馬場あき子の外国詠8(2008年5月)
【西班牙 Ⅰモスクワ空港へ】『青い夜のことば』(1999年刊)P51
参加者:N・I、M・S、H・S、T・S、藤本満須子、T・H、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:H・S
まとめ:鹿取未放
◆ものを書くことや鑑賞に不慣れな会員がレポーターをつとめています。不備が多々ありますが
ご容赦ください。
71 歌は癒しおもしろうしていつしかに見えずなりたる心の癒し
(レポート)
歌には人の心を癒す力があるのかもしれない。だが興に乗りすぎると表層的になりがちな面も持つ。また繰り返し耳にすると色あせた響きとなって聞こえてくることも多々ある。癒す力も弱まる。作者の思いはそこにあるのであろうか。今、何かと安易に使われているように思える癒しという言葉。人の心を癒す。何と難しいことか。慣れから来る恐さの一面を表現しているのであろうか。目には見えないものに深く心を傾ける大切さに気づかされる。(H・S)
(当日発言)
★レポーターの「繰り返し耳にすると色あせた響きとなって聞こえてくる」って、もしかして「歌」
を歌謡曲など唱う歌として解釈されたかしら?当然「短歌」がテーマでしょう。(鹿取)
(まとめ)
「歌は癒しだ」などと巷では軽々しく言われたりしているが、ほんとうにそうかなあ、癒しなんかじゃないんじゃないの、という意味か。70番歌(肥えて思ふエステ日本やさしけれ精神はかすか無に近づくを)とセットになった歌だろう。「おもしろうしていつしかに見えずなりたる」だからある時期までは癒しであったというのか。私自身は「癒し」という言葉自体に何か不信感をもっているので、どうもこの歌の真意がよく見えてこない。今後の課題としたい。(鹿取)
(後日意見)(2015年10月)
癒しを肯定的に捉えている。想起されるのは芭蕉の「おもしろうて やがてかなしき 鵜舟哉」という句である。にぎやかに、かがり火を焚いて行われる鵜飼は興が尽きないものであるが、やがて闇の彼方にかがり火とともに舟が消え去ると、いいしれぬもの悲しさ、空虚さにとらわれのである。時間の経過に沿って移ろいゆき、失われるものの、かなしさという点では似かようものがある。
東日本大震災の際、歌を詠むことによって、悲痛な体験した人は癒された、という話がある、
素朴で臨場感あふれる歌は、読者の気持ちを惹きつけ、感動を呼ぶのである。歌作は癒し、と一口に括ることはできないが、少なくとも短歌という定型様式は癒しの要素が多い表現媒体である。
見えなくなったのは、このような「心の癒し」ではないだろうか、歌を作ることは興の尽きないことであるが、表現者として作品を昇華させてゆく過程で、「心の癒し」はゆるやかに、失われていくのである。癒しが見えなくなってしまうのは、歌人としての宿命だと、捉えておられるのではないだろうか。(S・I)