摂理的葛藤の“真実”を読み解くために
天宙的葛藤が引き起こされ今もその混乱が続く状況の中で、この問題を解決して為には、あらゆる事実を検証しながらその問題点や原因を明らかにしていかなければなりません。金容成のブログに引用されたお父様のみ言から読み解く“真実”の記事を纏めてくれた雪風さんからさらに事の本質を明らかにしていく記事を送っていただきました。初めに孝進様に関することから始まっています。祝福家庭としては出来れば避けて通りたいこともあるかもしれませんが、明らかな事実を根拠としてこそ真実を明らかにしてくことが出来ることを考えると雪風さんが取り上げるテーマは極めて重要な意味を持つと思われます。これまでの雪風さんの記事に引き続きお読みいただけるようお願いいたします。(HOPE)
孝進氏の事
摂理的葛藤を語るとき、孝進氏を抜きに語れないという思いになってきました。
雪風
孝進氏の妻であった洪蘭淑氏の著書からの引用です。
後継者の指名と育成に失敗したことは、文氏の死後、家庭内で血が流れることを確実にするだけである。息子たちはすでに、彼のビジネス帝国の支配をめぐる闘いにはまりこんでいる。統一教会自体が容易に手に入るようになった時、闘争は激化する一方だろう。
指導者の地位はもちろん自然に長男にいくはずだ。しかし孝進の絶えざるアルコールとドラッグ問題のために、弟たちはすでにその地位に向かって競争を始めている。女性ゆえに父親の跡を継ぐチャンスのない仁進でさえ、孝進の立候補資格を守ろうと必死になっている。彼女ははるか以前に自分の運命を彼と結び付けた。もし彼(孝進氏)が没落すれば、彼女と夫の朴珍成も一緒に没落する。
―わが父文鮮明の正体(洪蘭淑氏著)エピローグより―
想像力をかきたてる文章です。特に仁進氏のことが気になります。この本でも仁進氏がたびたび出てきます。時系列を見ると、孝進氏が聖和してからすぐに亨進氏が総会長になった。孝進氏の聖和が競争の始まりの合図だったのでしょう。この本は、韓国では出版されていないようです。されていれば金容成氏は、この本を参考にしたと思います。
当時の時系列です。洪蘭淑氏が去った後1997年まで離婚裁判が行われた。それが世間に知られるのは時間の問題であり、早急に対策をたてる必要があったはずです。それが清平特別修練会だったような気がします。
1994 5 家庭連合創立 家庭連合以前は宗教時代 以後は超宗教時代 家庭盟誓発表
11 文鮮明師、孝進氏の問題を初めて知る
1995 1清平特別修練会始まる
2月、文国進理事長はセイロ(Saeilo Inc.)を設立し、ワンナップから500万ドルの投資を受け、銃器製作事業(KAHR)を始めた。UCIは、大学を出たばかりで、能力も検証されていない20代半ばの青年に「父とは無関係に」500万ドルも投資した。
8月 洪蘭淑脱出
1996 2.24日本人を対象にした清平修練会始まる
1997 12 通貨危機発生
孝進氏の時系列ですウイキペディアからコピーしましたが、ほとんどが 洪蘭淑氏の本からです。
この本によれば、この時点ですでにお母さまは家庭内の実権を握っていたようです。
1962年12月29日 - 韓国で誕生。リトルエンジェルス芸術学院に入学。ニューヨーク州タリータウンのハックリー校 (Hackley School) に入学。空気銃を学校に持参し、数名の同級生を撃ったことでハックリー校を退学となる。父、文鮮明の側近、朴普煕とバージニア州マクリーン (McLean) で暮す。
この時、サムエル氏と会い、秘密を知ったのかもしれない
1973年12月18日 - 他の兄弟たちとともにアメリカに移住した。
1981年
11月 - 父文鮮明が当時15歳の洪蘭淑を結婚相手に選んだ。
12月 - 単身韓国を訪れ、洪蘭淑に会って婚前交渉した。
1982年
1月7日アメリカで洪蘭淑と結婚し、当初ニューヨークのウエストチェスター郡のアービントン (Irvington) にある文鮮明一族の邸宅(通称イーストガーデン)で、妹、仁進(インジン)の家族らと同居した。父、鮮明の個人的な補佐、ピーター・キムを伴い新婚旅行に出かけ、フロリダ州、ディズニーランド、ラスベガスを訪れた。孝進氏は、別れ話を切り出し、蘭淑との結婚は望まなかったが両親を喜ばせるためだけ結婚したこと、韓国にいるガールフレンドをあきらめるつもりはないことなどを告げ、韓国のソウルへ旅立った。韓国から帰国し「結婚祝いのお金でガールフレンドをアメリカに呼び寄せ、マンハッタンに二人で暮らすアパートを借り、両親にそのガールフレンドと結婚するつもりである」旨を告げた。母、韓鶴子が孝進のガールフレンドと話し合い、手切れ金とカリフォルニア州行きの航空券を渡し、手を打った。孝進氏韓国から帰国。
1983年
3月 - 長女が誕生。
1985年
「大学原理研究会」の世界会長に就任。統一教会/統一協会所有の録音施設、「マンハッタン・センター」(マンハッタン・スタジオ)の製作・経営の責任者となった。
1987年
マンハッタン・スタジオでレコーディングを始めた。
1988年
統一教会の信者の前で、ワシントンに行った後ドラッグ(麻薬)に関わるようになったこと、高校時代、酒を飲んでいたこと、多くの女性とつきあっていたこと、肉体関係を持ち、結婚を考えていた女性がいたこと、父親に対する良心の呵責から自殺を考えていたことなどを告白。
1993年 - コカインを常用するようになった。
1994年
2月 - 父親からマンハッタン・センターのプロジェクト資金として40万ドル(当時のレートで約4千万円)もらった。
11月 - 第5子、次男が誕生した。
1995年
4月 - マンハッタン・センターの社員らが父、鮮明に孝進の復職に抗議する手紙を送った。
8月8日 - 当時の妻の洪蘭淑が5人の子供を連れて文家から脱出。蘭淑からマサチューセッツ検認裁判所に離婚と養育費の支払いを求め提訴された。フロリダ州ウェストパームビーチのヘイゼルトン・クリニック、カリフォルニア州のベティ・フォード・クリニックで麻薬中毒治療を受けた。
10月25日 - マサチューセッツ検認裁判所から毎月養育費を支払うよう命じられた。
11月 - 子供たちとの面会が可能かを確認するために蘭淑が雇ったソーシャルワーカーと面接した。
12月 - 子供たちとの接触禁止命令に背き、子供たちにクリスマスプレゼントを贈った。
1996年
2月 - 子供たちとの面会が可能かを確認するために再びソーシャルワーカーと面接した。
4月 - ソーシャルワーカーから子供たちとの監督付き面会の許可が出た。蘭淑の裁判費用の支払いを求めた裁判所の命令に背いたため、マサチューセッツ州刑務所に収監された。ニューヨークで正式に破産手続きを行い3か月後に釈放された。
1997年
12月 - 裁判所が蘭淑との離婚を認めた。
1998年
9月20日 - 元妻、蘭淑がアメリカのCBSのドキュメンタリーテレビ番組“60 Minutes”で文鮮明一家の偽善性を告発した。
10月13日『タイム』誌に文一族を告発したインタビュー記事が掲載された。『わが父文鮮明の正体』の発売に先立ち、『文藝春秋』11月号で「文鮮明聖家族の仮面を剥ぐ」と題してその一部が掲載された。
11月25日 - 蘭淑の告発手記“In The Shadow of Moon”(『わが父文鮮明の正体』)がアメリカと日本で出版される。
2005年
3月6日-3月29日 - 日本7か所でコンサートツアー「HJ Moon Concert 2005」(主催・真の家庭運動推進協議会)。
2007年
3月24日-4月7日 - 日本5か都市コンサートツアー(福岡大会、高松大会、大阪大会、名古屋大会、関東大会)。
2008年
3月9日午前7時 - アメリカの教団施設(ベルベディア邸)において、「コミットメント(誓約)」と題した説教をした。
3月17日午前9時43分 - 韓国のソウル特別市龍山区漢南洞(ハンナムドン)において心筋梗塞により死亡した。
3月19日 - 約2,100人が参列し韓国・天宙清平修錬苑の天城旺臨宮殿大聖殿で世界昇華式が行われた。
再び洪蘭淑氏の著書からの引用です。
最近、この問題について話すとき、文師は自分が昇天したあと「真のお母様」が統治するだろうと暗示している。韓鶴子が統一教会の舵取りの位置で、象徴的な役割以上のものを果たせるとか、また果たす意志があるとか本気で信じている人は、教会にはいない。
「イーストガーデン」を離れる一か月前、私と文夫人は統一教会の将来について話し合った。私は指揮権を孝進には渡さないように強く主張した。名目上の宗教団体を率いるのに彼ほど不安定な人間を想像することはできない。彼女はいやいやながら認めた。文鮮明は統一教会の指導をほかの息子のひとりに任せなければならないだろう。その可能性が彼女を悲しませるのは分かっていた。最初の子供が女の子だったあと、孝進の誕生は「真のお母様」としての彼女の地位を確実にした。彼女の運命と彼(孝進氏)の運命はひとつに結ばれているように見えた
―わが父文鮮明の正体エピローグより―