えていることだろう。2017年以来、共産主義革命は常に暴力的な手段で実現されたし、その後の支配の歴史でも凄惨な殺戮を繰り返してきた。共産主義無神論思想には人命を尊重する思想はない。自らの権力に従わないものには即刻死が言い渡される、共産党独裁政権の歴史が如実にそのことを物語っている。

サタンの最終手段は常に人命の抹殺だったことを覚えておかなければならない。

 

さて、真のお父様が聖和前になされたいかにも不思議な言動~顕進様が根拠の乏しい報告を根拠に解任排除されたのは極めて「意図的だった」と、論じた。何故か?その理由はいくつか考えられるが、その意味の一つにサタンの究極的業が生命の奪取であるということを考えてみる必要があると思う。

実際顕進様のお父様の後継者としての就任は、それまで統一家の中で私利私欲を貪っていた勢力には実に危機的なことだった。(これはその当時顕進様の近辺にあった食口の証言にもある。)

彼らはいかなる不当な手段を使ってでも顕進様がお父様の後継に立つことは阻止しなければならなかった。だから米国では顕進様が世界巡回をしている最中に様々な画策がなされた。その延長に7男の亨進様による米国総会長の人事もあった。

真のお父様はこのような状況の推移を備に把握されていたに違いない。

当時、お父様の周辺にある幹部たちはとても宗教家とは言えない思考と人間性を持った者たちであった。お父様はカイン復帰のためにあえて、カイン的な人物たちもその側近として用いてカインアベル復帰の究極的蕩減復帰の条件を立てられていたのである。

お父様は真の母様や顕進様と対抗している他の子女様たち、さらに幹部たちが、父子協助時代とお父様の意向を理解し、お父様の真の愛のもとに屈服して顕進様を中心に一つになってくれることを願っていた。

しかし、真のお父様の究極的な努力にもかかわらず、お母様をはじめ子女様も幹部たちもお父様の願いに逆らい、顕進様を排除するために、あらゆる虚偽の報告や策略をもってしてどこまでも顕進様には従おうとしなかった。

お父様がなぜ「逆理の法」をとらざるを得なかったのか!?

最終的にはサタンの最大武器の「殺人」さえ行いかねない状況になっていたのである。

 

人類歴史はカインがアベルを殺害することで始まった。そのカインの背後にあるサタンをいかに分立して屈服させるのか!?神は止む無くもアベルを打つことを通してサタンを屈服させざるを得なかったのである。

ヤコブが母親リベカの母子協助でイサクからの跡取としての祝福を奪った。その時、エソウはヤコブの殺害を決意したのである。そのためリベカはヤコブをラバンのもとに送ったのである。ヤコブは21年の路程を通して故郷のカナンに帰るが、その時も当初はエソウはヤコブを殺害する目的で、その僕たちを武装させヤコブを迎えようとした。ヤコブが知恵を使い、全財産を先立て妻や子を先立てて進んだので殺害を免れたのである。

復帰摂理のすべてをご存じの真のお父様である。父子協助時代を経て、長子の立場であると祝福された顕進様が、その兄弟たちからも恨まれて、そこに盲従する幹部たちがもしやその生命まで無き者にしようとしていたとするならば、そこから遠ざけるのが父子協助の取るべき道であった。

実際2008年当時教会幹部は顕進様を殺害しようとさえ考え行動しようとしていたことは当時の状況からも明らかになってきている。

真のお父様が顕進様のもとに食口が行かないようにとされたのは、顕進様の命を狙う集団が行かないようにさせるお父様の知恵であったと考えることができる。さらにお父様はご自身の生命の危険も感じておられたに違いない。実際お父様は基元節を迎えることなく聖和していかれた。本来お父様はもっともっと長く生きられるはずの方であった。お父様の入院中の処置や、転院の事実はお父様の生命がいかに軽んじられ、できうるならばその生命をなきものにしようとするサタンの意図が働いていたことを明確に示唆している。真のお父様は自らの命が狙われて、生命を奪われることも覚悟しての顕進様の追放だったと思われる。

サタンにしてみれば真のお父様の死の場面に顕進様がいてもらっては困るわけである。事実顕進様はお父様の聖和の場面から完全に排除された。

いずれすべての秘密が暴露される時が来るであろう。あるいは闇から闇に葬られた事実もあるのかもしれない。しかし、今からは真実が明らかになり、すべての悪なる企みや悪なる事実事実が明らかになっていくであろう。

しかし、真実は事実が明らかになることで終わりではない。復帰の摂理はアダム過程で失われた真なる家庭の復帰であり。カインとアベルの原則を通しての一体化の原則である。ヤコブ路程の最後はエソウとヤコブの和睦であり、和解であり、アブラハムの家庭の神の前への復帰である。

希望の時というのはその時を言う。今その時がまさに訪れようとしているのである。

 

 


神の戦法とサタンの戦法

2017-01-25 18:10:28 | 徒然

顕れた現象を見れば、その本質を知ることができる。

神側かサタン側か、その現象自体を見ていてはわからないことがある。しかし、物事の事態の推移を見れば、何が神側であり、何がサタン側であるかわかってくるものである。

神の戦法は「打たれて復帰する」道

サタンの戦法は「打って奪う」道である。

善悪の分岐点はその場では同様の姿に見えるけれども、時間を経過して行ってみればだんだんと事態が顕わになって、何が善であり何が悪なのか?どちらが神側なのか、サタン側なのかがわかってくる。

人類歴史は善悪闘争の歴史だと、統一史観は謳っている。

先回も引用させてもらった「まっちゃんのブログ」であるが、最新記事で「束草事霊界メッセージ事件後の家庭連合の動き」という記事を投稿してくれている。

内容は「王子の乱」と言われる、内容は韓国時事ジャーナルに掲載された記事を引用したGildongブログの内容である。

 

神は永遠不変絶対的且唯一の存在である。そして神の本質は愛である。

旧新約聖書は神を愛することを教えた。だから信仰者は信仰者らしい歩みをしてきた。すなわち神を第一として、その愛を具現化することを願って歩んできた。それに対して、不信仰者、唯物論者や無神論者は神を畏れることをせず、愛ではなく憎しみを原動力として、暴力的行為をほしいままにしてきた。

その行いを見れば、それが神からのものかサタンからのものであるかがわかるのである。

王子の乱で、どちらが神側かサタン側であるかの論評は避けよう。それはいずれも真の父母様の子女様であり、ともに一つの家族なのだからそのことを論議することは我々がすることではない。

ただ、神の家にも神側とサタン側は存在する。希望をもたらす側が神側であり、その結果が失望に終わるものはサタン側である。

 

無神論思想の共産主義はその成立以来実に多くの人命を奪ってきた。彼らは「政権は銃口から生まれる!」と唱えて武器を持ち暴力で政権を奪取し、暴力でその政権を維持してきた。

神の側の民主世界では、一時サタン側との戦いを経過しても、その戦いが終われば平和的な施策により平和を取り戻し、お互いが戦った間同士でも友好融和を取り戻し、固い同盟関係さえ結んできた。第2次大戦を戦った日米がそのよい例となっている。

恨みや憎しみを増長させるのはサタンの業である。そこには未来への展望を見ることもできない。

打たれて復帰するのが神の戦法である。統一家の混乱も、だれが打って誰が打たれているのかを見るとよい。

一見不利な状況で、抜き差し難い困難な状況にあるものが最後は勝利者になる。そこには無限の希望があるからである。

サタンは一時様々な謀略や暴力的手段で主権を奪い、支配を続けるが、そこには永遠性はない。

2000年前にイエスキリストはイスラエル民族の決定的不信に遭遇し、最後の手段として十字架の道を選択した。罪なき身に罪の汚名を着せられて、しかし、失望ではなく、希望を抱いて十字架の道を登っていった。十字架の苦痛の先にある神の国の訪れに無限の希望を持って行った。サタンに対する最大の武器は恩讐を愛する道であり。敵を許し愛する道であることを自ら究極の実践をしていかれたのである。

再臨主としての真のお父様の行かれた道も同様であった。

打つもの、非難するものを常に包摂し、彼らが本然の姿に復帰する日を願い続けてこられた。まさに神の側にある者として究極の歩みを実践されて来たのである。

その使命を父子協助時代を通して継承されたのがどなたなのでしょうか?武器や武力や陰謀を使うわけではありません。困難に当たって常に祈りと許しの心情で敵対するものをも愛で包摂する心情でもって歩む者こそが神の御国を受け継ぐのではないでしょうか。

 


あえて言うなら「意図的に騙された」というべきか

2017-01-23 21:45:52 | 徒然

あえて言うなら「意図的に騙された」というべきか!

お父様は騙されていたのかそれとも騙されていたのではないのか?

お父様は騙されていたのではなく、あえて言うなら「意図的に騙されていた」のである。

それは、お父様が顕進様を排除されたとされる言動を見ると、それまでのお父様からは考えられない行動だから、誰しも疑問に感じざるを得ない。

家庭連合ブログ村の「まっちゃんのブログ」でブログ主のまっちゃんが整理してくれた一連の内容がある。そこにあるお父様の顕進様の解任の理由をみたら、とてもお父様がそれらの内容を普通に信じて顕進様を解任されたとはとても思えない内容ばかりである。

それまで、お父様は真のお母様や幹部たちがお父様の意向に反して行動していた事実を叱責し続けていたのが実際だったから、そのようなお母様や幹部たちが顕進様に対して讒訴する内容が理にかなっていない。事実に反するものであることは重々承知の上だったと考えるのがふつうである。顕進様が「もう一度事実かどうか確かめてください!」とお父様に懇願されたにも関わらず、お父様は問答無用で顕進様を解任された。なぜか?それはお父様が意識的に・・・騙したものがいたらうまくお父様を騙せた。と思うかしれないが~お父様はすべてをご存じでありながら、ほとんど嘘か捏造に過ぎないような報告であることは百も承知で、いかにも内容の怪しい報告をいかにも本当であると、敢えてそう信じこむようにされて、顕進様を叱責し解任されているのである。

その後の様々な言動もそうであった。

何故なのか?

それは、カインアベル復帰の原則からそうされたのである、というのは前回の記事でも少し触れている。

 

虚偽の内容で追放された顕進様であるが、顕進様がそれで終わっていれば、それで復帰摂理のすべてが終わったかもしれない。しかし、虚偽の報告で追放された顕進様が、その立場を乗り越え勝利して、サタンを完全に屈服して勝利したならば、恩讐を愛する、サタン屈服の原則からお母様とも他の兄弟たちとも、そしてカインの子女の弟子や幹部たちとも神様を中心とする復帰の場で出会うことができるのである。

 

もしやあの時、お父様が顕進様を弁護し擁護していたならば父子協助時代を通して神の摂理を担った顕進様に反逆したお母様や兄弟たちそして幹部や食口たちは摂理の大反逆者として行く道を失ってしまう。であるならば、真の家庭と統一家の分裂は決定的なものとなり却って修復不可能なものとなってしまわざるを得ない状態だった。

 

かつてイエス様の時、イスラエル民族を代表する祭司たちや最後はその弟子たちさえも反逆するような状況の中で、イエス様はご自身を祭物として、それでも恩讐を愛する愛を貫いて霊的だけではあっても復帰の道を開く道を行かれた。十字架の道が逆理ではあるけれども復帰摂理の進展に最も近道だと選択されたのである。

それは、神ご自身がそうされたともいえる。「エリ エリ サバクタニ」とイエスは最後に祈られた。神ご自身がイエスを見捨てたかのごとき選択の道だった。

 真のお父様が顕進様になさったことも同様の内容であると考えることですべてが理解することができるようになる。

 

 そこにはとてつもない真のお父様と顕進様の犠牲があり涙があったことをすべての祝福家庭は知らなければならないであろう。


宗教家と宗教屋

2017-01-22 23:04:48 | 徒然

よく政治家と政治屋ということが言われる。

政治家は政治を行う人だが政治屋は政治を生業にする人。生活手段として、生活の手段として政治を行う人、大して違わないようだがちょっと違う。

宗教家と宗教屋がある。

宗教家は宗教を使命として宗教活動している人。宗教屋は宗教をビジネスとして行っている人。

宗教ビジネス別に悪いとは言わないが、本来宗教的本質はビジネスとは無関係だと思う。

宗教団体の看板を掲げ、宗教法人として登録されているのはどちらかと言えば宗教ビジネスの宗教屋が多いかもしれない。

信徒を増やし、様々な形で会費や献金、お布施を集める。

人間生活に宗教的なものは不可欠なので、様々な宗教があっていいし、それがある程度ビジネス化するのはやむを得ないとも思う。

がしかし、ビジネスの中にはまがい物や模造品を売って儲けるものもある。

宗教は目に見えないことを扱うので、まがい物でも気が付きにくい。

本来、宗教は収益事業ではないので税制上も非課税である。(宗教法人でも収益事業部分があればそれには課税される)

収益事業ではないはずなのに収益優先の宗教団体もままある。

何とはなしにご利益があると思うと、みんなお金を出すものである。それが神社のお賽銭程度なら、功徳があるかないかわからなくても誰も文句は言わない。ただしそれがそれぞれの生活を左右するようなものだと問題になる。

家庭連合(旧統一教会)もよく考えたらいいと思う。かつて霊感商法問題で社会的信用を失墜した。その反省の上にあると思うが、よくよく注意しないと同じ過ちを繰り返す。

宗教ビジネスもいいが、その商品に相当する恩恵や功徳がそれ相応のものかよく判断しないといけない。

まがい物はいけない。実態や証拠のないものも論外である。

近年重大な過ちを犯し続けたことを反省しなければ問題である。

従軍慰安婦という実体のなかったことを根拠に解怨なることが行われ続けたがこれが実は命取りになってきている。社会的法律的にはいまだ問題になってはいないようだが、霊的にはすでに問題となっている。

そのことは真のお父様も指摘していたはずである。「訓母のやり方をしていたら滅ぶ!」と・・・

そのことが今現実になっているようである。わかってみたら従軍慰安婦の恨みの霊などなかったことが明らかなのである。訓母がいなくなってもその過ちは消えない。

いまだに清平詣でがある。文鮮明先生の精誠を尽くした地として詣でるのはいいだろう。しかし、何か特別な解怨ができるなどと言って高額献金をもって清平に行くことを勧めるならばそれは偽物販売の詐欺に等しい行為である。必ず問題になる。

要注意、要注意である。すでにこの誤った解怨役事とやらで決定的ダメージを受けているのである。

無償で恩恵を与えるのが本来の宗教家である。宗教屋でも許されるのは正しい商品を提供すればこそなのである。偽物、まがい物、模造品を売っていては必ずその事業は破綻する。