かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠158(ネパール)

2015年07月04日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠(2009年7月)【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)93頁 
              参加者:泉可奈、T・S、T・H、渡部慧子、鹿取未放
              レポーター:渡部 慧子
              司会とまとめ:鹿取 未放


158 ゆきゆきて六千メートルに満たざるはただ「山」と呼ぶヒマラヤ連峰

      (レポート)(2009年7月)
 「ゆきゆきて」と初句からはてしない感じをおこさせる。地図と写真で知るのみのヒマラヤ連邦だが、おそれず使われた初句のことばに、さもあらんとうなずかされる。あとは詠われているように「六千メートルに満たざるはただ『山』と呼ぶ」であり、結句「ヒマラヤ連邦」につづく。
 サンスクリット語のヒマラヤはヒマアラヤのちぢまったもので、ヒマは雪、アラヤは蔵するというそれぞれの意味がある。それらをふまえて、ふたたび初句にかえるが、「ゆきゆきて」とは雪また雪とそんなことが思われる。掲出歌を分類する必要はないが、自然詠というのでもなく、言葉への機知が秘められた一首と読みたい。(慧子)

         (まとめ)
 はるかであてどないイメージの「ゆきゆきて」は「伊勢物語」の東下りの段を連想させる。東下りの主人公は「ゆきゆきて」駿河の国、宇津の山に至るが、そこは蔦や楓が生い茂った薄暗い山である。やがて風景が開けて富士の山が見える。その富士の山は「比叡の山を二十ばかり重ね上げたらむほど」と描写されている。その後「なほ行き行きて」すみだ河のほとりに至るという設定である。東下りの主人公にとって、初めて見る富士の山は見慣れていた比叡の山を二十ばかりも重ね上げた感動的な高さにうつった。ところがヒマラヤでは富士山を二つ重ねてやっと名前がもらえる高さとなるのだ。
 なぜならヒマラヤには8,000m級の山が14座、7,000m級の山が100座以上あって、
6,000m以下の山にはいちいち名前など付けていられないのだ。そのことを作者はおもしろがっているのである。ヒマラヤは、レポーターも書いているようにサンスクリット語で「雪の住みか」の意。(鹿取)


馬場あき子の外国詠157(ネパール)

2015年07月03日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠(2009年7月)【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)93頁              
                 参加者:泉可奈、T・S、T・H、渡部慧子、鹿取未放
                 レポーター:渡部 慧子
                 司会とまとめ:鹿取 未放

157 小型機はふと雲を出づ朝の陽に嫣然たりアンナプルナ百語もて立つ

     (レポート)(2009年7月)
 視界のきかない雲の中を小型機は出た。みえない状態から脱出した。事実、それによる心の明るさを序として「朝の陽に嫣然たり」とにっこりほほえんでいる様にあらわれたのは「アンナプルナ百語もて立つ」のアンナプルナであると断言したい。「嫣然たり」は文法上アンナプルナを修飾していないが、ここは理屈ではなく読み手の感性にゆだねたうえでの表現であろう。かりに嫣然たると連体形にしてみると、一首の持つ力が削がれる感がある。
 アンナプルナとはサンスクリット語の豊饒の女神という意味で、「嫣然たり」とは女神にふさわしい笑いではないか。作者には、笑う、ほほえむ、哄笑などとよく詠いこんでいて、その主体は万物に及んでおり、味わい深いものがる。
 さて、アンナプルナは百語もて立つという。百とはたくさんの喩だが、リアリティがあり、また感受されたが表現できないよいものも含まれているようで、意味に豊かな感じがある。作者の心に迫ったアンナプルナの百語とは、どのようだったのだろう。(慧子)


      (まとめ)
 このあたりの飛行機は有視界飛行なので、まあ、何も見えない雲の中には突っ込んでいかないと思うが、うっすらと雲がかかっていた状態から晴れやかな場に出たのであろう。そして突然、朝陽に光り輝いたアンナプルナが目の前に現れた。その美しさ、感動が「嫣然たり」と言わしめたのであろう。「嫣然たり」の後に小休止があると考えればここは終止形でもおかしくない。三百万年の生をもつ美しいアンナプルナが作者に「生」についてさまざまなことを語りかけてきたのだろう。(鹿取)


馬場あき子の外国詠156(ネパール)

2015年07月02日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子の外国詠(2009年7月)【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)93頁
               参加者:泉可奈、T・S、T・H、渡部慧子、鹿取未放
               レポーター:渡部 慧子   
               司会とまとめ:鹿取 未放

 
156 生を継ぎはじめて長き人間の時間を思ふヒマラヤに居て

     (レポート)(2009年7月)
 人間をとらえ考える様々な角度、たとえば思想、芸術、宗教、民族などから離れて「生を継ぎはじめて長き人間の時間」と、命また種の継承としての人間の長い時間を散文風に詠い起こしているのであろう。個々の命にそくしていえば、そのはかなさは通念となっているが、各々その生の時間である人類としての時間、およそ二百万年を把握不能ではあろうが、茫然と「思ふ」のであろう。
これは旅の心用意に、海底隆起によるヒマラヤの成り立ちがおよそ三百万年という知識を得たうえでの「思ふ」であろうと、結句から想像する。
 その「ヒマラヤに居て」とは平易で無造作にみえるが、しみじみとして、言い難い感慨があり、場としての力が、一首全体を底支えしている。(慧子)
 
                                     
   (まとめ)
 銀座のおしゃれなお店をあさり歩いていたのでは「人間の時間」は思えない。三百万年という気の遠くなるような時間を経た崇高な山にふれて初めて、人間の歩んできた長い長い時間を思うのである。この歌を読むと、誰の一期か迷った昨日の152番歌は作者の一期だったことが分かる。というよりも作者も含めた人間の一期であり、人類の時間に考えが及んでいたのだ。(鹿取)
                                     

馬場あき子の外国詠155(ネパール)

2015年07月01日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の外国詠(2009年7月)【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)92頁   
            参加者:泉可奈、T・S、T・H、渡部慧子、鹿取未放
            レポーター:渡部 慧子
            司会とまとめ:鹿取 未放

 *「カナジーの物見遊山」というサイトで、近頃、ヒマラヤの山々の写真を見ています。同じ山
  でも時刻や場所を変えて撮影されていて、すばらしい写真です。マチャプチャレ、ニルギリ、
  ダウラギリ、アンナプルナなどの他にもネパールの有名な山々が満載です。詳しいデータや旅
  行記も付いていて現地に行った気分にさせてくれます。またネパール以外にも世界各国の山々
  や文化遺産が載っていてすばらしいサイトです。皆さまもよかったら一度覗いてみてください。
      http://cannergy.la.coocan.jp/theme/mt/mt3.html#Machapuchare
                                     

155 マチャプチャレ鯱鉾のやうに空に跳ね一期を問へば空哄笑す

       (レポート)(2009年7月)
 マチャプチャレとはネパール語で魚の尾という意味。そのマチャプチャレが「鯱鉾のやうに空に跳ね」のとおり、今、跳ねているので、そこをとらえ作者はこころみにもの申してみた。「一期を問へば」のである。小さな存在の果敢な問いを「空哄笑す」というように、空が呵々と笑ったというのである。マチャプチャレと作者の問答は成立せず、ただ無辺の空に包まれていたのだ。
 魚好きでその名の漢字表記に興を得ていよう。以下2首は、馬場あき子の「魚」の漢字を使った歌。
   秋の日の水族館の幽明に悪党のごとき鰧を愛す
   海驢(あしか)棲みし洞窟二百メートルの暗黒に入る入りて声なし
                                    (慧子)

     (意見)(2009年7月)
★そんな人間の小さな一生なんて俺の知ったことかよと、空が大笑いした。(T・H)


       (まとめ)(2009年7月)
 誰が誰に聞いたのだろう。関連するが誰の一生なのだろう。一応、次のような場合が考えられる。(何か、入試問題のようだが、4択です)

 ①マチャプチャレが、自分の一生について空に尋ねた。
 ②作者が、自分の一生について空に尋ねた。
 ③作者が、自分の一生についてマチャプチャレに尋ねた。
 ④作者が、マチャプチャレの一生について、空に尋ねた。

①と考える理由は、直前の「空に跳ね」の部分の主語がマチャプチャレだからだが、悠然と空に  跳ねるマチャプチャレが自分の一生について空に尋ねるなどということはしないだろうから×。
②は、T・Hさんの意見を反映している。とても魅力的な意見で、かなり加担したい気分だ。
③は、①同様マチャプチャレの行為を受けて続く部分だからだが、マチャプチャレに尋ねたのに空 が哄笑したのは、やや繋がりが悪い。もちろん、空が問答を耳に挟んだという解釈も捨てがたい が。レポーターは、そういうつもりで書かれているのだろう。
④は、①に似ているが、悠然と空に跳ねるマチャプチャレが自分の一生を思い悩むこともなさそう だ。154番歌で「雄々しきマチャプチャレ」「われを閲せり」と讃えている作者が、そのよう な設定はしないだろうから、×。
 そんな訳で、参加者の意見は分裂し、結論は出せなかった。私自身の意見は②と③の折衷案。つまり雄々しく悠然と空に跳ねるマチャプチャレに、「あなたのように悠久な山と比べて私の一生はなんなんだろうね」とふっとつぶやきが漏れてしまったら、耳ざとい空がそれを聞いて大笑いした。まさに「人間の小さな一生なんて俺の知ったことかよ」というわけである。この解釈の難点は、つぶやきというには「問えば」の語が強い点である。(鹿取)