dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

トヨタコレオグラフィーアワード・ガラ

2007-08-04 | ダンスとか
三軒茶屋・シアタートラム。
▼黒田育世 『SIDE B』
出演/BATIK(植木美奈子、大江麻美子、清家悠圭、田中美沙子、土井唯起子、矢嶋久美子)
幕が落ちる前のドタバタのコケ方が実に壮絶で、思わずWSの参加者が踊っているのだろうと勘違いしてしまった(それはもう一つの方の作品だった)。伊藤キム系の、コケる形をやって見せる感じではなくて、本当に床に対して平行に近く体を叩き付けていっていて、かなり音が出ていた。こういうのを「瑞々しい」踊りっぷりというのだろうか、などと思っていたら、ラスト近くでダンサーの顔が見えて、初期からのメンバーも入っていた。そういう稽古が行われているということなのだろう(反面、ユニゾンでフォルムを踊ったりするところなどはいかにも粗く見えてしまうのだけれども)。中盤の黒田ソロの部分は、今回踊ったダンサーの名前がわからないが、改めて黒田の踊りの凄さを思った。
▼砂連尾理+寺田みさこ 『あしたはきっと晴れるでしょ』
出演/小西建太朗、横谷理香
外見的には確かに小西建太朗は砂連尾理に似ているし、横谷理香は寺田みさこに似ているのだが、二人とも動きのニュアンスに幅がなさ過ぎて(特に脱力系が全くない)、作品の流れが見えてこなかった。この作品は、構造は形式的なのだけれども、演劇の要素が裏で支えていて、とりわけそれがキャラクター演技だったりするので、いわゆるダンサーではなかなかフォローし切れないのだろう。二人の動きの間のつながりが弱いし、物語的な関係もあまりイメージできなかった。上演後のトークで寺田みさこが「二人でしか出せないもの」「この瞬間のすれ違う感じを感じて」というところを稽古終盤でやったと言っていて面白かったのだが、そういう技術的な解決以前に、砂連尾と寺田が自分たちで意識せずにやっていてそれゆえ伝達しづらい部分が案外大きいのではないかとも思った(振付家=ダンサーの自己分析が足りていないのではないかということ)。だから、例えば演劇系で、しかも全然二人に似ていないタイプの人が、二人に振付けられるのではなく、二人を外から見て真似するという形で解釈して踊ったらどうなるのかも見てみたい気がした。
▼黒田育世 『モニカモニカ ~6 butterflies~』
出演/後山阿南、烏山茜、菊沢将憲、高山力造、畠山勇樹、蓑輪壮平
福岡のWSメンバーに振り付けられたもの。中央奥に松本じろがいて、他にもダンサーも楽器を演奏する場面がある。「10日間の悪戦苦闘で無理矢理形にした」と当パンに書いてある通り、作品というより発表会の水準。何といっても気になってしまうのは、一体誰がこれを望んだのかなあということで、トークで黒田が「WSはあまり好きじゃない」と言っていたように、トヨタアワードを各地に巡回させようという業界的な動機が先行していて、振付家もそれを断らなかった(断れなかった)のだとしか思えない。何より気になるのは、振付家>WS参加者、東京(中央)>福岡(地方)、業界(制度)>振付家、などといった様々なヒエラルキーが重層化しつつ「公共善」とか「善意」の装いのもとに隠蔽されているように思えること。柔らかい植民地主義とヌルい自己実現の憂鬱な調和。
▼山崎広太 『イルカ狂』
テラテラと光るスーツに極限までチープなサングラスをかけて、下手の椅子に座ってタバコをふかし、おもむろに「…そうね!」と口走って立ち上がる、それだけでウケた。開始後ものの一、二分で観客の中に「油断」とそれへの「警戒」の二重意識が作り出され、「危険人物」との遊戯めいた関係の中に引きずり込まれる。以後しばらくは、多種多様な動きや意味不明な言葉を支離滅裂に繰り出すデタラメな踊り。当パンに「イルカの中にたくさんの周波が到来し、回路が崩壊し、狂い始め、また正気に戻る。そんなイメージ」と書かれていて、先日の手塚夏子の『人間ラジオ』を思い出した。多重人格、あるいは分裂症としてのダンス。山崎の方が語彙自体は豊富なので、動きが速い速度で安定していて、自分の意識の一歩先で動きをポキンと折り、未来から現在を裏切るような感じなのだが、しかし長く続くと語彙の幅の広がりが均質に思えてきて、自由自在な動きに意外性を感じなくなり、「あいおい損保」とか「風呂風呂風呂風呂に入りたい」とかいった「面白いセリフ」が飛び出してくるのを待つ感じになってしまう(セリフは二日とも同じだったらしい。こんなワケわからないことがきっちり仕込まれているのかと驚く)。だから後半で時々音楽がかかると、セリフが発せられない、あるいは聞こえないので、何となくガッカリしてしまうのは、ダンスとしてはちょっと妙な具合だった。中盤では、中央にスポットがあたって音楽がかかり、光の外で動かずに佇むシーンが挿入され、その静止の大胆な長さもまた人を食った計算を感じるのだが、全体で約30分もたせるにはもうちょっと何か欲しい気がした。
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ザ・カンパニー 『ナーガ・マンダラ』

2007-08-04 | ダンスとか
The Company, Naga-mandala.
新宿・SPACE107。
02年の来日公演『キッチン・カタ』が評判になっていたので、見てみた。演出はニーラム・マンシン・チャウドゥリー(Neelam Mansingh Chowdhury)、原作はギリーシュ・カルナード(Girish Karnad)。インドのパンジャブ州(北西部、パキスタンに面した地域)の伝統演劇を「モダン化」しているとのことだが、どこがどのように既存の伝統演劇と違っているのかがわからないので、何ともいいようがない。音楽と歌の伴奏が舞台上手で行われ、役者の動きにもたまにダンス的なものが使われる他は、普通の演劇に思えた。最も目につく特色として、一つの役を二人で演じているのか、それとも別々の存在なのかが曖昧にされていたりするのだが、こういう仕掛けが何らかのポストモダン的な意匠なのかどうかさえ、伝統演劇を知らなければわからない(ことさら何かモダンなものから区別して「伝統演劇」なるものをいう時、えてして保守的で明快なものが想定されがちだが、案外モダンな芸術家以上に自由で、トリッキーで、非合理的で、アイロニーに富んでいたり、メタ演劇的だったりする)。劇そのものは、もう少し字幕の情報量があったら筋を追うのに必死にならずに済んだかなあと思う。意味をおおまかに了解するだけで精一杯。

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手塚夏子 『人間ラジオ』

2007-08-01 | ダンスとか
ダンスがみたい!9。
神楽坂die pratze。
主に腰から下に鳴り物をたくさん付けたスズキクリが下手側、手塚夏子が上手側の奥に立ち、同時に黒い紙にドローイングをした後、ゆっくり手前に歩いて来る。その緩慢な前進後退がしばらく続くのだが、スズキクリの体から漏れてくる音の「純度」のようなものがまず凄い。単に「ゆっくり歩く」のではなく、様々な楽器が「チャリッ」とか「カラン」とかいった音をなるべく立てないようにソロソロと歩いているように思えた。鳴らさないようにすることによって鳴らす、という迂回路を経るから、音が漉されて「純度」を高める。この場合の純度とは何かといえば、音がいかに恣意的な決定から遠いところで生まれるかということだろう。音を出すことの作為を緻密化したり(技巧を高める)、あるいは作為性を低めて自然に近付けたりする(技巧を捨てる)のではなく、いっそ音を抑えるという方向で作為を緻密化すれば、身体操作の肌理の細かさがそのままひっくり返って「自然音」を生み出す結果になる。事故を意図的に作り出せる。何て素晴らしいアイディアなのだろう。そしてどうもこれは、手塚夏子が「体の一部に神経を集中すると他の部分が動き出す」という原理をわかりやすく図解しているようでもある。スズキクリの身体と楽器のように、手塚の身体の中で諸部分が互いに分離していれば、ある部分を抑えることで別のどこかから動きが漏れることになる。もちろん実際にはどこからどこまでが「漏れた」動きなのか、音の場合ほど明確ではないとしても、極端な緊張が絶え間なく弾けたりヌケたりすることで生まれる奇妙なリズム自体が手塚のダンスになっていた。とりわけ中盤の即興では、パントマイム的な部位の分離が活用されつつ、緊張とその暴発があちこちに乱反射して、体が破裂してしまいそうに見えた。しかも顔の動きや声も加わって来るから、人間的な意味内容をつい読んでしまい、次々に現われる表情や身振りが何かの感情を示しているように錯覚するのだが、全く安定も一貫もしないで逃げて行く。「人」以前の、これから「人」になっていくかも知れないし他の何かになっていくかも知れないような「体」がビシビシ暴れる…。これに比べると、その後でリズムボックスで踊るところなどは、さらに真っ当なダンスの手法を踏襲しているようでいて、むしろ偶数で組み立てられたリズムの枠の窮屈さの方が際立ってしまった気がするが、終盤では、ヘンな表情のついたバレエっぽいフォルムで振付が作られ、変形しながら繰り返された。ここではまた、形を固めることと、形が固まらないこととが、先の即興とは違う形でせめぎ合っているように見え、外形は成人なのに実質的には幼児のようだった。方法論で攻めているのに全然コンセプチュアルに終わっていないのが凄いし、体をディープに追いかけているのに理論化を放棄していないのが凄いともいえる。
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