名古屋市営地下鉄伏見駅から北へ徒歩約5分。
コスモタイガーは今、名古屋市中区のオフィス街の真っ只中、「日銀前」と称する大きな交差点の4辺を囲む歩道橋の上に立っている。
歩道橋の下、南北に通るのは、名古屋市民的には「伏見通」。
国道としては19号と22号の重複区間で、その起点は、美濃路編1にも登場した、熱田神宮南の交差点。
そう、ここまでの国道19号(22号)は、まさに旧美濃路のリメイク版。
「日銀前」は現代の追分ともいえる場所で、ここまで重複してきた2つの国道だけど、22号はそのまま直進(北上)、19号は右折して東へと向かう。
22号はそのまま旧美濃路を意識しつつ、一宮市・岐阜市へと向かう。
19号は、名古屋市民的には「桜通」となり、中山道で聞きなれた恵那・中津川を経由し、木曽の山中へと向かうけれど、途中の瑞浪までは、旧下街道を踏襲する経路となっている。
さて、なぜこんなところに居るのかって?
そう、新しい街道runを始めるのさ。
その名も「上街道」。
別名を木曽街道。
はい、上街道の自己紹介?ね。
中山道の脇往還と位置づけられ、名古屋市東区の「東片端(ひがしかたは)」の西側を起点とし、中山道大田宿を結ぶ、約40km(10里)の道のりだ。
中山道は名古屋を通らない。
そのため、中山道と名古屋を結ぼうと、尾張藩が独自に整備した主要道で、いわば「藩道」ということになる。
藩道とはいえ、こんな事情から、尾張藩にとってはきわめて重要な街道であったため、五街道に準じた扱いを受け、宿場も3ヶ所設けられた。(小牧・善師野・土田)
上街道の正確な起点は、地下鉄なら桜通線久屋大通駅と高岳駅の中間辺りになるのかな?
ビルや飲食店に囲まれた、平凡な十字路らしい。
他の街道との繋がりも少なく、いかにも唐突感があり、そこをスタートとするのはちょっと中途半端な感もある。
繋がりを重視し、ここ「日銀前」をスタートにしようと思ったのさ。
まぁ、たかだか?40kmだし。
大半は濃尾平野の中を走るだけ。
中山道を走り終えた身としては、随分と気軽な旧街道runなのだ。
それでいて、中山道の残り香も楽しめるという。
歩道橋といっても、ビル街の真ん中でたいして景色なんか良くないし、職場にも近いため、感慨なんか全くないけれど、一応トレーニングのスタート地点ということで敬意を表し、シャメだけ撮影し、南下。(冒頭写真)
すでに時計はお昼が近い。
すぐの道を左折。
あ、これは旧美濃路ね。(旧美濃路編2参照)
以前とは逆走だけどね。
名古屋宿札の辻到着。
美濃路は右折して南進。
直線は飯田街道だ。(気になる古道⑨参照)
そしてここを左折。
美濃路編の時は、目の前にコンビニがあった気もするけれど、今はない。
ちなみに左折したこの道は、現在では本町通。
かつての下街道だ。
美濃路名古屋宿札の辻と中山道槙ヶ根追分を結ぶ、幕府ご禁制の道であった。
「下街道」と、いかにもネガティブな名前がそれを示している。(旧中山道編13参照)
そして下街道とは、ここから短いお付き合い。
「錦三(キンサン)と呼ばれる繁華街の中を北上。
昼間は結構静かなんだよね。
さっき歩道橋の上から見た桜通をそのまま直進し、しばらくすると右手に「中日病院」。
左前方には「アイリス愛知」
洒落た感じの宿泊施設だ。
この交差点で下街道は右折。
交差点の南東、中日病院側には道標が建っている。
この東西に走る道には「京町通」の別称が付いている。
そして名古屋名物?100m道路の1つ、久屋大通を渡って、そのまままっすぐに進む。
すぐの十字路。ここが追分で、下街道は直進、左折が上街道。
そう、ここが上街道の正真正銘の起点なので。
さあ、もう一度気合を入れ直して、いざ、上街道!
通称外堀通を横断。
右手の大正ロマン風の建築物は、市政資料館ね。
戦前の名古屋地方裁判所で、現在は重要文化財にも指定され、名前の通りの資料館としても保存されている。
名古屋の真ん中にも、こんな立派な文化財が残っているのだ。
再び広い幹線道路に出た。
「出来町通」ね。
ここで右折し、しばし、出来町通を東へと走る。
他所から名古屋に来た人にとっては見慣れない光景が・・・。
何と!道路の中央部分に2本のバスレーンがある。
名古屋市民には当たり前の、名古屋・栄~引山(名東区)を結ぶ基幹バスやね。
正確には基幹バス新出来町線といい、名古屋市交通局と名鉄バスが共同で運行している。
路線バスの急行バージョン!
主要バス停のみの停車で、しかも道路中央に設けられた専用レーンを走るという、1985(昭和60)年発足当時は画期的(というより奇抜?)なシステムだった。
市営の方は、大半が引山終点で、一部は支線のような形で、途中から別方面に向かう。
名鉄バスは、引山から先も、普通の路線バスとして、尾張旭・瀬戸市内へと延びている。
いずれにせよ、「専用レーン」の範囲内は共同運行で、統一料金(200円:はい、だから2011年ね!)のため、本数も多く、しかもお値打ちな、すこぶる便利な市民の足となっている。
路線バスは道路の左端、いわゆる「走行車線」を走るものという先入観があるからね。
道路の中央部を堂々とバスが走り抜ける風景は、路面電車がそのままバスになったような感じで、その上「急行」だから、路面電車とは比べ物にならないほどスピード感もあり、知らない人が初めて見たら、少なからず違和感を感じるに違いない。
「清水口」の交差点に出た。
この辺りの地名は、古くから「清水」。
だから名古屋城の清水側の入口、という意味なのさ。
逆に言えば、ここまでが名古屋城の正式な敷地だったってことだね。
名古屋城には5つの「口」があったとされている。
清水口、大曽根口、駿河口、枇杷島口、熱田口。
いずれも名前を聞けば、名古屋城のどちら側から入るのか、地元人なら見当がつく。
そして、いかに名古屋城が巨大で堅固な城であったかも想像できる。
残念ながら現在、地名として残るのは「清水口」だけなのだ。
この交差点で左折(北上)。
もっともそのまま道なりに進めば、いわゆる空港線、国道41号だけど、そのすぐ左側に忘れられたような小道がある。
空港線に面したファミレスの裏を行く道だ。
これが上街道の名残。
清滝寺と、その系列であろう清滝保育園が隣り合ってるから、ますます街道の確信が持てる。
すぐに行き止まり、と思うなかれ。
地図を見ると、空港線の反対車線から右斜めに延びる道がある。
間違いない!
でも戻る術がなく、仕方なくもう一度清水口の交差点まで戻り、今度は反対車線を走って右へ分岐。
300mも走れば、名鉄瀬戸線清水駅(高架駅)の下に出る。
普段何気なく通っているところも、実は由緒ある古道だったりする。
とくにこの上街道は、名古屋市東区という中心街にに奇跡的に残る旧街道で、その気になって眺めてみれば、街道らしき「うねり」をそこかしこに残している。
300mほど道なりに。
小さな信号のある交差点に出る。
左右両側には、市バスの停留所、「清水2丁目」。
ここから右へ約100m寄り道。
「天長山久国(きゅうこく)寺」。
慶長年間に送検された名刹だけど、それよりも岡本太郎製作の梵鐘、ということで有名だ。
すぐに引き返し、再び北上すること、約100m。
右手後方からの生活道路と合流する地点に、小さな芝生園。
というより花壇?
ここに「稲置街道」の石柱が建てられている。
稲置街道は、犬山へ向かう街道のはずだけど…。
実は上街道、途中の楽田追分までは、稲置街道との重複区間。
よってここは、稲置街道と表示されても間違いではない。
ここを過ぎれば、上街道は北へまっすぐ伸びている。
両側は普通の住宅街で、リサーチしてなければ、ここが旧街道とは気付かない。
左に大きなパチンコ屋が見えてきて、緩い坂を上がると橋になっていて、「堀川」を渡る。
この辺では「黒川」と称されることも多く、そのまま地名にもなっている。
明治初期に、黒川治愿(はるよし)技師によって整備されたことで、今もこう呼ばれているんだね。
街道は間違いなくこのまま直進であることは目視でわかるけど、目の前の幹線道路(県道102)の中央分離帯に遮られ、横断不可。
右手の「志賀橋」の変則交差点に迂回するしかない。
たった30mぐらいで、また次の幹線道路。
これは環状線で、ここでは志賀本通の名が付いているけれど、これまた同じく横断不可。
馬鹿馬鹿しいけど、また「志賀橋」に迂回して、2回目の横断。
ここから北区に入った。
そしてまた、街道に復帰し、そのまま北を目指す。
200mほどで立派なお寺に遭遇。
「安栄寺」。
境内には、室町末期の六地蔵が安置されているとかで、名古屋市指定の文化財になっている。
その手前には「児子社」という神社が隣り合わせで控えており、この一角だけが別世界のようだ。
残念ながら、すぐ先の「志賀町2」の信号で、上街道は消失。
むしろここまで残ってたことの方が奇跡なきがしないでもない。
しばらくは団地の多い住宅街を走りぬけ、左に「東志賀小学校」を目印に、すぐ右折。
すると50mほど左に分岐する、くねった道が…。
ここから旧街道が復活ってことね。
かつてお隣の西区民だったので、当時はこの辺りも生活圏&マイランニングコース。
土地勘も少なからずあるけどね。
相変わらず団地が多いなぁ、という仮想を持ちながら走る。
ややがて大きな病院風の建物。
というより、昨年(2010年ね!)までここに「名古屋市立城北病院」があった。
個人的にも思い入れのある病院だったけど。
現在は、北区の別の場所へと移転し、「西部医療センター」として再出発している。
(※2016年現在、城北病院跡地は、大きな更地になっているようです)
ずいぶんとこじんまりとした「お福稲荷」の存在に街道であることを確認し、そのまま直進。
見えてきた学校風の建物は、県立名古屋高等技術専門学校。
もっと進んで、大きな堤防に遮られて行き止まり。
その左手にあるのが「成願寺」。
この辺りの町名にもなっている、歴史あるお寺のようだけど、建物は随分と新しい。
ここで旧街道はいったん途絶える。
堤防沿いに右へ走ること約100m。
堤防に駆け上がる階段があり、それを登ると目の前に人道橋。
2つの河川を一気に渡る。
手前が支流の矢田川で、次が本流の庄内川。
渡り終わったら、右。
堤防道路を走り、約200mで、下の道へ駆け下りる。
「専光寺」。
残念ながら道筋は残ってないけれど、恐らくこの寺が、街道の名残かな?
すぐ右折。
約300m先を左折なんだけど、何も目印なし。
しいて言うなら、アパートが角にあること。
どうせ何も残ってないんだから、もう少し堤防道路を走り、次の階段を下りた方が良かったのかもしれない。
でも無事リサーチ通りに走ると、すぐに街道らしさが復活。
車1台がやっとの狭い道がくねくねと続く。
その先、これまた小さなT字路で、上街道はここを右折らしい。
道の右手に小さな公園があり、その奥は「護国院」なるお寺、というシチュエーションになったら正解だ。
200m先、T字路で突き当たり。
今度は左折。
ある程度は「カン」もあるけれど、何とか迷わず、現代の難所をクリアー。
そしてまた、街道の面影残す、狭路をくねくねと走る。
新地蔵川という水路のような小川を過ぎる。
春日井市に入った。
そのまま進むとしばらくしてまたしてもポツンと行き止まり。
変則5叉路になっている。
仕方ないから右折して「中新町」の信号に出る。
目の前は県道102号。
寄り道していこう。
そのまま県道を渡り、約200m。
小山のようなものが見え、周囲が公園として整備されている。
「二子山古墳」。
相撲部屋を連想するような名前だけど、れっきとした前方後円墳で、歴史的価値は高い。
1967(昭和42)には、この古墳に自衛隊機が墜落。
一部が破損したほか、その復旧に際し、周囲の堀の水がなくなってしまった、などという、何とも罪な話も残ってたりする。
さぁ、旧街道に復帰。
「中新町」に戻る。
ここからは県道runで北上。
左手に大垣共立銀行。
地図で確認する限り、先ほど途絶えた旧街道は、恐らくこの辺りに出たんだろうね。
世間はお盆。
そんな中、炎天下の県道を走る人はそんなにいない。
でも当分はこの県道runが続くことを知っているから、テンション落ち気味。
その上、残念なことにこれといった見どころもない。
ただ、この道が上街道だから走っている。
それだけのことだ。
国道302号を横断。
上を走るのは、ある意味、マニアには好まれるであろう「東海交通事業城北線」で、左側にはその味美(あじよし)駅がある。
併走する高架は、名古屋第2環状自動車道。
「西本町1」の交差点。
資料によれば、この辺りに一里塚があったらしいけれど、コスモタイガーは厚さが気になり、素通り。
右に折れ、少し進んだところにこじんまりとしたロータリーと駅舎。
こちらは明哲小牧線の味美駅。
おっとっと、また無駄な?寄り道しちゃったよ。
再び県道に戻り、北上。
もう、旧街道としては本当に見るべきものはなく、トレーニングと割り切って、炎天下の県道=上街道run。
左側、少し離れたところに馬鹿でかい敷地を要する建物が見える。
小牧空港やね。
兼営名古屋空港、というべきかな。
セントレア(中部国際空港)が開港したのが2007年。
それまではここが「名古屋空港」と呼ばれ、文字通り名古屋市及び東海地区の空の玄関口だった。(旧岩倉街道編1参照)
現在は、一部の国内線のみが就航する、地味な空港となった。
敷地内にある、映画館併設のショッピングセンターの方が集客力が高かったりする。
単調だなぁ。
暑い!
そんなに走ったとは思えないけど、やたらに疲れた。
空港に沿う形で県道、もとい、上街道を走る。
春日井町の交差点。
右に入ると、名鉄の春日井駅。
春日井駅というと、中央本線の駅を真っ先に連想してしまう。
この名鉄駅とは、6km近く離れており、同一名の駅としては珍しい。
あちらは「春日井市」の玄関口。
こちらは春日井市「春日井町」にあるから春日井駅。
コンセプトが違うってことなんだね。
ここから県道の番号が102、に変わるけど、まっすぐ進むことに変わりはない。
左手にやっと街道らしき古いお寺が目に入った。
「正念寺」。
ここに芭蕉の句碑も建てられ、解説板も設置されている。
かつてここを芭蕉さん一行が通り、近くの農家に一泊したということだ。
再び県道run。
左は空港、右は工場がいくつか並んでいる。
やがて行政区域は小牧市へ。
「春日寺」の信号を過ぎ、右側に郵便局、が目印。
200mほど走ると、左側は自衛隊小牧基地の入場門。
そう、県営名古屋空港は、自衛隊小牧基地と併用なのだ。
右手には、少し奥まった感じで、さっきの交差点の名前の通り、「春日寺」がある。
資料的には、また実際現地に来た感覚的にも、この少し手前から旧街道は右にカーブし、春日寺の前を通っていたんだろうね。
現在は跡形もない。
仕方ないから、基地入場門前で右折。
春日寺の前を通り、行止まりを左折。
名鉄小牧線「牛山」駅の前に出た。
いかにも都市近郊の郊外駅、という感じで、ところどころに田畑も見られる。
暑い!
まだ15時前だけど、喉も渇いたし、今日はここで終了!
トレーニングとしては短めで、約15kmぐらいかな?
でも近いからまぁいいや。
帰りも中山道を思えば、物足りないぐらい、簡単。
小牧線で終点の「上飯田」まで。
といっても電車はそのまま、名古屋市営地下鉄上飯田専「平安通」まで相互乗り入れ。
上飯田線。
開業は2003年3月と比較的新しく、上飯田~平安通間のわずか1駅、0.8km。
乗車時間約2分。
全国で最も営業キロの短い地下鉄路線として知られる。
乗入車両は、名鉄の300系。
おかげでロングシートが当たり前の地下鉄で、一部転換クロスシートに座れるという、とっても得した気分になれる路線なのだ。
もっともそんなことを気にしているのは一部のマニアだけで、大半は普通に通勤通学等で利用しているだけなんだろうけど。
でもコスモタイガーの知人にもいたけれど、この0.8kmを、毎日てくてくと歩いて通勤通学する人たちも少なからずいたわけで、2003年開業は、遅すぎた感がある。
平安通に着いた。
さぁ、ここで遠足気分は終了。
あとは地下鉄を乗り継いでいくだけ。
このまま帰るのももったいない。
嫁は仕事だし、途中で夕食のネタでも買って帰ろうかな。
山の辺の道、ですよね。
これも大阪勤務の間に、ぜひ走ってみたい古道の1つです。
そして、日本最古の官道、竹内街道!
ここも走っておきたいですね。
二上山周辺は、いかにも日本の原風景を連想し、走ってて(歩いてて)楽しそうですよね。
まだまだブログに公開するのは少し先になりそうですが、関西地区の街道をコツコツと制覇?中です。
学校で習った知識としては、日本最初の都は「平城京」。
でも、いろいろと新たな史料や学説が生まれ、正直、結局どこなんだ?との思いがありましたが…。
そうですか、結局現在では、「藤原京」が最古なんですね。
同じ日本史でも、どうもこの辺りはそれほど詳しくありません。
勉強になります。
上中下といえば、大和三道に上ツ道(かみつみち)、中ツ道(なかつみち)、下ツ道(しもつみち)の古道がありますょ。
これらの古道を走ると、古代のロマンを感じられそうです。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/bf5c6234a0718bf9a17c2913abe7df87
街道には、竹内街道が日本最古の官道と言われています。二上山の南麓を通る、大和国と河内国を結んだ道です。
その先に、飛鳥宮の天皇(大王)の宮の跡地である「飛鳥板蓋宮跡」があります。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/f1c6dfa0fbcb6184dbad185644da8620
日本初の計画都市跡とされるのは、唐の都・長安を模した「藤原京」です。
この次に、いまの奈良を「ならし」て平城京(ならのみやこ)を築きました。
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/97efaedb3e084fbd9c73a49d572fbb65
犬山から鵜沼に行くなら、犬山線ということになりますけど、木曽川を隔ててるだけの位置関係ですから、中山道や東海道で鍛えられている脚なら、充分に徒歩圏内かと思います。
そうですそうです、上街道は、中山道の脇往還ということになりますね。
というより、それ以上の関係が・・・。
おっとっと、これは上街道編2または3辺りで、関連付けて掲載していきたいと思ってます。
(すでにヒントというか、種まきを中山道編11辺りでしてあるんですけどね)
名古屋市内からですと、名鉄小牧線が途中まではお供をしてくれますから、気軽に楽しめる旧街道で、東京にあてはめると、青梅街道的な存在かもしれません。
私は、こちら方面は、地理感が全くないのですが、
犬山城を見物して鵜沼宿に向かうとき、名鉄の犬山線と小牧線が乗り入れていて、
どちらに乗ったら良いのか、頭が混乱して分からなくなりました・・・
上街道は、小牧線沿いに近いのでしょうかね。