HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

摂理的葛藤の“真実”を読み解くために4  統一教会史の検証 (雪風)

2018-06-25 09:09:00 | 摂理的葛藤の“真実”を読み解くために 

 

摂理的葛藤の“真実”を読み解くために 4  統一教会史の検証 (雪風)

 

家庭連合が清平教に変わっていくという仮説を基にして、統一教会史を検証してみます。(雪風) 

 

もう一つの仮説は、韓国には左派と右派の対立と、全羅道など地域ごとの対立がある。それらの対立がそのままUC内に持ち込まれている。これをふまえて、家庭連合の歴史を自分なりに検証してみました。

 

 

 

家庭連合(統一教会)の大きな転換の歴史(日本はほとんど経済活動だけ)

 

 

 

1霊的集団と一体となれずに統一教会創設

 

2軍事政権の下、反共を掲げながら経済活動

 

3冷戦の終焉と共に、反共から容共へ転換するが、経済活動はより激しくなる(日本)。また世界は冷戦の時よりも混沌としてきて、ソ連の崩壊とともに世界が統一されるということは実現しないことが分かる。(予言は実現しなかった、原理講論の摂理史観の崩壊)

 

4洪蘭淑氏の暴露によりUCは大きな打撃を受け、アメリカでの基盤を失う。これにより清平が大きく浮かび上がってくる。清平教への転換

 

5文鮮明師の聖和後の独生女問題により、家庭連合の基盤は清平だけになっていく

 

 

 

重要な転換点と思われる家庭連合の歴史と、関連する世界情勢を書きだしてみました。

 

1954      5.1統一教会創立

 

1956 スターリン批判スターリン批判とは、フルシチョフによるスターリン執政期における政治指導や粛清の実態の暴露。その原因としての個人崇拝の批判。このフルシチョフ報告に前後してスターリン時代の思想や政策が批判され、ソビエト連邦の政治・社会の画期(過去と新しい時代とを分けること)をなすとともに、世界各国の共産主義運動に影響を与えた。(原理講論の著者はスターリン批判を知らなかったのか)この時点で共産主義国家のソ連は大きく変わろうとしていた。

 

 

 

1960   真の父母の日宣布 誉進氏誕生 李承晩大統領失脚(学生クーデター1963      朴正煕大統領就任

 

1967      10.2 日本で原理講論発刊 

 

1968  1.13 韓国で「国際勝共連合」を創設

 

              4.1日本国際勝共連合創立 会長久保木修己氏、笹川良一名誉会長

 

笹川 良一 大正・昭和時代の日本の政治運動家、国粋大衆党総裁、国際勝共連合名誉会長、衆議院議員、財団法人日本船舶振興会(日本財団)会長

 

ベトナム戦争最大の激戦年

 

    軍事政権の下で反共を掲げ、国際勝共連合創設

 

1971      韓国で「一信石材」を設立

 

5.25 教団の第2事業部が「幸世商事株式会社」になる

 

12.6 韓国で「一和製薬」(後に一和と改称)を設立洪性杓(ホン・ソンピョ、36家庭、洪蘭淑の父)設立。壺、多宝塔と人参茶

 

日本は勝共活動と共に経済活動を始める

 

12.18文鮮明夫妻がアメリカ進出を目指し渡米。

 

1972      笹川良一「反共運動から手を引く」と名誉会長を辞任した。

 

    12月 古田元男が「幸世商事株式会社」代表取締役に就任

 

    勝共活動よりも経済活動を優先するようになる

 

1973      1.29米軍ベトナムから撤退

 

1975  『世界日報』が創刊される。 4.30サイゴン陥落

 

    経済一本化方針が出され、経済活動従事者がハッピーワールドに吸収される

 

    古田氏が実質的な統一教会のトップになる

 

1976      6.1ヤンキー大会 9.18ワシントン大会 7.1ベトナム統一

 

1978      10ホームチャーチ摂理開始されるが、教団の組織は変わらず

 

1979      朴正煕大統領暗殺される

 

1980  光州事件

 

1983      10.1『世界日報』事件。以後『世界日報』は教会色を強める。

 

1984      1.2 文興進様聖和 1.2愛勝日 5.16愛天日

 

              5月ダンベリー刑務所収監

 

    6.10 『世界日報』の路線の対立で、追放された副島嘉和らが『文藝春秋』に出した告発手記での暴露により、勝共連合を反共運動の同志と考えていた民族派や右翼が激怒する。「平和と安全を守る七大都市大会」の大阪大会では、右翼や民族派が批判ビラを会場周辺に張り、大会を妨害。日本の勝共連合は活動が難しくなる

 

1985      8.16一勝日宣布 ソ連ペレストロイカ始まる

 

1987      韓国で「南北統一運動国民連合」を発足し、共産主義打倒から、共産主義解放という主張を強調するようになる。

 

    光州事件以後左派勢力が勢いを増すとともに、ソ連の崩壊が始まったために、反共から容共に転換したのか

 

    11ゴルバチョフ書記長がロシア革命70周年記念式典でスターリンを批判し、レーニンもスターリン主義の元凶として批判した。

 

1989      8.31八定式 1.3宗族的族メシア宣布式 11.7洪順愛ハルモニ聖和

 

    6.4 天安門事件

 

11.9ベルリンの壁崩壊

 

1991 1湾岸戦争

 

12.6金日成(キム・イルソン)と会談。

 

    12.25ソ連崩壊

 

    ソ連が崩壊したので、世界の統一は近いと考えたが湾岸戦争と、それに続くイラク戦争で、世界は冷戦の時よりも混沌となったことを知る

 

1993  2 これから韓国大統領は左派

 

1993      還故郷摂理

 

1994      5.1家庭連合創設 宗教時代は終わる(家庭盟誓を発表)

 

    11 文鮮明師、孝進氏の問題を初めて知る

 

1995      1月清平特別修練会始まる

 

  8月 洪蘭淑氏脱出

 

1996      2月24日日本人を対象にした清平修練会始まる

 

1997      8.1 7・8節 天地父母宙安息圏宣布 12月韓国通貨危機

 

1998      3月天地正教解散

 

9.20洪蘭淑氏がアメリカのテレビ番組“60 で文鮮明一家の偽善性を告発した。

 

1999  7.19文顯進氏、家庭連合世界副会長就任。会長郭錠煥氏 

 

  天地正教解散 清平先祖解怨始まる。以後急速に清平教となっていく

 

              10.27 文栄進様聖和

 

2003      盧武鉉大統領 イラク戦争

 

2008      3.17 文孝進様聖和

 

              4.18 文亨進世界平和統一家庭連合世界会長及び韓国総会長就任

 

              4.18 亨進様が「世界平和統一家庭連合」の世界会長に就任

 

              7.29 アメリカ総会長解任 文仁進氏リーダーとなる

 

2009      8 文仁進氏不倫始まる

 

2010      2010 6・5異端者爆破者宣言文

 

              7.16ボート会議

 

2011      仁進氏妊娠

 

2012      5出産する

 

              9.3 御父様御聖和 文鮮明師の聖和後、独生女問題発生

 

              9文國進氏私生児問題で財団辞任

 

              9文仁進氏不倫問題発覚

 

2013      3文亨進氏 米国で教会活動を始める

 

2015      1亨進氏YouTubeで活動を始める

 

2018  6.1「文孝進様聖和10周年記念 孝情文化フェスティバル」が東京で行われる   

 

 


摂理的葛藤の“真実”を読み解くために3  統一教会と清平のルーツ-② (雪風)

2018-06-13 20:27:08 | 摂理的葛藤の“真実”を読み解くために 

3 統一教会と清平のルーツ-

 

雪風コメント

文鮮明師の弟子たちが作り上げた原理講論にはいくつかの法則があり、それを歴史観に応用している。これを近代にも適用しているが、この時代は聖書の時代と違い多くの資料が残されている。その資料をもとに原理講論の歴史観を検証してみると、矛盾していることに気がつく。例えば、第1次世界大戦はキリスト教を迫害した国とキリスト教国家との争いであったと書いてあるが、ドイツとフランスはキリスト教国家であり、トルコは過去東ローマ帝国の一部であって、イスラム教とキリスト教が共存していた国であった。

 

大東亜戦争以前の統一教会前史は、蘇生・長成・完成の三段階発展の法則を適用するためにかなり無理をしているように感じる。それに、前史の基となっているのが当時の信者たちの話だけで、それを証明する資料がない。「統一教会の分裂」では前史を「血統復帰神話」としているが、これが正しい見方のような気がする。それなので、前回と今回の当時の霊的集団の記述は参考程度にとどめてください。

 

3 ペク・ナムジュ(白南柱牧師)とイエス教会(東海岸)

(統一教会の現象学的考察より)

 

同じころ他のキリスト教団も、新しい救世主のために道を開こうとしていた。東岸の元山地方では、元山女子専門学校教授のペク・ナムジュがカリスマ的伝道師として知られていた。この宗教集団についてはあまり知られていないが、ペク・ナムジュが胎内教とイエス教会と呼ばれる教団の創立に関与したことだけははっきりしている。

鉄山のキム女史に会って弟子入りせよという啓示を受けたペク・ナムジュはその啓示に従い、素足で130マイルもの巡礼を敢行したと証言されている(ムン師の妻ハン・ハクジャの母ホン・スンエはキム女史の教団に属していた)。ペク・ナムジュはキム女史に会って、その啓示を信じるようになった。しかしこの二人の宗教家の関係は長続きしなかった。ペク・ナムジュが聖主教の信者たちと口論の果てに袂を分かってしまったからだ。

ペク派の教祖の地位は、メソジスト教会の牧師リー・ヨンドに引き継がれる。ペク・ナムジュがリー・ヨンドを元山に呼びよせた1932年を期して、イエス教会が誕生した。

ペク・ナムジュは宗教儀式としての性行為を行ったと報告されている。この教団のある女性信者は、新しいキリストであるペク氏は、処女に子を授けるとの啓示を受けたという。子供が実際に誕生すると、当然ながら厄介な事態を招いた。それまではもっぱら教義上の問題でキリスト教正統派から咎められていたペク氏は、今度は不審な性行為で糾弾されることになった。キム女史に会うために130マイルもの巡礼をしたというのは、後で起こった醜聞を逃れる手段に過ぎなかったという解釈もできる。

 

http://spfjpn.com/moon/k-j/sc/john/#2-4_1945 2-4. 1945年当時の洗礼ヨハネ型人物より

 

金聖道女史と白南柱牧師の決裂

サタン世界において、女一人で国家を中心として戦ってはなりません。必ず男と二人で、一つとなって共同作戦をすることによって、一つの基盤を成さなければならないのです。白南柱氏がここで金聖道氏と完全に一つになるべきであったのに、そうできませんでした。死のうが生きようが一つになって、相談しながら行くべきであったのに、そうした使命を果たすことができずに分かれてしまいました。

 

聖主教の受難と金聖道女史の他界

すべてのキリスト教会が彼らを迫害し始めました。牧師たちの告発によって、その老いた婦人は投獄され、むごい拷問を受けました。それで釈放後に彼女は死にました。

 

4 リー・ヨンドの神秘主義(東海岸)

金永雲(女性)原理講論のキリスト教に関するところを担当したと言われている

統一神学の著者、アメリカ開拓伝道に向かう。

1915年生まれ

17歳のときから霊体集団の李龍道に師事

『金永雲先生も十七歳のとき、そのかた(李龍道)につき従いながら、恵みを多く受けたそうです。(姜賢実先生の証)』

『昔、よく文鮮明先生が手を振って口ずさまれていた歌なので、音楽に堪能な男性が譜にとって残しました。作者ははっきりしませんが、どうも李龍道牧師ではないかと伝えられています。李龍道牧師は韓国における霊的運動の新興先駆者で、アメリカ伝道をした故金永雲女史が少女時代に師事していたそうです。(聖歌のゆかり2 嘆きを吹きとばせ)』

1942年関西学院大学神学部卒業

元梨花女子大教授、1955年大学は異端の信仰をやめないことを理由に、崔元福(チェ・ウォンボク)・金永雲(キム・ヨンウン)・梁允永ら5名の教授・助教授や14名の学生免職.退学処分とする。

1975年 ベリータウン神学校の組織神学の教授となる。

ちゃぬの裏韓国日記、統一神学、統一教会史より

 

(統一教会の現象学的考察より)

リー・ヨンドがとりわけ重きをおかれるのは、結核を患って、キリストが十字架に架けられた年齢と同じ33歳で死亡したとされるからだ。朝鮮では、神秘主義者かつ信仰復興論者の牧師として有名で、朝鮮半島全土を伝道してまわった。彼は最晩年に異端として告発されるまでは、キリスト教主流の諸派から説教を依頼されていた。あるキリスト教主流派の信徒の情報によると、リー・ヨンドの礼拝集会では、信者が裸になって儀式を行い、ムン・ソンミョンも常時その集会に参加していたという。しかしその理由は後で述べるが、この証言はどうも疑わしい。

 

リー・ヨンドはたえず身体の不調に苦しみ、25歳で重い肺疾患に冒された。友人の故郷で養生していたとき、村人に教会で説教をしてくれと招かれた。ところがいざ説教する段になると言葉につまり、ただ涙をこぼすばかり。心を揺さぶられた会衆も涙を流す。リー・ヨンドは、神との神秘的な関係を体験したが、その体験は言葉では要約できないと悟った。彼自身「語るな、これが私のモットーだ」と言ったように。神秘的な関係とは、合一としか表現できないもの、あるいは花婿にたいする花嫁の性欲の象徴に使われる性的イメージとでも表されるようなものだ。

しかし、リー・ヨンドはその後神との神秘的な関係を表す新しい陰喩、すなわち「主との血の混合」という隠喩を発展させ、自身を苦悩するキリストになぞらえた。

 

リー・ヨンドは自分とイエスをあからさまに同一視した結果、キリスト教主流の非難を招くことになった。あまりの攻撃に、彼はやむなく自分の教団を創始するしかなくなった。その教団成立の陰には、別の新キリスト教集団を率いていた神秘主義者ファン・ククジュ     (黄國柱)の協力があった。

キリスト教主流派の歴史学者ミン・キョンベによると、この教主(黄國柱)はイエスに似せようと髪やひげを伸ばし、自分の頭は切り落とされイエスの頭と交換されたのだと主張したという。「私の頭はイエスの頭、私の血はイエスの血、私の心臓はイエスの心臓……私は完全にイエス・キリストに変身した」ファン・ククジュは宗教によるトランス状態は性的恍惚感と同じようなものだと主張した。

 

ミン(キリスト教主流派の歴史学者ミン・キョンベ)はこう評する。ファン・ククジュは三角山に祈祷院を建て、教義や礼拝式に首と血の交換を説いた。これらの交換の過程は霊体交換の実現と呼ばれたが、実態は姦淫だった。ちなみに主流派のキリスト教徒であるミン(キリスト教主流派の歴史学者ミン・キョンベ)には、儀式化された性の実践と乱交の区別がつきにくくなっていることを注意しておきたい。

 

リー・ヨンドはこれら新キリスト教の神秘主義者たちがイエス教会を興したとき、協力はしたものの、抗議するする姿勢は崩さなかった。(イエス教会の設立には消極的だった)

 

本項に述べたとおり、ペク・ナムジュとリー・ヨンドの宗教集団は実質的には同じものだが、統一教会はそれぞれを別の教団として扱っている。二教団を別個に扱わなければ、統一教会が発展させたがっている神学史のうえで、統一教会の立場が裏付けられないからだ。ムン師によれば、リー・ヨンドのイエス教会(リー・ヨンドが創設したイエス教会)が胎内教と統合するのは神の意志であり、天使長がイブのもとへ行ったことを再演する意味があった。しかしこれは実現しなかった。「……この二教団が統一されなかったため、神は新しい運動を興し、新たな場所を開拓しなければならなくなった」

リー・ヨンドが1932年に病没すると、その魂はイスラエル修道院を興したキム・べクムン(金百文)に乗り移ったとムン・ソンミョンは語る。

 

5 イスラエル修道院

イスラエル修道院は、名称こそ「清水教」と変更されているが(1993年時点)今でもソウルに近い韓国の西海岸に存在している。キム・ペクムンは、のちに統一教会が奉ずることになる堕落論と同じ考えを説いた。つまり堕落はルシファーとイブの性行為の結果であり、血を清めることで復帰が達成できるとした。

キム・ベクムンには「聖神神学」(1954年)と「キリスト教根本原理」(1958年)の2冊の著作がある。後者は三年余におよぶ講義をまとめたものだ。ムン・ソンミョンの「原理原本」はキム・ペクムンの著作の盗用だと言われている。それに対して統一教会側は、キム・ペクムンのほうがムン・ソンミョンの思想の内容について啓示を受けたのだと主張したものの、具体的な対応はしなかった。

ムン・ソンミョンが「原理原本」を1952年に完成し、キム・ペクムンの著作の出版が統一教会創立以後だという事実からすると盗用の告発は度外視してよいだろう。しかしながら、ムン・ソンミョンが1945年から1946年までのあいだ、イスラエル修道院の信者だったことは事実で、二人は密接な関係にあったため、類似性が指摘されるのも当然だ。ムン・ソンミョンは地方に隠遁の地を求めて移転したイスラエル修道院の平壌支部を任されることになった。

 

光海教会と訳されるクァンハエ教会は、イスラエル修道院の同支部のことだった。クァンハエを光海と訳すのは誤解に基ずくものらしい。この教会には正式な名称はなかった。教会の建物もなく、信者たちが野外で集会を持ったため“荒野”を意味するクァンヤという言葉が使われていただけだと思われる。

イスラエル修道院内で、ムン・ソンミョンはもっと高い地位が与えられると期待したらしい。キム・ペクムンは洗礼ヨハネの「位置」に立って、彼が救世主であると証言することもできた。しかしキム・ペクムンは証人とはならず、ちょうど洗礼ヨハネがイエスに背き、その救世主としての使命を疑ったように、イスラエル修道院はムン師に厳しい態度をとった。そのためムン・ソンミョンはイスラエル修道院にとどまることができなかった。

 

 


摂理的葛藤の“真実”を読み解くために2 統一教会と清平のルーツ-① (雪風)

2018-06-10 18:15:16 | 摂理的葛藤の“真実”を読み解くために 

 

摂理的葛藤の“真実”を読み解くために 2

摂理的葛藤をどう読み解くか!

摂理的葛藤の“真実”を読み解くために1 に続いて雪風さんの引き続きの投稿を紹介します。


統一教会と清平のルーツ-   (雪風)

 

統一教会以前の歴史はさまざまな説があるので、それを整理すれば新しい発見があると思いまとめてみました。「ちゃぬの裏韓国日記」を読んでみると、清平のルーツは「祈禱院」だと書かれています。

 

「祈禱院」が出現した第一期は、1930年代の朝鮮において神秘主義的キリスト教の流れをくむ信仰運動が起こった時期で、後の韓国のキリスト教系新興宗教のルーツにあたる「血分け教」の開祖として知られる李龍道(リー・ヨンド)・黄國柱(ファン・ククジュ)といった復興師達が現れた時期であった。

1930年代後半、黄國柱はソウルの三角山に「祈禱院」を作り「血分け」、「首換え」を教理として「霊體交換」を行った。黄國柱の「血分け教」は、その後も1940年代の中頃まで勢力を誇り続けていた。李龍道・黄國柱の信仰運動は、多くの醜聞を残しながらも、後の韓国のキリスト教系新興宗教のひとつの系譜となっている。

「血分け教」の流れをくむ新興宗教集団は、1945年の解放後南へ下って行ったが、その後も韓国キリスト教の周辺に断続的に現れては、巫俗信仰の断片をその秘儀の中に散りばめた「血分け」儀式を再現し「血分け教」の再生をはかっている。世界基督教統一神霊協会のルーツはこの時代の「祈禱院」に遡るものである。引用終わり

 

雪風コメント

金孝南氏が清平を去って、家庭連合の指導者の一人が役事を始めた時私(雪風)は、これで清平に来る人はいなくなるだろうと思ったが、実際は何も変わらなかった。今までそれを一般教会員の無知から来るものだと思っていたが、どうもそうではないような気がしてきました。

金孝南氏が清平を去っても何も変わらなかったということは、一般の信者は金孝南氏を信じたのではなく「清平」の、ある霊的な力を信じたのではないでしょうか。それは「祈禱院」とおなじような霊的な力のような気がしてきました。このようなことを清平のルーツを調べていくうちに、思いつきました。

それに、家庭連合は宗教団体でありながら、それなりの宗教施設がなかったのも理由の一つだと考えます。清平のルーツを遡ってたどっていくと結局、聖主教団などの霊的集団にたどり着くので、これらをまとめてみました。

 

その前に、分かりやすくするために、家庭連合が主張している、統一教会以前の摂理史観を書いてみました。

http://spfjpn.com/moon/k-j/sc/john/#2-4_1945 2-4. 1945年当時の洗礼ヨハネ型人物より

 

1次摂理

聖主教団の金聖道婦人(西海岸)と元山の白南柱牧師が一体化できず、摂理は次に移る。白南柱牧師  韓国における最初の洗礼ヨハネ的使命者

 

2次摂理

腹中教団の許孝彬女史と李龍道牧師が一体化できず、摂理は失敗

注 李龍道牧師が死亡したのは1933年というのが有力なので、この説には矛盾点が多い。胎内教は平壌でおこった。それが正確にいつかは不明だが、1935年ころのこととされる。聖主教が創始されたのは1935年という説があるので、この二つの教団はほぼ同じ時期であり、摂理史観には矛盾点が多い。

 

以下に、各教団を説明します。

(統一教会の現象学的考察より)

多くの新キリスト教集団のなかで、とくに統一教会の出現に意味を持つものが五つあげられる。統一教会では、その五つの集団が復帰劇でそれぞれの位置を占めていると説く。西海岸の二集団と東海岸の二集団は、それぞれルシファーとイブを象徴し、またそれぞれが「蘇生」と「長成」の二段階、そして統一教会が「完成」段階を表している。これらの団体はさまざまに関係があったといわれるが、これは天使長の位置にあった東海岸側がイブ(西海岸側)に近づいたことに置き換えて説明される。イブの位置を占める集団は、その後韓国に現れる第三のアダム、つまり再臨主を見つけ出さなければならない。

 

1 胎内教(プクジュンギョウ腹中教)許孝彬女史

胎内教は平壌でおこった。それが正確にいつかは不明だが、1935年ころのこととされ、少なくとも1940年から1947年にかけては確実に存在していた。ホ・ホビン女史はキム女史の弟子で聖主教の信者だったし、事実胎内教は聖主教の平壌支部として発足した。ムン師によるとこの教団は千人の信者を集め「12使徒と70人の弟子」はもちろん、キリスト再臨にそなえて花嫁まで用意したという。平壌に豪邸を購入し再臨主に罪なき家庭を築いてもらうため、最適な環境を整えていたそうだ。

1945年朝鮮半島が解放されると、キム・イルソン(金日成)を中心とする共産主義者が北朝鮮を支配した。平壌警察が胎内教の捜査に入り、信者を逮捕して聖衣を押収した。信者は平壌で投獄された。このときムン・ソンミョンも投獄されており、ファン(腹中教信者)ら信者たちと同じ房に入れられた。ファンは再臨主が面前にいるとは信じなかったものの、ムン・ソンミョンに強く惹かれるものを感じた。ファンが胎内教について語ると、ムン・ソンミョンは教えを捨てて釈放をのぞむべきだと説得した。ホ女史も投獄されているのを知ったムン師は、魚の骨をペンに、古い布きれを紙に、埃とつばをインクがわりにして書いた手紙を渡そうとした。こうして手紙を書いている私の真の姿のために祈ってください、釈放のために信仰を捨ててください、とホ女史に懇願したが、ホ女史は信仰を捨てず、その手紙は発見されてしまった。ホ女史は銃殺、ムン・ソンミョンは過酷な拷問を受けた。

腹中教の結末

許孝彬集団の失敗のゆえに、1950年に韓国戦争が起きた時、彼らはすべて虐殺されました。

許孝彬氏以下、すべての監獄にいた人々を、共産党たちが後退する時、連れていって全部虐殺してしまったのです。

 

2 聖主教団 金聖道女史 西海岸 統一神霊協会と合流した。エバ格の使命者

(ムン師の妻ハン・ハクジャの母ホン・スンエはキム女史の教団に属していた)。

 

(統一教会の現象学的考察より)

聖主教は西海岸にあった宗教集団である。北朝鮮の鉄山でおこり、キム・ソンド女史が率いた。キム・ソンド女史は1920年代の初めにキリスト教に改宗したが、牧師に不倫関係を強いられ思い悩む。なぜ牧師が罪を犯したのか、さらには一般に罪の原因とは何かを理解したいと思い、熱心に祈った。彼女は毎晩、夜中の1時から昼近くまで祈ったといわれる。

イエスその人が現れ、罪の根源は不義であり、エデンの園で果実を食べたことではない、そして十字架で流された血でこれを正すことができる、と教えたという。その堕落と磔刑は神がもっとも悲しんだ出来事だった。しかし今や地上にエデンの園の復帰が待たれている。朝鮮半島は日本から解放され(キム女史には解放の正確な日時が啓示されていた),韓国の新たな救世主は人間の姿で現れて、イエスの未完に終わった務めを成就し、世界復帰を果たす。

来たる主は新しい血統を確立し、主を受け入れる者は身心を清めなければならない。このため婚姻関係にあっても性行為は慎まなければならないとした(キム女史の長男は妻と性交したせいで死亡したらしい、とムン師は述べている)。

人間同士の結婚は真の結婚ではないのだから、男と女は結婚すべきではない。ひとたびエデンの園が復帰されれば、人類はサタンの支配から免れ、男も女も裸体を恥じなくなる。聖主教では肉食が性衝動を強めると信じられていたため、信者たちはもっぱら菜食で通した。

聖主教が創始されたのは1935年。少なくとも一度は裸でも恥ずかしくないという考えが教会での礼拝式で採用されたらしい。統一教会の初代会長、ユー・ヒョーウォン夫人はつぎのように証言している。

大学(梨花女子大学)当局や既成教会が、私たちのことを裸で踊っていると思ったのは「原理講論」の要点が聖主教の教えと似通っていると考えていたからです。聖主教が南(韓国)に来てソウルで布教していると思ったのです。

 

キム・ソンド女史の孫によると、女史は遺書にこう述べていたという。

将来、性的告発を受けて迫害されるような集団や教会があれば、そこが再臨の地かもしれないので、調べにいきなさい。

ユー夫人の証言に出てくる事件の結果、ムン師が1955年に逮捕されると、聖主教の信者たちは、キム・ソンド女史の遺書はムン師の教会のことを指しているのだと結論し、全員聖主教を捨てて、ムン・ソンミョンの世界基督教統一神霊協会と合流した。