こんばんは、ホロンです。
”Words”の僕の拙い記述にコメントくださってありがとう。このページをアップして以来、何人もの人と言葉を交わしてきましたが、このような形で直接コメントをいただいたのは、ほぼ初めてで嬉しいです。また率直に語ってくださったこともとても嬉しいですね。
さて、対論や合論などは必ずしも必要ではないのではないでしょうか。ある論議に対する対論は議論に否定や修正を加えながら一致点を目指すものだと思うのですが、価値観や世界観が人の数だけ合ってそれぞれに異なるように、全てを一致させようとすること自体に無理があるように思います。「人は何故生きるか」などは、それこそ模範的回答が幾つもあるわけですよね。
以前、ある方と少し哲学的なやりとりをしたのですが、その方曰く、「必ずしも合意など得られる必要は無いのではないか、異なる観点からの考え方を、自分の世界の構築の参考にすればよい。」と仰ってられましたが、これは僕も全面的に賛成しています。ただ誤解はできるだけ避けた方がいいでしょうから、確認は十分やってある観点からの議論に対する正しい理解はしたいですね。
「倫理判断の正当性と強制力」ですが、これは法学になるのでしょうか、それともやはり哲学かな?別の言葉で、「善悪の判断と悪に対する罪と罰」と表現しても大きなズレは無いでしょうか?これらはとても難しい問題ですね。絶対的な回答を人が得ることはこの先も永久に無いのではないかとさえ思えます。例えば社会形態や生活風習の違いで、同一の事柄も善と悪が正反対に入れ替わったりしますものね。
僕としては、判断基準は常に自分の中に持ち、それを信じてよい、と常々思っています。
”Words”の僕の拙い記述にコメントくださってありがとう。このページをアップして以来、何人もの人と言葉を交わしてきましたが、このような形で直接コメントをいただいたのは、ほぼ初めてで嬉しいです。また率直に語ってくださったこともとても嬉しいですね。
さて、対論や合論などは必ずしも必要ではないのではないでしょうか。ある論議に対する対論は議論に否定や修正を加えながら一致点を目指すものだと思うのですが、価値観や世界観が人の数だけ合ってそれぞれに異なるように、全てを一致させようとすること自体に無理があるように思います。「人は何故生きるか」などは、それこそ模範的回答が幾つもあるわけですよね。
以前、ある方と少し哲学的なやりとりをしたのですが、その方曰く、「必ずしも合意など得られる必要は無いのではないか、異なる観点からの考え方を、自分の世界の構築の参考にすればよい。」と仰ってられましたが、これは僕も全面的に賛成しています。ただ誤解はできるだけ避けた方がいいでしょうから、確認は十分やってある観点からの議論に対する正しい理解はしたいですね。
「倫理判断の正当性と強制力」ですが、これは法学になるのでしょうか、それともやはり哲学かな?別の言葉で、「善悪の判断と悪に対する罪と罰」と表現しても大きなズレは無いでしょうか?これらはとても難しい問題ですね。絶対的な回答を人が得ることはこの先も永久に無いのではないかとさえ思えます。例えば社会形態や生活風習の違いで、同一の事柄も善と悪が正反対に入れ替わったりしますものね。
僕としては、判断基準は常に自分の中に持ち、それを信じてよい、と常々思っています。