肌寒く、曇天の2月。
1か月近く開いたのを利用して、再び今後の中山道ランを予定してみる。
繰り返しになってしまうけど、中山道は東海道のように好き勝手に?スタート・ゴールするわけにはいかないのだ。
近江路は、中山道全体からすると、極めて交通機関に恵まれたエリアなのだ。
中山道は、東海道とは比べ物にならないほど山中を走るため、利用できる交通機関に著しく制約があり、変なところで無計画にゴールにすると、交通機関も宿泊施設もなく、路頭に迷うことになり、シャレにもならない結果になってしまう。
中山道を走る(歩く)上で、全体を見渡すと、「こことここは絶対にはずせない」という拠点がいくつかあることに気づく。
その1つが美濃路の御嵩宿。
名鉄なら「御嵩駅」やね。
名鉄広見線の終着駅で、鉄チャンとしても絶対にはずせないけれど、中山道的にも、ここは重要な地点なのだ。
ここを最後に、中山道は急激に山中となり、30km以上先の大井宿(中央本線恵那駅)までは、延々と登り下りを繰り返す。
その間、1日数本の路線バスの停留所をたま~に目にする程度で、鉄道にめぐり合うことはない。
(京→江戸に向かう場合)御嵩宿は、現代では、中山道最初のターニングポイントなのだ。
多少の微調整はあるものの、のちのち御嵩宿できっちりゴールできるよう、バランスを考え、計画的に走ることが求められる。
大高駅に車を置き、前回ゴールの醒ヶ井駅を目指す。
今日のゴールは、予定では関ヶ原駅だ。
今回、利用する交通機関は、東海道本線のみ。
鉄チャン要素は0。
ついに費用は、青空フリーの2,500円のみとなった。
どうも近いと気が抜けちゃってね。
朝、家でのんびりし過ぎちゃった上に、途中で軽食を取ったりして、すでに時計は12時半を過ぎている。
さっそくトレーニング開始!!
南下し、すぐに名神高速手前の十字路に出る。
前回のゴール地点やね。
前回、後ろ髪をひかれた、うねり道が左に延びている。
迷わず左折し、その道を走る。
道標もあり、迷いはない。
右には名神高速が見えている。
案内板に従って走っていると、見えてくるのが「西行水」「泡子塚」。
名前の通り、西行法師にまつわる史跡らしい。
西行法師がここを通った時に一目惚れした娘が、法師の飲み残したお茶を飲んだら妊娠したという、すでにこれだけで怪しい話だからね。
帰路に法師がその子を見て、歌を詠んだら、泡となって消えたとか。
いや、絶対にウラのある話に違いない。
あんまりdeepなこと、考えないでおこう。
都会では珍しくなった八百屋さんで、駅から来るショートカット道と合流する。
ちょっと寄り道して、このショートカット道を駅の方に戻ると、大正モダン風な建物が。
真ん前にある、円筒形の郵便ポストも懐かしさを覚えるね。
かつての醒ヶ井郵便局舎で、現在は資料館になっている。
醒ヶ井宿の当時を偲びながら、しばし、見学し、時間を過ごす。
ちょいと長い休憩になっちゃった。
さて、中山道に戻ろう。
再び八百屋前で合流し、そのまま中山道を進む。
この辺りから、本格的に「醒ヶ井宿」が始まる。
いいねぇ、醒ヶ井宿。
どっちかっていうと小振りな宿場町なんだけど、何といってもこの宿場の特徴は、水が綺麗なこと。
道の右手には、お堀があり、清水が流れている。
名物は「梅花藻」(ばいかも)。
今は冬だから無理だけど、6月末~9月上旬にかけて、お堀を綺麗な花でいっぱいにするらしい。
清水でなければ繁殖しないらしいからね、見れば本当に透明で、素晴らしく綺麗な水だ。
観光地化されていないため、人通りも少なく、静かな町並みが続いている。(冒頭写真)
左側には古くから営んでいる醤油屋さん。
水がいいからね、醤油もおいしいらしい。
右手堀の向こう側に「問屋場跡」。
ここも資料館として開放されているらしいけれど、先に進みたいし、何よりこの落ち着いた風景こそ、資料館そのものだ。
「樋口山」という割烹料理屋さんが、かつての本陣跡らしい。
その先に進むと、「居醒の清水」。
ここが源泉だ。
あふれ出る清水、そのまま飲んで、ちょっと給水。
うまい!!
この辺りで醒ヶ井宿は終了かな。
素敵な町並みだな~、ぜひ再訪し、ゆっくり見学したい!
(※この後、2012年、2013年と、続けて再訪。嫁も気に入ってくれたようです、醒ヶ井宿)
くねくねした道は、やがて国21に合流するけれど、その50mほど手前の、小さな十字路を右折するのが正解。
そのまま道なりに走る。
左に八幡神社を見て、国21に吸収される。
そのまま走ること500mぐらいかな?
左手に何やら怪しげなホテルが。
ここから分岐している小道がある。
当然、これが中山道やね。
左に流れるのは梓(あんさ)川というらしい。
しばらくすると、松並木に出くわす。
梓川松並木、と称するようだ。
しばらくの間、右に国21、さらにその向こう側に名神高速、の構図を続けながら、中山道はくねくねと蛇行している。
なかなか走ってて楽しい風景が続く。
気持ち良くそのまま走ってると、右手に自動車整備工場があり、道は左にカーブしている。
このすぐ先で、左に1本入った、さらに狭い道が、中山道らしい。
しばらくはしると再びさっきの道に合流、そこにあるのが「小川(こかわ)の関址」。
何と!壬申の乱の際に設けられた関所の跡らしい。
「壬申の乱」ね~、懐かしいなぁ。
日本史の授業なら、必ず1学期に出てくる、日本古代の内乱だ。
西暦672年、大友皇子と大海人皇子の、皇位継承をめぐる争いやね。
そしてこの中山道が、東山道よりさらに古く、そんな時代から存在していた証左でもあるわけだね。
今度は配水場のところに分岐点がある。
ここは左を選択。
そのまま進むと、やがて右手少し奥に「柏原一里塚」が復元されている。
このまま直進すれば、そのまま柏原宿に入っていくんだけど…。
案内板に従い、ちょっと寄り道。
実はこの辺り、「東山道」にまつわる史跡が点在している。
十字路を左折すると、やがて正面に柏原中学校ね。
さらにそこを左に行くと、ここにも案内板があり、左の森の中に入っていく狭い道を行く。
小さな池に出る。
この池の脇を通る道が、どうやら「東山道」跡らしい。
左の方に延びる小高い山道を登りきると「北畠具行(きたばたけともゆき)卿墓」。
鎌倉末期、後醍醐天皇の協力者の1人だったんだけど、事前に「打倒鎌倉幕府」の企てが暴露してしまい、処刑された公家ということらしい。
後醍醐天皇は、改めて作戦を練り直し、足利尊氏や楠正成、新田義貞の協力を得て鎌倉幕府を滅ぼし、「建武の新政」を成し遂げることになるわけだね。
「いざみよ(1334年)建武の新政」、語呂合わせで覚えました♪
池まで戻って、ぐるっと半周し、反対側の北上する道を走る。
この道も古さを感じるから、もしかして東山道かな?
400mぐらいかな?
案内も出てるけど、ここから左に延びるのが「徳源院」への参道で、直線的に延びている。
単に「徳源院」と呼ばれることの方が多いけど、正確には「徳源院清滝寺」。
近江の名門、京極氏の菩提寺だ。
京極氏は、なんだかんだと戦国・江戸を生き抜き、明治になり、貴族院議員まで輩出している。
その間、徳源院も、代々手厚く保護されてきたらしい。
コスモタイガー、実はここ、2度目の訪問だ。
10年以上前になるけど、JR東海のウォーキング大会だったかで、この辺りを歩いたものだ。
晩秋だったため、見事な紅葉が印象に残っている。
今日は冬。
もちろん紅葉はしていないけど、その代わり観光客もなく、ひっそりとした山寺の雰囲気で、これはこれで味わい深い。
本堂に手を合わせ、奥に入ると、京極家墓所があり、歴代の当主が並んで眠っている。
さて、随分と長い時間、タイムスリップしてしまったね。
そろそろ江戸時代に戻ろうか。
ということで、参道を戻り、さっき出てきた「東山道」をそのまま通り過ぎ、右手に何やら資料館らしき建物があるから、そこを右折。
そのまま中学校の前から来た道を辿り、中山道に戻る。
50mも走ると、江戸時代のままの道標が残る。
すでに柏原宿に入っているようだ。
ここもかつて、ウォーキング大会で歩いた道だ。
かすかな記憶が残る。
柏原宿は、かつては「もぐさ」の産地だったとか。
まもなく右手に見えてきた古い建物は、そのもぐさを今も売っている「伊吹堂」。
すぐに高札場があって、続けて本陣跡がある。
丁寧に案内板も整備されている。
さらに進んで左側に郵便局。
ここが脇本陣跡らしい。
左少し奥に東海道本線柏原駅があるが、いくらなんでもまだゴールするには早すぎる。
そのまま直進。
いかにも一昔前の集落といった感じで、静かに中山道が続いている。
左に東海道本線が寄り添う。
途中、ちょっと見落としそうだけど、東見附跡。
柏原宿はここまでってことだね。
まもなく東海道本線を踏切で渡る。
道なりに右に行き、引き続き東海道本線に沿って走る。
左には小高い山、右手に東海道本線、人気もなく、静かな道が続いている。
癒されるなぁ。
快調なrunが続く。
さて、わずかばかりの家並みとともに、何やら身長大の木柱が見えてきた。
「寝物語の里」。
丁寧な解説版も設置してある。
下を見ると木柱の脇に、小さな溝があり、少量の水が流れている。
実はこの溝こそが、近江国(滋賀県)と、美濃国(岐阜県)の境を示しているんだね。
何の変哲もない小さな溝だけど、昔も今も大きな意味を持つ「溝」なのだ。
かつてこの溝を隔てて、旅籠があったらしく、寝所から、国境を越えてお隣さんと会話ができた。
それを古より、「寝物語の里」と呼ぶようになったらしい。
この溝を超えれば岐阜県!
ついに東海地方に入った(というより戻ってきた?)!
これにて滋賀県も制覇!
ってことはさ、つまりこれで「中山道近江路」も終了ってことなんだ。
ここからは、「中山道美濃路」。
一呼吸して、さぁ、美濃路を走ろう!
右にカーブしつつ、道は下り坂になる。
300mほどで、再び東海道本線を渡り、「今須」の交差点で国21に交わる。
信号を渡ったところに「車返し地蔵尊」。
簡単にいえば、昔、月見をしようとした京都の貴族さんが、ここまで来て引き返した。
まぁそういうこと。
要するに、当時の貴族は暇だったんだね。
残念ながら、江戸の時代を偲ぶのはちょっと厳しいけれど、山間に静かに横たわる集落は、走ってて楽しい。
左にカーブしながら下り続け、郵便局前を通ってすぐ、「問屋場跡」。
今須宿に入ったらしい。
本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13件、中山道としても、随分小さめの宿場町だったのだ。
さらに進んで、今須小中学校の場所が「本陣跡」と看板が建っているが、かつてを偲ぶものは何もない。
そのまま直進し、国21に合流。
そのままちょっとだけ国道runだけど、その国道脇にあるのが「今須一里塚」。
南側のみ、復元されている。
と思ったら、すぐに左に入っていく脇道がある。
これが中山道だね。
国21に寄り添いつつも、確実にくねくねとうねりながら、山中を行く。
東海道本線を超え、さらに道は続き、緩やかに上っている。
一応、「今須峠」の名が付いている。
一里塚から約1km。
左に入る、さらに細い小道が。
当然こっちを選択。
すぐ左にあるのが「常盤御前(ときわごぜん)墓」。
中山道編3にも出てきた、源義朝の愛妾。
そしてその間に生まれたのが3人の男子で、末っ子が義経だ。
平治の乱に敗れ去り、野間に落ち延びた義朝さん。
家族もばらばらになり、出家して鞍馬寺に預けられていた義経(当時は牛若丸)も、東国へ逃げたことを知り、後を追う常盤さん。
でもここで盗賊に襲われ、哀れ、命を落としたとされる。
この細い道は、300mほどで再び先ほどの脇道に合流。
そこで右に目を向けると、何やら金網越しに川が渓谷のように深く刻まれ、小さな滝になっている。
「鶯の滝」。
東山道の頃から、旅人に親しまれていたらしい。
もっとも、かつてはもっと立派だったようだけど。
国21を歩道橋で渡り、そのまま小道を進むのが正解。
ここからは急激に上る。
登りきると、正面にやや大きい建物がある。
「不破(ふわ)の関資料館」。
ぜひ見たい!!
と思ってたんだけどね、16時で閉館とのこと。
何と、あと5分じゃん!!
仕方ない、またの機会にするとして、先に行こう。
朝、のんびりし過ぎたツケだな。
中山道は資料館の裏手を通る感じで、すぐ向かい側に何やら古い建物があり、そこが本当の「不破の関跡」。
「不破の関」。
東山道時代、ここに関所が置かれたんだね。
そもそもこの辺り一帯は、現在では「関ヶ原」と呼んでいる。
関ヶ原と言えば、あの有名な、1600年の「関ヶ原の合戦」が有名だよね。
徳川家康(東軍)対石田三成(西軍)。
歴史ファンじゃなくても名前ぐらいは誰でも知っている、超メジャーな大合戦だけど。
それはもっとずーっと後年の話。
実はこの辺り、さらに時代を遡り、もう1つの大合戦の舞台になっていることはあまり知られていないよね。
2時間ほど前に通った「小川の関址」でも出てきた「壬申の乱」。
あの合戦もここが舞台だったのさ。
勝ったのは大海人皇子(のちの天武天皇)。
そして天皇即位後、この「不破」の道を抑えるために関所を作ったというわけだ。
そしていつしかこの辺り、「関所のある原っぱ」→「関ヶ原」となっていったんだね。
名前の通り、この辺り一帯は、山々に囲まれ、かつ広大な盆地(原っぱ)を有するため、大人数で合戦するのに適した?場所なのだ。
そのため、2度にわたり、日本を二分する戦が行われた、稀有の場所なのだ。
こんな場所だから、その気になれば、1~2日掛けて散策しても足りないぐらいの名所・旧跡が残ってるからね、正直言ってキリがない。
とにかくコンセプトは「中山道」。
江戸期の中山道だけをピックアップして、先を急ぐとしよう。
200mほど先で、左に分岐する細い道が中山道。
すぐに「松尾」の交差点で、国21に出る、
右折し、国道を走る。
すぐに左手に供養塔。
「西首塚」と呼ばれているらしい。
名前の通り、戦死者の首を弔ってるんだけど。
といっても、これは「関ヶ原合戦」の方ね。
常夜灯を過ぎると、一気に家並みが増えてきた。
「関ヶ原宿」に入ったらしい。
戦ばかりのイメージがある関ヶ原も、江戸に入って、中山道が整備されると、静かな宿場町として発展したんだね。
「関ヶ原西町」の交差点を過ぎてすぐ、今度は「脇本陣跡」。
ようやく中山道ランの本来の姿に戻った気がする。
もとい、本来の目的はトレーニングだった!
いけねぇいけねぇ。
すぐの交差点の名前は「関ヶ原駅前」。
ここを左に入ったところに、東海道本線「関ヶ原駅」がある。
今日は随分と道草しちゃったね。
特に後半の関ヶ原、やっぱり楽しくって、単純に地図の上なら13~14kmだけど、実際には20km近く走っているよ。
冬の太陽は店仕舞が早いからさ、それに小刻みな起伏もあって、ちょいと疲れた。
当初の予定通り、ここをゴールにして、帰路に付くコスモタイガーであった。
それにしても長い記事のため、途中で読むのに気が萎えてきましたょ。(^^ゞ 結果的には、ななめ読みしました。m(_ _)m
アクセスのことは別問題ですが、長い記事は余程のマニアでもない限り読まない気がします。
なにしろ、せっかくに広い広い砂漠の中の1粒の砂に出逢っても、拾われるか捨てられるかの運命は、その一瞬にかかっています。もちろん、その道を歩む路はあり、束縛されるものではありません。
確かにそうですね。
このブログでは、食事に関しては全く触れてなくて恐縮です。
現在でも単なる県境ではなく、東海地方と関西地方の境目でもありますね。
東海道の鈴鹿峠もそうですが、ここで文化圏が一気に変わります。
ただ、鈴鹿峠はいかにも「超えた」気がするのですが、この寝物語の里は、「溝」しかないため、その意外性が楽しいですね。