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★ 私のクラシック音楽館 (MCM) ★ 蔵 志津久

クラシック音楽研究者 蔵 志津久によるCD/DVDの名曲・名盤の紹介および最新コンサート情報/新刊書のブログ

◇クラシック音楽CD◇リパッティ/カラヤンのシューマン/モーツァルト第21番:ピアノ協奏曲

2010-08-17 09:28:56 | 協奏曲(ピアノ)

シューマン:ピアノ協奏曲

モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番

ピアノ:ディヌ・リパッティ

指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン

管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団(シューマン)
     ルツェルン音楽祭管弦楽団(モーツァルト)

CD:東芝EMI CE30-5530

 ディヌ・リパッティ(1917年ー1950年)は、ルーマニアの名ピアニストである。たった33歳という短い一生であったにもかかわらず、彼の残した録音はことごとく名盤の誉れ高いもので、今でも多くの人々から支持を得ている。透明感あるピアノタッチが魅力であり、同時に気品のある弾きぶりは、現在でも他の追随を許さない。特にショパンやバッハやモーツアルトの演奏では、リパッティの持つ特質が、ものの見事に発揮されており、聴くものに深い感動を与えずにはおかないのだ。ピアノ技法的にも高度なものをマスターしているにも関わらず、一旦演奏されるとそれらのテクニックは表面に立たず、曲の持つ本質的な情感がストレートにリスナーに伝わってくる。ピアノの詩人という言葉があるが、正にリパッティはピアノの詩人そのもので、作曲者が伝えたかった何かが、リパッティの弾くピアノからは木漏れ日のごとく降り注ぐ。

 そんなリパッティがあのカラヤンと共演したのが今回のCDなのだ。カラヤンと共演したシューマンとモーツァルトのピアノ協奏曲のこの録音は、昔から名盤として定評のあるものだ。ところが、私にとってこの二人の組み合わせは、もう一つピンとこない。果たして、二人のコンビはどういう演奏を聴かせてくれるのか。何か水と油のようでもあり本当にうまく行くのであろうか?昔聴いたCDを再び取り出して聴いてみることにした。結果は、意外に馬が合うコンビといったことが言えると思う。これは両者とも一直線で、曲がらずに演奏するところが互いに理解できるからなのかもしれないし、カラヤンが伴奏の役割に徹しているからかもしれない。もう一つの謎は、リパッティがもの凄く力強い演奏をしていること。シューマンが1948年4月のスタジオ録音、モーツァルトが1950年8月のライブ録音であり、死の2年前と死の年の録音である。モーツァルトの方も、とても死の3カ月前の演奏とは思えない程の力演だ。リパッティのこんな全力投球の演奏態度が、今でも多くのファンの心を掴んで離さない理由の一つなのかもしれない。

 シューマンのピアノ協奏曲は、第1楽章が1841年、第2、3楽章が1845年に作曲された。シューマンはこの曲以外にもピアノ協奏曲を作曲しているようだが、完成したのはこの曲のみ。曲想は、シューマンらしさが曲全体を覆い、幻想的で夢想的な世界にリスナーは酔うことができる。まるで室内楽のような曲想を持ったピアノ協奏曲とでもいえようか。そんな曲に対し、リパッティ/カラヤンのコンビは、多少異なった切り口で突き進む。幻想的で夢想的な世界を表現するというより、曲の骨格をがっしりと捉え、それを思う存分に表出してはばからない。しかし、それは決して詩的な雰囲気を壊すことなく演奏されるので、いつものシューマンの茫漠とした世界とは一味違う、新しいシューマンの世界の発見に繋がっているのかもしれない。リパッティの死の2年前のスタジオ録音なので、まだ体調が良かったのかもしれない。リパッティの迫力あるピアノ演奏が展開される。カラヤンもそんなリパッティに共感するするかのような伴奏を繰り広げ、ピアニストと指揮者の一体感はこの上ない。リパッティとカラヤンとがこんなに気が合うなんて思ってもみなかった。

 モーツァルトのピアノ協奏曲第21番は、モーツァルトが作曲した27曲のピアノ協奏曲の中でも完成度が高く、明るく壮大なスケールと叙情性に富んだ優れた協奏曲として特にリスナーに人気の高い曲だ。この演奏でリパッティは第1楽章と第3楽章のカデンツァを自分で作曲している。そういえばリパッティは作曲者として顔も持っており、録音もしていることを思い出した。この録音は1950年8月23日のルツェルン音楽祭でのライブ録音。リパッティの死は1950年12月2日なので、死の3カ月前の録音となるわけで、リパッティファンの一人としては、とても正常心では聴けない。多分体調は優れなかったのであろうが、演奏の全体から立ち上る気迫は十分で、モーツァルトの協奏曲を鑑賞するのに少しの不足はない。特にリパッティらしい透明感あるタッチが存分に発揮され、数多い同曲の録音の中でも一際光り輝くものに仕上がっている。きっと最後の力を振り絞って演奏していたのであろう。現に、この演奏の後、9月16日のブサンソン音楽祭に出演したリパッティは、ショパンのワルツ集の最後の1曲を弾くことができなかった。リパッティの残した録音は、録音の古さを乗り越えて、これからも多くの人に聴かれ感動を与えていくに違いないと、私は確信している。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇モーラ・リンパニーのプロコフィエフ:P協第3番/ラフマニノフ:P協第3番

2010-08-03 09:30:01 | 協奏曲(ピアノ)

プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番

ピアノ:モーラ・リンパニー

(プロコフィエフ)
指揮:ウォルター・ジュスキント
管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団

(ラフマニノフ)
指揮:アンソニー・コリンズ
管弦楽:ロンドン新交響楽団

CD:新世界レコード社 OLIMPIA OCD191

 このCDの録音は、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番が1958年、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番が1952年と、今から50年以上前に行われたものだが、その優れた演奏内容は、今でも少しもその輝きを失っておらず、録音の多少の古さを除けば、現役盤として充分通用する価値の高いものとなっている。モーラ・リンパニー(1915年―2005年)の力強く、しかも格調の高い演奏は、この2曲の持つ造形美や情緒を表すのに、最も相応しいものといえる。モーラ・リンパニーのピアノは、曖昧さを排除する一方で、スケールの大きい、ロマン溢れる曲想を十二分に再現してみせており、他のピアニスト追随を許さない。この貴重な録音は、もう今後日の目を見ることはないと思われる。誠にもって残念なことではある。そして、今後モーラ・リンパニーというピアニストの名前も人々の記憶から徐々に失せていく・・・。

 プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番は、プロコフィエフの全作品の中でも名曲としての誉れ高い作品。第1楽章のアンダンテ-アレグロは、ピアノ演奏の出だしのメロディーからして印象に残り、その後に続くオーケストラの劇的な盛り上がりも聴き応え十分だ。さらにピアノとオーケストラが掛け合いながら弾き進める部分は、古今のピアノ協奏曲の中でも特に演出力が傑出した曲といえるのではないか。第2楽章は、「主題と変奏」アンダーティーノは、文字通りゆっくりとした感じで始まるが、次にはプロコフィエフ独特の飛び跳ねるような曲想へと変化し、かと思うとまたゆっくりとした曲が耳に入ってくる。この辺のリスナーを飽きさせない演出力には感心する。第3楽章は。アレグロ、マ・ノン・トロッポで、飛び跳ねるようなピアノは、これぞプロコフィエフといった趣がある。でもまた中間部に、静かな瞑想でもしているかのような、ロマンの香りの濃厚な曲が始まる。そんな曲を、モーラ・リンパニーのピアノは、透明で歯切れ良い演奏見せ、圧倒的な印象をリスナーに与える。最後に最高のノリで曲を締めくくるところなどは、あたかも千両役者が大見得を切っているように聴こえる。

 ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番は、有名な第2番の陰に隠れてあまり知られていないが、第2番に劣らぬ名ピアノ協奏曲なのだ。得に演奏技術の高さが求められるピアノ協奏曲として知られ、ピアニストの技量が最も求められる曲のため、リスナーがピアニストの技量を推し量るのに適した曲となっている。つまり、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を弾きこなせれば、一流のピアニストとして認知されるのだ。第1楽章は、何とも印象的なメロディーで始まり、曲が進むに従って、聴いていても思わず唸りたくなるようなピアノ演奏の難所みたいな部分が幾つも出現する。リスナーはただ唖然として聴くのみ。同時にその爽快な演奏に酔いしれることができる。ここでもモーラ・リンパニーは高度のテクニックで難なく弾き進む。第2楽章は、オーボエの奏でるメロディーが何とも甘美な雰囲気を醸し出し、ピアノとオーケストラのロマン溢れる世界にリスナーを誘い、そのロマンの香りに完全に酔わされる。そして、時折現れるピアノの激しい息づかいに、この曲がスケールの大きい曲であることを再認識させられるのだ。この振幅の激しい表現力をモーラ・リンパニー難なく弾きこなしてしまう。誠に脱帽もの。第3楽章は、激しいスピードのある楽章だ。思う存分ピアノの可能性を追求しているような爽快さが印象的な楽章である。やはり相当力量あるピアニストでないとラフマニノフの意図した狙いは、到底再現できそうにもない。モーラ・リンパニーのピアノは、ここでも何でもないように楽々と弾きこなす。

 モーラ・リンパニーはイギリスの女流ピアニスト。1938年にロンドンでデビューを果たす。1938年にブリュッセルのイザイ国際コンクールで2位に入賞するなど、第二次世界大戦前のイギリスで人気を博す。戦後も人気は劣ろえず、1992年にはデイムに列せられた。1992年には来日もしている。リンパニーはロシア音楽を愛し、ハチャトゥリアン、ラフマニノフ、プロコフィエフを好んで演奏したという。このCDは、そんな彼女のプロコフィエフとラフマニノフの名ピアノ協奏曲が聴けるということでも誠にもって貴重な録音であると思うのだが、廃盤となったしまった今となっては、何とも致し方ない。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇ピレシュのモーツアルト:ピアノ協奏曲第21番/第26番「戴冠式」

2010-06-22 09:19:35 | 協奏曲(ピアノ)

モーツアルト:ピアノ協奏曲第21番
         ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」

ピアノ:マリア・ジョアン・ピレシュ(マリア・ジョアオ・ピリス)

指揮:テオドール・グシュルバウアー

管弦楽: リスボン・グルベンキアン室内管弦楽団
      リスボン・グルベンキアン管弦楽団(第26番「戴冠式」)
     

CD:RVC RECD-2843

 マリア・ジョアオ・ピリスは、1944年生まれのポルトガル出身の、日本でも知名度が高い、お馴染みのピアニストであるが、最近、ポルトガル語の発音に近い「マリア・ジョアン・ピレシュ」が使われ始めてきており、どうも今後はピリスでなくピレシュと表記されそうな気配である。このためここではピレシュを使う。ピレシュのピアノ演奏は、ピアノと真正面から向かい、少しの曖昧さのない明確なタッチを基本に、明るく、ニュアンスに富んだところが特徴と言える。どちらかというとギーゼキングやゼルキンなどのピアノ演奏に通じたものが感じられるが、これらの男性のピアニストでは表現しきれないような、微妙なタッチがリスナーを魅了するのだ。そんなピレシュのピアノに最も向くのは、モーツアルトやショパンであると思う。これまでピレシュの弾く独奏曲のCDを紹介してきたが、今回はモーツアルトの2曲のピアノ協奏曲である。

 ピアノ協奏曲第21番は、ピレシュのピアノ演奏の特質と曲とが絶妙にマッチし、この上ない名演奏を聴かせる。第1楽章のピアノの出だしからして軽快で明るい表情が何ともいえない。暫くして奏でられるメロディーは天国的とでも言ったらいいのであろうか、この世のものとも思えない美しさに彩られる。正にピレシュの独壇場といった感じであり、一転して翳りが見え隠れする表現も群を抜いている。第2楽章の出だしは、あまりにも有名であるが、ここでもピレシュの、ゆっくりと透明感ある表現が光る。それに何といっても彼女特有のニュアンスに富んだ表情が、曲の持ち味を一段と輝かしいものにしている。最後の第3楽章は、スピード感に溢れ、オーケストラと対話するように演奏を進めていく。もうこれは数ある同曲の録音の中でも1、2を争う出来栄えといっても良かろう。

 ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」は、モーツアルトの全作品の中でも人気の高い曲だが、大抵の場合、ピアニストは愛称通り如何にも戴冠式らしく堂々と華かに演奏するが、ここでのピレシュの演奏は、その逆を行くように、微妙なニュアンスを前面に出し、優雅に振舞う。この辺は、女流ピアニストの良さが全開したような展開で、思わず聴き惚れてしまう。一方、テオドール・グシュルバウワー指揮のリスボン・グルベンキアン管弦団はというと、戴冠式の華やかな雰囲気を漂わせる演奏に徹している。これがピレシュの演奏と意外にうまくマッチして、透明感のある繊細な美しさに加え、華やかさをも同時に備えた「戴冠式」を誕生させることに成功したようだ。これまで、あまりにも華やかさばかりを強調した演奏を聴かされてきた耳には、ピレシュ・グシュルバウワーのコンビによって、新しく生まれ変わった「戴冠式」は、とっても新鮮に聴こえる。

 私は09年4月にピレシュが来日し、チェロ奏者のパヴェル・ゴムツィアコフと共演した演奏を聴く機会を得た。このときピレシュはショパンのピアノソナタ第3番を演奏したが、繊細なニュアンスと同時にファンタジーに富んだ演奏に満足させられた。ピレシュは歳を取るにつれて表現力が一層大きくなったような印象を受ける。その時配られた解説書にピレシュの近況が次のように書かれていたので、最後に紹介しよう。「ピリスは1970年以来、芸術が人生、社会、学校に与える影響に没頭、社会において教育学的な理論をどのように応用させるか、その新しい手法の開発に身を投じてきた。・・・1999年に芸術研究のためのセンター、ベルガイシュを創立、現在、べルガイシュににおける哲学と教育を、スペインのサマランカやブラジルのバヒアに広めている。2005年、“アート・インプレッションズ”という演劇、ダンス、音楽の実験的グループを結成した」。      

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◇クラシック音楽CD◇クリフォード・カーゾンのブラームス:ピアノ協奏曲第1番

2010-06-01 09:35:37 | 協奏曲(ピアノ)

ブラームス:ピアノ協奏曲第1番

ピアノ:クリフォード・カーゾン

指揮:ジョージ・セル

管弦楽:ロンドン交響楽団

CD:DECCA 466 376-2

 ブラームスのピアノ協奏曲第1番は、1857年に完成した作品で、ブラームス24歳の時の初期のものではあるが、その内容の充実ぶりは、中期や後期の作品と言ってもおかしくないほどの高みに達しており、聴くものを圧倒する迫力に満ちている。若きブラームスが、あらゆる情熱と才能を全力で投入した様子が手に取るように分り、何か気安くは聴けないような威厳にも満ちているのだ。ところが初演時にはブーイングが起きるほど不評だったというから分らない。これは多分その頃の聴衆は、ピアノ協奏曲というと典雅なモーツアルトのピアノ協奏曲のような曲が当たり前といった感覚が強く、ブラームスのピアノ協奏曲第1番のように、あたかも交響曲のような厳めしい雰囲気には馴染めなかったのかもしれない。

 もっとも、今だってブラームスのピアノ協奏曲第1番は、気安く聴ける曲ではないことも確かだ。第1楽章の出だしは、何かおどろおどろしていて、聴いていて恐ろしくなるほどなのだから。これに対抗できるのは、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」の出だしだけではないかと、思わず思ってしまう。ブラームスがこのようなピアノ協奏曲を書けたということは、時代をかなり先取りしていた証拠であろう。後世になってその真の評価がなされたのだから。先日、NHKテレビを見ていたら江戸幕府の一行が多分日本人として初めてオーケストラコンサートに接した時のことが紹介されていたが、そのときオーケストラを聴いた久米邦武は「千曲一曲にして」とその印象を書き残しているという。つまり皆同じ曲に聴こえたということだ。初めて西洋音楽に接した日本人の印象としては当たり前と言えそうだ。その曲の良さは、何度も聴いた後に感じられることが多いのだから。ブラームスのピアノ協奏曲第1番の初演時の不評も同じこと。ただ、現代音楽だけは注意しないと、何回聴いてもつまらない曲が少なくないのであるから・・・。これは作曲者だけが「自分が先を行っている」と勘違いしているだけのこと。

 さて、このブラームスのピアノ協奏曲第1番を、今回は英国の名ピアニスト、クリフォード・カーゾン(1907年―1982年)のピアノ、ハンガリー出身の名指揮者、ジョージ・セル(1897年―1970年)指揮の名盤の誉れ高いCDで聴いてみることにする。第1楽章のスケールが大きく、おどろおどろしい、ブラームス臭がいっぱい詰まった冒頭は、ジョージ・セルの独壇場で、これだけ聴いても満足してしまうほど。そして、柔らかいタッチのクリフォード・カーゾンのピアノが極自然に入り込み、オーケストラとの会話のような演奏を繰り広げる。ブラームスは、当初この曲を交響曲に考えていたようで、ピアノ協奏曲というよりは、交響曲に雰囲気が似ている。初演当時の聴衆がピアノ協奏曲らしさを求めてブーイングしたのも何となく分る気がする。途中でホルンとピアノがもつれ合うように演奏するところは、幻想的な雰囲気がたっぷりで、これはいい。しかし、また突如荒々しい雰囲気に戻り、ピアノとオーケストラの決闘のような場面が繰り広げられ、聴くものは冒頭出会ったような緊張感を強いられるが、これはこれで、心地よい緊張感とでもいったらよいのであろうか。大曲を聴いた満足感に浸れる。

 第2楽章は、第1楽章と打って変わって、オーケストラの静かな静かな出だしで始まる。何か深い森の中を、あてどもなくさ迷い歩いているような雰囲気がする。ピアノも第1楽章とは様変わりして、内省的な宇宙空間をつくりあげる。ブラームスは、ピアノ独奏曲で幾つかの間奏曲を残しているが、この楽章を聴いていると、これらの間奏曲に類似性を見る思いがする。心が内に向かい、彷徨しているかのようだ。第1楽章が交響曲的とすれば、この第2楽章はピアノ独奏曲ような雰囲気とでも言ったらよいのであろうか。さすがブラームス、その対比を見事描きり、ただものではないことが分る。若きブラームスの内に秘めた情熱はまっこと熱い。最後の第3楽章は、第1楽章、第2楽章を超え、ロンド形式のまこと華麗な軽がるとした足取りの曲に仕上がっており、ここでも変化の妙がまた楽しめる。クリフォード・カーゾンのピアノそれにジョージ・セル指揮/ロンドン交響楽団の演奏は、完璧なほど正確で壮麗な建築物を見ているようで美しい。満足。(蔵 志津久) 

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◇クラシック音楽CD◇バックハウスとベーム指揮ウィーンフィルのブラームス:ピアノ協奏曲第2番

2010-05-11 09:27:50 | 協奏曲(ピアノ)

ブラームス:ピアノ協奏曲第2番
モーツアルト:ピアノ協奏曲第27番

ピアノ:ウィルヘルム・バックハウス

指揮:カール・ベーム

管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

CD:DECCA 466 380‐2

 バックハウスのピアノ演奏は、伝統的なドイツピアノ音楽にしっかりと根付いて、安定感のある、どっしりとした構えが、リスナーに圧倒的な印象を与える。若い頃は、卓越した技巧も加わり“鍵盤の獅子王”と呼ばれていたほどだ。ギーゼキング、ケンプそれにバックハウスを並べて聴くと、伝統的なドイツピアノ演奏という共通点以上に、もっと似通った何かが隠されているように思う。それは、ピアノに真摯に向き合い、あたかも聖職者が音楽の神にかしずいているかのように演奏し、その背後から我々リスナーがその演奏を聴いているように私には思える。そしていつも、その演奏空間にはピーンとした程よい緊張感の糸が張りめぐらされているかのごとくに・・・。

 今のピアニストには、そんな感覚は希薄だ。徹底的に聴衆にサービスする精神が身についており、良くも悪くも分りやすい音づくりを心掛けている。これはこれで我々リスナーにとっては音楽を気楽に楽しめて、大変良いことなのではあるのは事実であるのではあるが・・・。そんな今風の演奏に慣れ親しむと、逆にバックハウスのような、何事にもたじろかづ、ただ己の信念にだけ沿ってピアノ演奏を行うという、確固とした信念に基づいた演奏の何かが懐かしいのだ。物分りの良い親は、それはそれでありがたい存在ではあるが、時として頑固親父に対して郷愁を覚えるのに、何かしら似ている。昔のクラシック音楽リスナーは、バックハウスのような演奏者が多かったので、聴く時は、あたかもクラシック音楽と格闘をするかのような雰囲気を、多かれ少なかれ誰もが持っていたと思う。

 ところで、今回のCDは、そんな伝統的ドイツピアノ演奏の元祖みたいなバックハウスが、これもドイツ音楽の王道をいくブラームスのピアノ協奏曲第2番を弾いた名盤である。ブラームスのピアノの作品は、どれも晦渋でとっつき難い。2曲のピアノ協奏曲ともご多分にもれず、相当ごっつい曲なので、そう気安く聴けるものではない。しかし、別の見方からすると、2つの曲とも交響曲以上に交響曲雰囲気を持ったピアノ協奏曲であり、内容が深い。特に第2番のピアノ協奏曲は、全部で4楽章からなる大曲だ。冒頭のホルンの浪漫に満ち溢れた出だしを聴いたら、一挙に引き付けられてしまう。第1楽章は、流れるようなピアノの演奏としっとりとした管弦楽の調べが程よく絡み合って、ピアノ協奏曲の醍醐味を存分に味わうことができる。第2楽章は、情熱的な主題が聴くものを圧倒する。この情熱もいかにもブラームスらしく重々しいところが、好き嫌いが分かれるところであろう。

 第3楽章は、これがまた素晴らしくロマンチックな曲を形づくる。ピアノと管弦楽の合間にチェロが朗々とした夜想曲的な演奏を奏でる。この辺は、ブラームスのいいところが前面に顔を覗かせるので、どなたにもお勧めだ。ブラームスのピアノ協奏曲はどうもと腰が引けるリスナーには、それならこの第3楽章だけでもどう、と言っても見たくなるほどの出来だ。最後の第4楽章は、舞曲調の軽やかな(軽やかといってもブラームス的な軽やかさ)楽章でありながら、堂々として大曲の最後を締めくくるのにふさわしい。モーツアルトのピアノ協奏曲第27番の演奏も、基本的にはブラームスのピアノ協奏曲第27番と同じことが言えるが、バックハウスとしては意外にあっさりと大人しく弾いているなと私には感じられた。しかし、限りない美しさに満ち満ちた演奏だ。

 この2曲の伴奏は、カール・ベーム指揮ウィーンフィルであるが、これがまた考えられる最上の伴奏を聴かせてくれているのは嬉しい限りだ。バックハウスのピアノを引き立て役に徹する一方、曲全体に堂々とした存在感を持たせるのに限りなく成功している。カール・ベームの指揮にも、バックハウス的な懐かしい味がして、何か古き良き昔のクラシック音楽界を思い起こしてしまった。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇モーラ・リンパニーのラフマニノフ:ピアノ協奏曲第1番/第2番他

2010-04-13 09:35:23 | 協奏曲(ピアノ)

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第1番/第2番
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第1番

ピアノ:モーラ・リンパニー

指揮:ヴァルター・ジュスキント
管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団

CD:英オリンピア・コンパクト・ディスクス OCD190

 ラフマニノフは、生涯で4つのピアノ協奏曲を書き残している。ピアノ協奏曲第1番嬰ヘ短調作品1(1890年 - 1991年)、 ピアノ協奏曲第2番ハ短調作品18(1900年 - 1901年)、 ピアノ協奏曲第3番ニ短調作品30(1909年)そしてピアノ協奏曲第4番ト短調作品40(1927年)の4曲である。このうち第2番が図抜けて名高く、映画「逢びき」「旅愁」「七年目の浮気」などで使用され、クラシック音楽でというより、あらゆるジャンルの音楽の中での名曲中の名曲として親しまれてきた。また、第3番は、あらゆるピアノ協奏曲の中で、演奏することが難しい曲の一つ言われており、ピアニスト泣かせの難曲として有名。何故、このようなことになったかというと、ラフマニノフは作曲家としてと同時に、当時ピアニストとしても有名で、2メートルの巨体と同時にその手もまた大きく、他のピアニストが弾きこなせなくても、ラフマニノフだけは楽々と弾きこなせてしまったからだ。

 このラフマニノフのピアノ協奏曲の第1番と第2番それにプロコフィエフのピアノ協奏曲第1番を、英国の女流ピアニストのモーラ・リンパニー(1915年―2005年)が弾いたのがこのCDである。モーラ・リンパニーは、ロンドンの王立音楽アカデミーなどで学び、1983年にロンドンでデビューしている。1940年イザイ国際コンクール第2位入賞。1992年にはデイム(ナイトの女性版。最近ではピアニストの内田光子が授与され話題となった)を授与されている。1992年には来日し、日本のファンに名演奏を聴かせている。ハチャトリアン、プロコフィエフそれにラフマニノフなどのロシア音楽を得意としていたようで、中でもラフマニノフ自身が彼女の演奏を聴き、絶賛したという折り紙付きのものだ。このCDはこの意味で、モーラ・リンパニーが十八番とする曲を録音した貴重なCDである。言ってみれば、“正調小原節”ならぬ“正調ラフマニノフ節”といった趣がある。

 このCDで見せるモーラ・リンパニーのピアノ演奏は、正に男勝り(草食系男性が主流となりつつある今の日本では、この言葉はもはや死語?)とでも言おうか、名前を知らないで聴けば、男性ピアニストではないかと思えるほどスケールの大きな、そして力強さに満ち溢れた名演を聴かせてくれる。そして、何よりもキラキラと華やかさに溢れているピアニズムは、他人の追随を許さない。聴いていてうっとりとしまうほどのメロディーの歌わせ方も素晴らしいし、何よりも活き活きとした表現力には脱帽だ。現役当時、モーラ・リンパニーは“スター・ピアニスト”としての地位にあったわけだが、この録音を聴けば、「な~る程なあ」と即座に納得させられる。こんな華やかなピアニストは、私はこれまでほとんど聴いたことがない。「生まれながらのスター」と言う言葉があるが、モーラ・リンパニーこそスター・ピアニストの星の下に生まれ、そしてスター・ピアニストとしての生涯を送ったということが言えるのではないだろうか。

 ラフマニノフのピアノ協奏曲第1番は、第2番の陰に隠れてあまり目立たないが、これがまた名ピアノ協奏曲なのである。第1楽章の哀愁を帯びたメロディーは劇的な面も持ち合わせており、なかなかいい雰囲気の楽章だ。第2楽章は、静かな愁いを帯びたメロディーがゆっくりと先導し、正にラフマニノフ節全開とでも言ったらいいのであろうか。そして、第3楽章は、一転して激しいピアニズムが全体を覆う楽章だ。活き活きとし、活気と自信に満ち満ちている印象強い楽章となっている。ピアノ協奏曲第2番はあまりにも有名な曲だが、ここでもモーラ・リンパニーは、彼女の特徴を十全に発揮している。このCDで伴奏をしているのは、チェコで生まれ英国で活躍したヴァルター・ジュスキント(1913―1980年)指揮のフィルハーモニア管弦楽団だが、これがまたモーラ・リンパニーからオーラを受けたのか、実に活気のある伴奏をしているのが印象に残る。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇バレンボイム、シフ、ショルティのモーツアルト:ピアノ協奏曲集

2010-03-16 09:26:27 | 協奏曲(ピアノ)

モーツアルト:2台のピアノのための協奏曲K242
         3台のピアノのための協奏曲K365
        ピアノ協奏曲第20番K466

ピアノ:ダニエル・バレンボイム/アンドラーシュ・シフ/ゲオルグ・ショルティ

指揮:ゲオルグ・ショルティ

管弦楽:イギリス室内管弦楽団

CD:ポリドール(LONDON) POCL‐1024

 名女流チェリストのジャクリーヌ・デュ・プレの追悼コンサート「ジャクリーヌ・デュ・プレ アピール コンサート」が1989年6月18日にロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホール(RFH)で開催された。このコンサートに出演したショルティ、バレンボイム、シフの3人が、コンサートの前後に、コンサートで演奏した曲目をスタジオで録音したのがこのCDである。そのこともあってか、このCDを聴くと、あたかもライブ録音のような雰囲気が漂ってきて、緊張感溢れるCDに仕上がっているのが特徴だ。

 デュ・プレは、戦後登場した最高の女流チェリストと謳われ、多くの人々から支持を受けていたが、多発性硬化症に罹り、16年間の闘病生活の後、42歳の若さで1987年10月19日に亡くなっている。バレンボイムの前妻であった。デュ・プレは既にスターであったわけで、突然の病は多くの人にショックを与えた。当時の闘病生活はいろいろと伝えられているが、病床で彼女が「このままでは死にたくない」と泣き叫んだという話は、いよいよこれからチェリストとして円熟期に入ろうとしているときだけに、分りすぎるほど分る。やりたいことが山ほどあったろうに。

 2台のピアノのための協奏曲は、ピアノがバレンボイムとシフ、それに指揮がショルティ、3台のピアノのための協奏曲は、ピアノがバレンボイム、シフ、ショルティ(および指揮)という豪華メンバーによって、これがモーツアルトだ、といわんばかりの典雅な演奏を繰り広げる。3人とも超有名な演奏家ではあるが、ここでは3人が心を一つにして、モーツアルトのそれは美しい世界を描いて見せてくれる。「2台」の活気のある雰囲気、それに「3台」の幽玄とも取れる静かで、透明な美を、空間いっぱいに繰り広げる。ピアノ協奏曲第20番は、ショルティのピアノと指揮で演奏されるが、ショルティのピアノのうまさには脱帽させられる。本職のピアニストと言われても少しもおかしくない名演奏を聴かせてくれるのだ。ゆっくりとしたテンポで一音一音を慈しむようなタッチはに思わず聴き惚れてしまう。

 このCDは、デュ・プレの夫であったバレンボイムが中心となったCDである、ということもできるのかもしれない。バレンボイムは、1942年にアルゼンチンのブイノスアイレスに生まれた、ピアニスト兼指揮者。最近では指揮者の仕事が中心になっているようだ。09年のウィーンからのニューイヤーコンサートの生放送においてウィーン・フィルを指揮していたので、ご覧になった方もおられると思う。私は若い頃のピアニストのバレンボイムの印象しかなかったので、テレビを見て「バレンボイムも随分と年をとったな」という印象が強かったのを思い出す。ピアニストとしては、これまでモーツアルトのピアノ協奏曲全集など数多くの録音を残している。私は、バレンボイムの弾く全集でモーツアルトのピアノ協奏曲の全容をつかめたこともあり、ことさら印象が残るピアニストだ。指揮者としては、これまでパリ管弦楽団、シカゴ交響楽団などの音楽監督を歴任し、07年からはミラノ・スカラ座の客演指揮者に就任しているが、現在もその席にいるのであろうか。今後さらに円熟した演奏活動に期待が掛かるが、バレンボイムは最終的にはピアニストとして名を残すのか?、指揮者として名を残すのか?(蔵 志津久) 

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◇クラシック音楽CD◇フルトヴェングラー指揮シューマン:ピアノ協奏曲/チェロ協奏曲(ライブ録音盤)

2010-03-02 09:30:16 | 協奏曲(ピアノ)

シューマン:ピアノ協奏曲/チェロ協奏曲<ライブ録音盤>

ピアノ:ワルター・ギーゼキング

チェロ:ティボル・デ・マヒュラ

指揮:ウィルヘルム・フルトヴェングラー

管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

CD:ポリドール(ドイツ・グラモフォン)F20G29092

 これは、第2次世界大戦中の、ベルリンが陥落する3年前に行われた、ベルリンでのフルトベングラー/ベルリンフィル演奏会の模様を、ベルリン帝国放送局がテープ録音したライブ録音の一連のシリーズの中の一つで、シューマンのコンチェルト2曲が収められた、今となっては誠に貴重なCDである。今年は、シューマン生誕200年に当る記念すべき年でもあり、今回はこの歴史的録音盤を取り上げたい。歴史的録音というと、その多くが録音状態が良くないもので、聴くのにかなりの精神的修養を必要とするが、この一連の歴史的録音は、音に豊かさというか、まだ厚みが残っていて、他の歴史的録音を聴くより、数段上の音質のレベルで聴くことができ、我がままを言わなければ、現役の録音として聴くことができるのが嬉しいことだ。それだけ、当時のドイツの録音技術が優れていた、ということになるのであろう。

 1曲目のシューマン:ピアノ協奏曲は、1942年3月3日の録音されたもので、1945年5月のベルリン陥落の3年前ということになる。1942年2月に日本軍はシンガポールを陥落させ、戦勝気分にあった反面、米軍からB25により東京が初めて空襲を受けたこともあり、日本では緊張感が高まりつつあった。一方、ドイツは1942年6月に不可侵条約を破り、対ソ侵攻作戦を開始している。つまり、対ソ侵攻の直前のベルリンで行われたコンサートを収録したわけである。一体ベルリンのコンサート会場の雰囲気はどうであったろうか。ピアノのギーゼキングは新即物主義の旗手としてその名声を確立しており、神様のフルトヴェングラーとの共演は、それだけでも人気沸騰とったところであったろう。実際、この録音を聴いてみると、いつもは冷静沈着な、あのギーゼキングがあらんばかりの情熱でピアノのキーを弾きこなす様に圧倒させられる。ギーゼキングにもこんな情熱的な一面もあったんだ、と再認識させられた。これは、これから辿るであろうドイツの行く末を思ってのためか、あるいは情念の指揮者フルトヴェングラーとの共演で思わず、感情が高ぶったためなのか?いずれにしても、数あるシューマンのピアノ協奏曲の録音の中で、音質を除外さえすれば、トップクラスに入れても文句は出ないと思うほどの出来栄えに脱帽してしまう。

 2曲目のシューマン:チェロ協奏曲は、ピアノ協奏曲と同じ年1942年の10月28日に録音されている。チェロのティボル・デ・マヒュラについて、浅学の私としては、どういうチェリストかは知らない。録音も幾つか残されているので機会があったら、さらに聴いてみたいと思う。ここでのマヒュラの演奏は、ギーゼキングとは正反対で、理性を精一杯働かせて、シューマンの精神の内面を覗き込むような、内省的な演奏に終始しているので、ちょっと聴くと物足りない思いもするかも知れないが、これがなかなかの曲者で、逆にシューマンの鬱積した情念といったような、隠されたエネルギーをものの見事に描ききっているのである。マヒュラは、シューマンをただ単に、ロマン派の
巨匠というモンキリ方に捉えるのでなく、より一段と深い精神性で捉えようとしているように思えてならない。フルトヴェングラー/ベルリンフィルは、出だしはピアノコンチェルトと同じく、情熱的に伴奏するが、次第にマヒュラのペースに合わせていく様は、聴いていて面白い。これも、録音状態を除けば、シューマンのチェロ協奏曲の中でも出色の1枚と言ってもいいかもしれない。

 このCDのライナーノート(カルラ・ヘッカー著/岡本稔訳)に、フルトヴェングラーの指揮の特徴について興味深い記述があるので紹介しよう。ベルリンフィルで7年間フルート奏者を務めたハンス・ペーター・シュミッツ氏は「彼(フルトヴェングラー)は、明確に拍を刻む指揮技法は、旋律の自然な流れを乱すものだと語っていた。円を描くような、決して角ばることのない腕と手の動きによって、この指揮者は、機械的な正確さでなく、それに代わるもっと素晴らしいもの、つまり、生命を持つものすべてに適合する、有機的なものを手に入れたのである」と。また、あるときフルトヴェングラーが質問者に答えて「伴奏がろくにつとまらない指揮者など、指揮者でなんかありません!歌手と呼吸を合わせ、本当の共演を進めていくこと、つまりそれは、指揮することが一つの芸術にほかならないということなのです!」と語ったという。フルトヴェングラーは、“振ると面食らう”と言われたように、やはり明確な指揮は嫌いだったことが分るし、伴奏にも真剣勝負で臨んでいたことが、これによってよく分る。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇フランソワ&クリュイタンスのラベル:2つのピアノ協奏曲

2010-02-04 09:32:21 | 協奏曲(ピアノ)

ラヴェル:ピアノ協奏曲
     左手のためのピアノ協奏曲

ピアノ:サンソン・フランソワ

指揮:アンドレ・クリュイタンス

管弦楽:パリ音楽院管弦楽団

 このCDは、1957年7月パリで録音されたものだ。ピアノのサンソン・フランソワと指揮のアンドレ・クリュイタンスは、当時一世を風靡した名演奏家で、この2人によるラヴェルのピアノコンチェルトが聴けるということは、何と幸運なことだ、と思わず呟いてしまったほどだ。その出来栄えはというと、期待に違わぬ名演奏となっている。フランソワの、軽やかの中に濃密な、決して誰にも真似できないピアニズムを一度聴くと、二度と忘れることはできないような雰囲気に包まれる。このCDを聴くと、フランソワの真骨頂は、ショパンよりラヴェルやリストにあるのかしらん、と思うに至ってしまう。クリュイタンスの指揮ぶりも大したもので、ラヴェルの独特のリズムを完全に昇華し、フランソワとのやり取りを、あたかも楽しんでいるようにも聴こえる、正に大家の伴奏といえよう。

 ラヴェルのピアノ協奏曲を初めて聴く人は、その出だしから驚くことになる。ムチの音がバッシッときて、何か機先を制せられる感覚だ。でも第1楽章は、その後和やかなピアノと管弦楽のやり取りが、ゆっくりと流れ、一時はほっとした気分に浸れる。しかし、第1楽章の終わりには、また緊張感が訪れる。そして、第2楽章に入ることになるが、これが誠に美しいピアノの旋律がゆったりと流れる。こんな美しいピアノ協奏曲もそう滅多にあるものではない、と思わず自分に言い聞かせてしまうほどの、限りなく美しい出来栄えだ。あれ、これはラヴェル?と思いつつ、暫しの天国的空間を彷徨う気分。第3楽章は、第1楽章の緊張感が再び訪れる。正にラヴェルの真骨頂発揮!ピアノとオーケストラが激しく絡み合うようにして最後まで張り詰めた感情は解けることはない。

 左手のためのピアノ協奏曲は、全部で1楽章からなるピアノ協奏曲ではあるが、全体は3つの部分から構成されている。第1次世界大戦のために右手を失ったピアニスト、パウル・ヴィットゲンシュタインのためにラヴェルが作曲したピアノ協奏曲だ。第1部は、ゆったりと、そしてピアノの浪々とした音色が鳴り響き、オーケストラも負けじと極彩色の音色を繰り広げる。第2部は、ラヴェルが「このピアノ協奏曲はジャズの効果を多分に取り入れた」と語っていることが、如実に感じられる部分だ。まるでジャズみたいな雰囲気で、なかなか面白い。そして最後の第3部は、オーケストラがマーラーの交響曲のようなスケールの大きい深遠な表現をする一方、ピアノはというと、流れるような旋律を紡ぎ、ピアノ協奏曲の雰囲気を、思う存分楽しむことができる。

 このラヴェルの2つのピアノ協奏曲を聴いて思った。われわれ日本人は、あまりにもドイツ・オーストリアの古典・ロマン派のクラシック音楽に傾斜し過ぎて、フランス音楽などのラテン系のクラシック音楽に疎いことか、と。ベートーヴェンやブラームスの曲を聴いて、直ぐにラヴェルの曲を聴くと大変違和感を感ずる。しかし、ラヴェルやドビュッシーなどのフランス音楽を立て続けに聴くと、違和感どころか日本人の感覚に近い、親しみを感じることができる。わが国が誇る世界的な作曲家の武満徹は、ドビュッシーに影響を受けた、と言われている。皆さん、ラヴェルの2つのピアノコンチェルトを聴くときだけは、既成概念を捨て去ろうではありませんか。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇サンソン・フランソワのリスト:ピアノ協奏曲第1番/第2番

2009-08-11 09:10:58 | 協奏曲(ピアノ)

リスト:ピアノ協奏曲第1番/第2番

ピアノ:サンソン・フランソワ

指揮:コンスタンティン・シルヴェストリ

管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団

CD:新星堂1000クラシックス ANGEL1000(EMI SAN-19)

 このピアノ協奏曲第1番/第2番のCDは、サンソン・フランソワの迫力のあるピアノ演奏に圧倒されてしまう。フランソワはショパンを弾くときは、“幻想のフランソワ”などという形容詞が付くほどのファンタジー溢れる演奏でリスナーを魅了するが、ここでのフランソワは、そんな幻想的な雰囲気は一掃して、ラテンの天性にそった自由奔放な演奏ぶりを披露している。果たしてどっちが本当のフランソワの実像なのであろうか。フランソワはかつて「ベートーベンの音楽は性に合わない」(そのくせベートーベンの3大ピアノソナタの名盤を残している)と言い放って、ラテン精神の持ち主であることを誇示したことを見ると、どうもフランソワは本質的にリストが大好きのように感じられる。このCDでもリストの曲芸のような曲想を盛り上げると同時に、ロマン的なりも存分に盛り込むことに成功している。

 ところで、リストのピアノ協奏曲、特に第1番は誰もがクラシック音楽に馴染み始めたときに一度は聴く曲である。それだけに耳の肥えた年季の入ったリスナーはあまり聴くチャンスに恵まれないケースが多い。特にハンスリックが「トライアングル協奏曲」と第1番をからかったこともあって、何か初心者向きの曲という固定概念が定着しているような気がする。私も今回暫くぶりに第1番を聴いたが、なかなかいいピアノ協奏曲であることを思い知らされた。ここでのはっきりとした旋律やリズム感は通常のクラシック音楽ではなかなか味わえないものだ。

 それにリストのピアノ協奏曲は、第1番も第2番も全部の楽章が間を置かずに演奏されるが、これが意外に新鮮に感じられる。第2番は第1番ほど有名でないが、内容の点では第1番を凌いでいるといってもよいであろう。リスト自身は第2番のピアノ協奏曲に“交響的協奏曲”と名づけていたようだが、通常のピアノ協奏曲とは違い、“交響詩”とか“幻想曲”に近いという感じだ。第2番は現在、もっと聴かれてもいいピアノ協奏曲のように思うのだが・・・。

 このCDで指揮をしているコンスタンティン・シルヴェストリ(1913年ー1969年)は、年季の入ったリスナーの方には懐かしい名前であるのに違いない。ルーマニア出身で、ルーマニア国立放送管弦楽団やイギリスのボーンマス交響楽団の首席指揮者を務めた。1967年にはイギリスに帰化し、ロンドンで亡くなった。1964年には来日しNHK交響楽団を指揮している。演奏スタイルは個性的であったようで、このCDでの
指揮ぶりもエキセントリックとでもいった方が当てはまるような、熱演を披露している。これはフランソワに触発されたものなのか、または逆にフランソワのラテン魂を呼び覚ましたのがシルヴェストリだったのかは分からないが、テンションの高い指揮でフランソワのピアノを守り立てているのが印象的なCDだ。(蔵 志津久)

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