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ダンスとか。

手塚夏子 『人間ラジオ』

2007-08-01 | ダンスとか
ダンスがみたい!9。
神楽坂die pratze。
主に腰から下に鳴り物をたくさん付けたスズキクリが下手側、手塚夏子が上手側の奥に立ち、同時に黒い紙にドローイングをした後、ゆっくり手前に歩いて来る。その緩慢な前進後退がしばらく続くのだが、スズキクリの体から漏れてくる音の「純度」のようなものがまず凄い。単に「ゆっくり歩く」のではなく、様々な楽器が「チャリッ」とか「カラン」とかいった音をなるべく立てないようにソロソロと歩いているように思えた。鳴らさないようにすることによって鳴らす、という迂回路を経るから、音が漉されて「純度」を高める。この場合の純度とは何かといえば、音がいかに恣意的な決定から遠いところで生まれるかということだろう。音を出すことの作為を緻密化したり(技巧を高める)、あるいは作為性を低めて自然に近付けたりする(技巧を捨てる)のではなく、いっそ音を抑えるという方向で作為を緻密化すれば、身体操作の肌理の細かさがそのままひっくり返って「自然音」を生み出す結果になる。事故を意図的に作り出せる。何て素晴らしいアイディアなのだろう。そしてどうもこれは、手塚夏子が「体の一部に神経を集中すると他の部分が動き出す」という原理をわかりやすく図解しているようでもある。スズキクリの身体と楽器のように、手塚の身体の中で諸部分が互いに分離していれば、ある部分を抑えることで別のどこかから動きが漏れることになる。もちろん実際にはどこからどこまでが「漏れた」動きなのか、音の場合ほど明確ではないとしても、極端な緊張が絶え間なく弾けたりヌケたりすることで生まれる奇妙なリズム自体が手塚のダンスになっていた。とりわけ中盤の即興では、パントマイム的な部位の分離が活用されつつ、緊張とその暴発があちこちに乱反射して、体が破裂してしまいそうに見えた。しかも顔の動きや声も加わって来るから、人間的な意味内容をつい読んでしまい、次々に現われる表情や身振りが何かの感情を示しているように錯覚するのだが、全く安定も一貫もしないで逃げて行く。「人」以前の、これから「人」になっていくかも知れないし他の何かになっていくかも知れないような「体」がビシビシ暴れる…。これに比べると、その後でリズムボックスで踊るところなどは、さらに真っ当なダンスの手法を踏襲しているようでいて、むしろ偶数で組み立てられたリズムの枠の窮屈さの方が際立ってしまった気がするが、終盤では、ヘンな表情のついたバレエっぽいフォルムで振付が作られ、変形しながら繰り返された。ここではまた、形を固めることと、形が固まらないこととが、先の即興とは違う形でせめぎ合っているように見え、外形は成人なのに実質的には幼児のようだった。方法論で攻めているのに全然コンセプチュアルに終わっていないのが凄いし、体をディープに追いかけているのに理論化を放棄していないのが凄いともいえる。
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