よく政治家と政治屋ということが言われる。
政治家は政治を行う人だが政治屋は政治を生業にする人。生活手段として、生活の手段として政治を行う人、大して違わないようだがちょっと違う。
宗教家と宗教屋がある。
宗教家は宗教を使命として宗教活動している人。宗教屋は宗教をビジネスとして行っている人。
宗教ビジネス別に悪いとは言わないが、本来宗教的本質はビジネスとは無関係だと思う。
宗教団体の看板を掲げ、宗教法人として登録されているのはどちらかと言えば宗教ビジネスの宗教屋が多いかもしれない。
信徒を増やし、様々な形で会費や献金、お布施を集める。
人間生活に宗教的なものは不可欠なので、様々な宗教があっていいし、それがある程度ビジネス化するのはやむを得ないとも思う。
がしかし、ビジネスの中にはまがい物や模造品を売って儲けるものもある。
宗教は目に見えないことを扱うので、まがい物でも気が付きにくい。
本来、宗教は収益事業ではないので税制上も非課税である。(宗教法人でも収益事業部分があればそれには課税される)
収益事業ではないはずなのに収益優先の宗教団体もままある。
何とはなしにご利益があると思うと、みんなお金を出すものである。それが神社のお賽銭程度なら、功徳があるかないかわからなくても誰も文句は言わない。ただしそれがそれぞれの生活を左右するようなものだと問題になる。
家庭連合(旧統一教会)もよく考えたらいいと思う。かつて霊感商法問題で社会的信用を失墜した。その反省の上にあると思うが、よくよく注意しないと同じ過ちを繰り返す。
宗教ビジネスもいいが、その商品に相当する恩恵や功徳がそれ相応のものかよく判断しないといけない。
まがい物はいけない。実態や証拠のないものも論外である。
近年重大な過ちを犯し続けたことを反省しなければ問題である。
従軍慰安婦という実体のなかったことを根拠に解怨なることが行われ続けたがこれが実は命取りになってきている。社会的法律的にはいまだ問題になってはいないようだが、霊的にはすでに問題となっている。
そのことは真のお父様も指摘していたはずである。「訓母のやり方をしていたら滅ぶ!」と・・・
そのことが今現実になっているようである。わかってみたら従軍慰安婦の恨みの霊などなかったことが明らかなのである。訓母がいなくなってもその過ちは消えない。
いまだに清平詣でがある。文鮮明先生の精誠を尽くした地として詣でるのはいいだろう。しかし、何か特別な解怨ができるなどと言って高額献金をもって清平に行くことを勧めるならばそれは偽物販売の詐欺に等しい行為である。必ず問題になる。
要注意、要注意である。すでにこの誤った解怨役事とやらで決定的ダメージを受けているのである。
無償で恩恵を与えるのが本来の宗教家である。宗教屋でも許されるのは正しい商品を提供すればこそなのである。偽物、まがい物、模造品を売っていては必ずその事業は破綻する。
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