会津路へ先週合宿に行き、ついでに先生交え偉人野口英世記念館など見て回りました。
解散したら帰りにふっと思いついたように、会津からの尾瀬に行きたくなりました。
しかし思いつきでは尾瀬にはルートがわからず・・・・・。
帰京後、調べるため本を読みましたら、同郷出身植物学者が尾瀬の植物研究発展に尽力を尽くした文章が載っていましたので、失礼ながら紹介させていただきたいと思います。 私はこの人を知るまで恥ずかしながら
同郷の有名人は 女 優 の 樋口可南子 さん
現新潟県知事の 泉田裕彦 さん
この二名しかいないものと思っていました。
また学校の授業でも教えてもらった記憶がありませんでした。
教えていただいた方の名は 世界に冠する漢和辞典の「大漢和辞典」の作成者である、
隣り山向こうの下田出身の 漢学者 諸橋轍次 博士 のみでした。
この植物学者の名を知ったのはまさに青天の霹靂でした。
その人の名は 早田文蔵 さんです。
以下、紹介のためその一部を引用させていただきました。
はやたぶんぞう
早田文蔵 … 珍種の植物を発見した分類学者
新潟県加茂町(現・加茂市)に生れた早田文蔵(一八七四~一九三四)は、
植物の分類学者でした。
早田も尾瀬地方を早くから旅行しており、明治三十六年
(一九〇三)一月の『植物学雑誌』一九一号に
「南會津竝に其の附近の植物」を発表して、尾瀬、檜枝岐、
駒ヶ岳について記しています。五十九歳の生涯にお
いて、その足跡は台湾、仏領インドシナやヨーロッパにまで及び、
その成果の一部は『台湾植物図譜』にまとめられています。
早田は、尾瀬の珍しい植物「ながばのもうせんご
け」の発見者として知られますが、その裏には次の
ようなエピソードがあります。明治三十二年(一八九九)八月六曰、
檜枝岐出身で福島市内の小学校で理科の訓導を受け持っていた星大吉が、
現在の尾瀬ヶ原彌四郎小尾の前で、不思議な形の植物を発見、
採取しました。
植物名不明のため、福島師範植物教
師だった根本完爾(一八六〇~一九一三ハ一は、束京の
牧野冨太郎の元にその植物を転送しました。
その結果、偶然にもその植物は明治三十一年(一八九八)八月、
千島列島にて川上瀧彌が採取した珍種「ながばのもうせんごけ」
と同じものであることが判明しました。
牧野は「ながばのもうせんごけ岩代國ニ産ス」と
いう論文を「植物学雑誌』に発表しました。
しかし、星の発見より一年前、明治三十一年(一九九八)七月に
早田文蔵は「ながぱのもうせんごけ」を採取していたのです。
しかしその確認と発表は遅れ、明治三十六年(一九〇三)まで延ぴて、
『植物学雑誌』に載ったのです。
早田はその中で、
…燧が岳ノ直グ下二至ル、「みずごけ」アリテ
濘(ヌカ)ル様ノトコロニ葉ノ長ク直立セル「もうせん
ごけ」ノ如キモノアリ、之レ嘗テ千島二発見セ
ラレタルDrongitulis L.ナリ、往年根本
完爾氏モ之レヲ尾瀬ノ平ヨリ得、牧野氏之ヲ「な
がばのもうせんごけ」ト命名シテ一昨年ノ本誌
上二公ニセラレタリ
と発表し、のちに東京大学も早田の発見である事を認めてしまったので、
ここに本州"初発見者〃であった星大吉の栄誉は埋没してしまったのです。
かえすがえすも残念な事でした。
この一件により、尾瀬一帯が植物学の分野でも一躍有名となりました。
そして尾瀬の植物研究に拍車がかかったのです。
新潮社 浅野孝一著
「尾瀬ものがたり」((とんぼの本)1993年5月発行 より
もっと早く知っていれば人生変わっていたかも!!・・・・・ネ。
早田文蔵 とは 日本人初!メコン川を下った早田文蔵
Ouroboros 早田文蔵が1916年に『台湾植物図説』に記載
諸橋轍次記念館
漢学の里
解散したら帰りにふっと思いついたように、会津からの尾瀬に行きたくなりました。
しかし思いつきでは尾瀬にはルートがわからず・・・・・。
帰京後、調べるため本を読みましたら、同郷出身植物学者が尾瀬の植物研究発展に尽力を尽くした文章が載っていましたので、失礼ながら紹介させていただきたいと思います。 私はこの人を知るまで恥ずかしながら
同郷の有名人は 女 優 の 樋口可南子 さん
現新潟県知事の 泉田裕彦 さん
この二名しかいないものと思っていました。
また学校の授業でも教えてもらった記憶がありませんでした。
教えていただいた方の名は 世界に冠する漢和辞典の「大漢和辞典」の作成者である、
隣り山向こうの下田出身の 漢学者 諸橋轍次 博士 のみでした。
この植物学者の名を知ったのはまさに青天の霹靂でした。
その人の名は 早田文蔵 さんです。
以下、紹介のためその一部を引用させていただきました。
はやたぶんぞう
早田文蔵 … 珍種の植物を発見した分類学者
新潟県加茂町(現・加茂市)に生れた早田文蔵(一八七四~一九三四)は、
植物の分類学者でした。
早田も尾瀬地方を早くから旅行しており、明治三十六年
(一九〇三)一月の『植物学雑誌』一九一号に
「南會津竝に其の附近の植物」を発表して、尾瀬、檜枝岐、
駒ヶ岳について記しています。五十九歳の生涯にお
いて、その足跡は台湾、仏領インドシナやヨーロッパにまで及び、
その成果の一部は『台湾植物図譜』にまとめられています。
早田は、尾瀬の珍しい植物「ながばのもうせんご
け」の発見者として知られますが、その裏には次の
ようなエピソードがあります。明治三十二年(一八九九)八月六曰、
檜枝岐出身で福島市内の小学校で理科の訓導を受け持っていた星大吉が、
現在の尾瀬ヶ原彌四郎小尾の前で、不思議な形の植物を発見、
採取しました。
植物名不明のため、福島師範植物教
師だった根本完爾(一八六〇~一九一三ハ一は、束京の
牧野冨太郎の元にその植物を転送しました。
その結果、偶然にもその植物は明治三十一年(一八九八)八月、
千島列島にて川上瀧彌が採取した珍種「ながばのもうせんごけ」
と同じものであることが判明しました。
牧野は「ながばのもうせんごけ岩代國ニ産ス」と
いう論文を「植物学雑誌』に発表しました。
しかし、星の発見より一年前、明治三十一年(一九九八)七月に
早田文蔵は「ながぱのもうせんごけ」を採取していたのです。
しかしその確認と発表は遅れ、明治三十六年(一九〇三)まで延ぴて、
『植物学雑誌』に載ったのです。
早田はその中で、
…燧が岳ノ直グ下二至ル、「みずごけ」アリテ
濘(ヌカ)ル様ノトコロニ葉ノ長ク直立セル「もうせん
ごけ」ノ如キモノアリ、之レ嘗テ千島二発見セ
ラレタルDrongitulis L.ナリ、往年根本
完爾氏モ之レヲ尾瀬ノ平ヨリ得、牧野氏之ヲ「な
がばのもうせんごけ」ト命名シテ一昨年ノ本誌
上二公ニセラレタリ
と発表し、のちに東京大学も早田の発見である事を認めてしまったので、
ここに本州"初発見者〃であった星大吉の栄誉は埋没してしまったのです。
かえすがえすも残念な事でした。
この一件により、尾瀬一帯が植物学の分野でも一躍有名となりました。
そして尾瀬の植物研究に拍車がかかったのです。
新潮社 浅野孝一著
「尾瀬ものがたり」((とんぼの本)1993年5月発行 より
もっと早く知っていれば人生変わっていたかも!!・・・・・ネ。
早田文蔵 とは 日本人初!メコン川を下った早田文蔵
Ouroboros 早田文蔵が1916年に『台湾植物図説』に記載
諸橋轍次記念館
漢学の里
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