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クラシック音楽研究者 蔵 志津久によるCD/DVDの名曲・名盤の紹介および最新コンサート情報/新刊書のブログ

◇クラシック音楽CD◇フリッチャイのモーツァルト:交響曲第40番/第41番「ジュピター」

2010-08-10 09:29:52 | 交響曲(モーツァルト)

モーツァルト:交響曲第40番/第41番「ジュピター」

指揮:フェレンツ・フリッチャイ

管弦楽:ウィーン交響楽団

CD:BELART 450 034‐2

 フェレンツ・フリッチャイ(1914年―1963年)は、ハンガリー出身の名指揮者で、ドイツを中心としたヨーロッパおよび米国で活躍したが、1962年に白血病により他界した。まだ48歳という若さであった。指揮者は概して長老になればなる程、知名度が上がり、名演を残すケースが多いが、フリッチャイは円熟の度がこれから加わろうとしていた矢先での死であっただけに、余計惜しまれる。バイエルン国立歌劇場音楽監督、ベルリン放送交響楽団首席指揮者、ベルリン・ドイツ・オペラ初代音楽総監督などその経歴を見れば、いかに実力がある指揮者だったかが分ろう。フリッチャイの死後、名バリトン歌手のフィッシャー=ディースカウがフリッチャイ協会を設立して、名指揮者カール・ベームがその名誉会長を務めたことを見ても、如何にその死が多くの人に惜しまれたがよく分る。

 フリッチャイは、あくまで音楽そのものに語らせるといった指揮ぶりが特徴だ。フルトヴェンングラー、ワルター、トスカニーニなどの名指揮者の録音を今聴くと、いずれも個性的であり、自己主張を貫き通すタイプだ。それに対しフリッチャイは、自分の主張よりも、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスなどの作曲家が意図した音楽そのものをリスナーに正確に、表情豊かに伝え切るといった指揮ぶりで、その真摯な姿勢に、聴くもの皆が心の底から感動を覚えるのである。タイプとしては、ショルティやシューリヒトに近いものを感じるが、フリッチャイが振ると、オケの音が豊穣に鳴り響き、凄まじいばかりの圧倒的な求心力驚かされる。客観的でありながら、同時に主観的な演奏を聴かせるといった、そう簡単に真似できないその類稀な手腕は、今になっても少しも輝きは失せてはいない。モーツァルトの交響曲第40番と第41番の録音が数多く存在する中にあって、この録音は歴史的名演奏であると私は思う。あえて「フリッチャイ盤を聴かずして、モーツァルトの交響曲第40番と第41番を語るなかれ」とでも言っておこう。

 モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」の第1楽章の堂々とした佇まいはどうだ(このCDには第41番、第40番の順に入っている)。これぞモーツァルトとでも言いたいような、優美にして、筋肉が引きしまったような無駄のない構成美に酔いしれることができる。第2楽章の咽び返るような音づくりには、ただただ聴き惚れるしかない。モーツァルトのマジックに完全に自己を埋没しそうになる。フリッチャイの指揮は、あくまで自己の主張ではなく、モーツァルトの美意識への導き役をかって出ているだけだよ、とでも言っているかに聴こえるくる。一転して第3楽章の軽快な軽がるとした流れによって、はっとして我に返える。そして燦燦と輝くモーツァルトの音の世界に身を置く。第4楽章は、第3楽章の延長みたいなところがあって、伸び伸びとした健やかな音づくりが印象深い。フリッチャイの指揮はここでも、エネルギーを極限まで集中させ、豊かな音づくりに終始する。この交響曲に付けられたジュピターは、ローマ神話における最高の神のことであり、スケールが大きく、輝かしく荘厳なさまはこの曲にぴったり合う。そのことがフリッチャイの指揮により一層確かなものに見えてくるのだ。

 第40番の交響曲は、これまで40番の「ジュピター」みたいなニックネームが付けられてこなかったことが不思議に思うほど、我々リスナーにとっては身近な曲である。モーツァルトの交響曲のうち短調のものはこの作品を含め2曲しかない。もう一つの交響曲は第25番で、いずれもト短調。第1楽章の出だしからリスナーの心を虜にして離さない。フリッチャイは、決してスピードを上げず、ゆっくりと淡々と進む。この方がかえってモーツァルトの悲壮感が滲み出る。ここでは下手な演技をしない方が賢明なことをフリッチャイは知っている。第2楽章は、第1楽章を受けて立つかのような、透明で平穏な空気が流れる。第1楽章の悲壮感が少しは拭えるかのようだ。フリッチャイの指揮は、実に淡々と演奏するが、その深みのある弦の響きに加え、管の一瞬の輝きに、その全神経を集中して指揮していることが窺える。第3楽章は、壮大な音の饗宴。フリッチャイの研ぎ澄まされた感性が冴え渡る。第4楽章は、悟り切ったような表情から、それがさらに未来に繋がるような雰囲気が何ともいいが、ここでもフリッチャイの指揮は、あくまで自然体であり、モーツァルトに全てを語らせ、決して自分がでしゃばろうとはしない。ところでウィーン交響楽団は、普段、ウィーンフィルの陰に隠れた存在に甘んじているが、ここでは、フリッチャイによりその持てる力を存分に出し切って、自信に満ちた演奏をしていることが印象に残る。(蔵 志津久) 


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