風景も地図も共に現実で、人は時として地図から風景へ、また風景から地図へと双方向に現実逃避するんだろうね。過労死までには至らずとも、仕事にかまけて家庭を顧みないというのもたぶん現実から地図への逃避だろうね。
世の中に、菜食主義者という人達がいるけれど、あれも分かる気がするんだよ。美味しい松坂牛のサーロインステーキ。これが好きではないと言う人はあまりいないと思うけど、いったいこのステーキは何処からやってきたんだろう、という真実を順を追って考えていったら、とても美味しくは食べられないことを思い知ってしまうね。
本来なら、自分で子牛を育てて、大きくなったら「ドナドナ」の歌を歌いながらして、肉や内臓をさばいて、スーパーに並んでいるサイズに切り分けた人のみにサーロインステーキを食べる権利がある、ということなんだろうけど、そこまで人は真実に対して誠実でなければならないんだろうか?とも思う。
風景から地図へ 、また地図から風景へと、逃避することも、時には人には必要なんじゃないかとも思えてくるんだよね。それこそ、アンの夢想は地図から風景への逃避にも見れるね。でもそれによって心にエネルギーを満たすわけだからこれは戦略的退避と言うべきなんだろうね。
風景も地図も、その時代を反映して存在する。いまを生きる限り、時として一方に固着し他方を半無意識に遮断するのも人の在り方じゃないかな?でなければ、葉っぱを食べて生きるしかないものね。
世の中に、菜食主義者という人達がいるけれど、あれも分かる気がするんだよ。美味しい松坂牛のサーロインステーキ。これが好きではないと言う人はあまりいないと思うけど、いったいこのステーキは何処からやってきたんだろう、という真実を順を追って考えていったら、とても美味しくは食べられないことを思い知ってしまうね。
本来なら、自分で子牛を育てて、大きくなったら「ドナドナ」の歌を歌いながらして、肉や内臓をさばいて、スーパーに並んでいるサイズに切り分けた人のみにサーロインステーキを食べる権利がある、ということなんだろうけど、そこまで人は真実に対して誠実でなければならないんだろうか?とも思う。
風景から地図へ 、また地図から風景へと、逃避することも、時には人には必要なんじゃないかとも思えてくるんだよね。それこそ、アンの夢想は地図から風景への逃避にも見れるね。でもそれによって心にエネルギーを満たすわけだからこれは戦略的退避と言うべきなんだろうね。
風景も地図も、その時代を反映して存在する。いまを生きる限り、時として一方に固着し他方を半無意識に遮断するのも人の在り方じゃないかな?でなければ、葉っぱを食べて生きるしかないものね。
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