ベートーヴェン:ピアノソナタ第8番「悲愴」
ピアノソナタ第14番「月光」
ピアノソナタ第15番「田園」
ピアノソナタ第24番「テレーゼ」
ピアノ:ウィルヘルム・ケンプ
CD:エコー・インダストリー CC‐1005
ウィルヘルム・ケンプ(1895年―1991年)は、私が最も尊敬するピアニストだ。実に誠実にピアノにたち向かい、少しも奇をてらうところがなく、淡々と弾きこなす。そして、とても内容の深い、その精神性が聴くものを圧倒する。ドイツのピアノ演奏の伝統を身に付けた演奏スタイルは、実に堂々としていて、一瞬の隙も見せない。だからといって、コチコチで堅苦しいといった印象は薄いのだ。むしろ人間味のある、まろやかな音質はとても親しみやすいし、聴いていて疲れることはない。何よりも、音質的には澄んだピュアな響きが何とも印象的で、安定感もある。聴いていて、これこそドイツのピアノ演奏の真髄だという感じがするのだ。今、ケンプのような温かみのあるピアノを弾くピアニストは、ほんとに少なくなってしまった。
ケンプは、日本に何回も来ており、私も1回だけ生演奏を聴く機会があった。演奏スタイルは、意外に即興演奏ふうに弾くような感じも受けた。そのためか、弾いていくうちに、次第に感興が自然に盛り上がり、無我の境地に自らを上りあがらせ、それが聴衆に伝わり、会場全体がケンプのピアノを弾く指に集中するような、そんな感じも受けた。ケンプは決して技巧に長けたピアニストではなかった。ピアノを通して自らの心情を伝えたいという、情念のピアニストであったのだ。ケンプは10回も来日したことでも分るように、日本を愛していた。それは、日本人の持つ精神の拠り所と、ケンプのそれとが、近いところに由るものであったからだろう。
このCDは、そんなケンプの特徴が良く表現されている。ここに収められた4曲は、ベートヴェンのピアノソナタの中でも、どちらかというと愛らしい、温かみに溢れた、特別構えなくても聴くことのできる曲たちで、いずれもニックネームを持っている。「悲愴」は第一楽章の出だしから、ピュアな温かみのあるケンプのピアノ演奏に引きつけられる。決して“悲しみ”を押し付けるのではなく、心の底から共感して弾き進んでいく。「月光」は、「悲愴」にも増してケンプの味わいがふんだんに盛り込まれた演奏だ。聴いて行くうちに月の青白い色までが眼前にぱーっと広がる思いがしてしまう。こんな静かで憂いを持った「月光」を弾けるのは、ケンプだけだと叫びたくなるほどだ。
「田園」は、曲自体が伸び伸びとした曲想に基づいており、ケンプのピアノは、そんな曲想を思う存分、温かみのあるピアノタッチを響かせる。そして最後の「テレーゼ」は、ほんとに愛らしい小さなピアノソナタだが、ケンプはこれにも真正面から取り組み、少しの隙もなく弾きこなす。そしてリスナーは知らず知らずのうちに、普段のベートヴェンの厳格な顔とは違う別の顔を見ることになる。(蔵 志津久)