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★ 私のクラシック音楽館 (MCM) ★ 蔵 志津久

クラシック音楽研究者 蔵 志津久によるCD/DVDの名曲・名盤の紹介および最新コンサート情報/新刊書のブログ

◇クラシック音楽CD◇小山実稚恵のラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番とパガニーニの主題による狂詩曲

2012-10-23 10:39:01 | 協奏曲(ピアノ)

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
        パガニーニの主題による狂詩曲

ピアノ:小山実稚恵

指揮:アンドリュー・デイヴィス

管弦楽:BBC交響楽団

CD:Sony Record SRSC9140

 小山実稚恵のピアノ演奏は、いつも暖かみに満ち溢れており、濁りが無い。美しいピアノの音色を随分と大切にするピアニストだなといつも思う。豊かさを内包したピアノ演奏なのだが、単に優美であるというだけでなく、曲の表情を巧に描き分ける。かつて彼女が弾くスクリャービンの夜想曲の実演を聴いたが、その情緒の満ち溢れた美しくも、非の打ち所のないピアノ演奏に聴き入ったものだ。普通、優美で音の綺麗なピアニストは、往々にして、音のつくりが弱々しくなりがちだ。しかし小山実稚恵のピアノ演奏は、少しもそのようなことはなく、芯の太さも同時に持ち合わせている。彼女自身好きなピアニストは、ルービンシュタインとホロビッツだそうであるが、これこそ彼女のピアノ演奏の特徴を言い当てている。ルービンシュタインの優美さとホロビッツの鋭さとがかみ合ったような演奏が、小山実稚恵の演奏の特徴ではなかろうか。

 そんな小山実稚恵が、英国の指揮者のアンドリュー・デイヴィスとBBC交響楽団の伴奏で、ラフマニノフの名曲、ピアノ協奏曲第2番とパガニーニの主題による狂詩曲とを録音したのがこのCDである。ラフマニノフの曲は、いまでこそクラシック音楽には欠かせない曲が多いいが、作曲時には、必ずしも全てが受け入れられたわけではない。その中でピアノ協奏曲第2番は、最初から賞賛を受け、現在でも最も人気の高いピアノ協奏曲として君臨している。全3楽章に流れる優美な旋律を聴いていると、夢の中にいるみたいな気分に浸れる。クラシック音楽とポピュラー音楽との境界線を彷徨っているような曲でもあり、誰もが素直に聴くことができる。それだけに、演奏家自身の実力が赤裸々に表面化されるという面も持ち合わせる曲でもある。ただ、表面的に弾いてもこの曲が持つ深い味わいは、到底表現できない。つまり、口当たりがいいからといって、演奏する方も、聴く方も、安易に流されないことが肝要なのだ。

 小山実稚恵とアンドリュー・デイヴィス&BBC交響楽団は、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番をどう演奏しているか、早速聴いてみよう。第1楽章の最初から、かなりゆったりと始まる。心が内へと向かうように、静かな中に強い意志力が感じられる演奏である。通常、この第1楽章は、ピアニストの華麗な演奏だけが強く印象に残るが、小山実稚恵はその逆を行く。何か独白のような演奏である。なるほどピアノ協奏曲第2番の第1楽章は、こんな側面が隠されていたのだと思わせる。演奏が小山流に消化されたものに仕上がっているのだ。第2楽章は、誠に夢幻的な演奏で始まる。濃霧の中を一人彷徨うような幻想的な気分に包まれる。もうこうなると小山実稚恵の独壇場だ。柔らかで繊細な音は、聴くもの全てに、平穏な日々の営みを思い起こさせる。例え現実がどんなに過酷であろうとも・・・こんな世界が誰にも一度はあったし、これからもそうでありたいと願っているようにも感じられる演奏である。最後の第3楽章は、これまでの彷徨から、辿り着く終着点が発見できたかのように、明るく、力強く、そして小山実稚恵独特の暖かみのある美しい音が聴かれ、救いの手が差し伸べられたかのようでもある。ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番は、通常、スケールを大きくとり、力強く弾かれることが多いが、こんな詩的に弾かれた演奏を、私はこれまで聴いたことがない。

 パガニーニの主題による狂詩曲は、ラフマニノフがピアノと管弦楽のために作曲した最後の曲。主題となる部分は、パガニーニ:無伴奏カプリースの最後の第24番から採り、これを24回演奏し、最初と最後に、短い序奏とコーダを付けたピアノと管弦楽のための変奏曲。このピアノ演奏には、かなりの技巧を要すると思われるが、小山実稚恵は水を得た魚のように嬉々と弾き進む。ただ、そこは小山実稚恵。時々、立ち止まり、限りなく優美に、そして幻想的な演奏を織り交ぜて演奏していく。例えば、第12変奏曲では限りなく優美に、次の第13変奏曲では力強く、圧倒的なテクニックの冴えを披露する。そして、誰もが一度は聴いたことのある第18変奏曲では、スケールの大きな演奏を、伴奏のアンドリュー・デイヴィス&BBC交響楽団ともども聴かせてくれ、満足のいく仕上がりとなっている。指揮のアンドリュー・デイヴィスは、1989年から2000年までBBC交響楽団の音楽監督を務め、2012年からはメルボルン交響楽団音楽監督に就任。このCDでは、小山実稚恵と息がピタリと合った伴奏を聴かせている。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇ハンガリー出身の演奏家達によるバルトーク:ピアノ協奏曲第1番~第3番

2012-03-06 10:57:26 | 協奏曲(ピアノ)

バルトーク:ピアノ協奏曲第1番~第3番

ピアノ:イェネ・ヤンドー

指揮:アンドラーシュ・リゲティ

管弦楽:ブタペスト交響楽団

CD:NAXOS 8.55 0771

 バルトーク(1881年―1945年)は、ハンガリー出身の作曲家として、クラシック音楽界において、その名は永遠の光を放ち続けている。その理由は、民族音楽への深い傾斜の結果作曲された、名曲の数々にある。「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」「管弦楽のための協奏曲」「2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲」「オペラ『青ひげ公の城』」「弦楽四重奏曲集」など、現在コンサートで取り上げられるバルトークの名曲は多い。これは民族音楽に根差した曲が多いため、音楽が地に付いており、決して浮ついた印象を与えないためではなかろうか。いずれも少々とっつき難い曲であることは否定できないが、その内容の充実さが、それを補って余りある。

 今回のCDは、内容の充実度ではピカイチではあるが、ポピュラリティの面では、今ひとつという3つのバルトークのピアノ協奏曲を聴いてみよう。第1番は、ピアノを打楽器のように扱い、ジャズの感覚にも似た垢抜けたピアノ協奏曲としての素質が光る作品で、現代の今、我々が聴いてぴったりとした感覚がなかなかいい。第2番は、土俗的なパワーを内包したエネルギー感溢れる曲。そして、バルトーク自身、白血病と戦って尽き果てるまで書き続けたという、天国的な美しさ溢れる第3番。これらの3曲を、このCDでは、バルトークと同じハンガリー人の演奏家たちが、共感を持って演奏しているのが最大の特徴となっており、聴き終えた後もその余韻が残るほどの熱演だ。

 ピアノ協奏曲第1番は、1926年に作曲されたバルトークの意欲作。「バルトークの新古典主義時代の幕開けを告げる作品であり、バロック音楽への関心が増してから着手された曲」とあるが、受ける印象は、むしろ従来のバルトークらしい革新的感覚を失わずに持ち、管弦楽伴奏についても土俗的な民俗音楽的側面を持っている。モーツァルトとかベートーヴェンのピアノ協奏曲から最も遠い感覚のピアノ協奏曲の一つとして、レパートリーの一つに加えておくと、将来のリスナーライフを一回り大きなものとすることが出来るような作品。

 ピアノ協奏曲第2番は、1930年―1931年に作曲された。ここでは、ピアノは打楽器的に使われ、ピアノ演奏が難しい曲として知られている。しかし、第1番ほど革新的ピアノ協奏曲ではなく、情緒的な面も併せ持つ曲として、第1番に比べてより親近感を持って聴くことができる。ピアノ協奏曲第3番は、1945年に作曲された、自身で作曲できた最後の作品と言われている。3曲のピアノ協奏曲の中では、最も親しみやすい感覚を持った曲。絶筆ともなった曲であるだけに澄んだ精神性が印象的であり、特にバルトークのこれまでのピアノ協奏曲にはない平明さを持った曲に仕上がっており、聴きやすい。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇マルタ・アルゲリッチのショパン:ピアノ協奏曲第1番/第2番

2012-02-07 10:28:12 | 協奏曲(ピアノ)

ショパン:ピアノ協奏曲第1番/第2番

ピアノ:マルタ・アルゲリッチ

指揮:シャルル・デュトワ

管弦楽:モントリオール交響楽団

CD:EMIユージック・ジャパン TOCE‐14003

 ショパンのピアノ曲は、人を心を底から揺さぶる“魅力”と“魔力”とを兼ね備えている。サロン風の浮世離れした世界の音楽と思って聴いていると、突如として人の胸にぐさりと刺し込まれる剣のような鋭さが隠されている。春の心地よい風に誘われているような、その音楽にうっとり聴き惚れていると、突然、真冬の木枯らしが吹く絶海の孤島に立たされているような絶望感を味合わされる。そんな音楽であるからこそショパンのピアノ曲は、現代の我々が聴いても魅力は尽きないし、そして、これからもその魅力が尽きることはないであろう。そんなショパンは、2曲のピアノ協奏曲を我々に残してくれた。この2曲は、何ものにも代え難い、ショパンからの贈り物である。もし、今、クラシック音楽界からこの2曲のピアノ協奏曲が消滅してしまったとしたら、私のクラシック音楽リスナー生活は随分と寂しいものになってしまうだろう。同じ考えのリスナーの方も少なからずおられると思う。この2曲は、オーケストレーションの弱点を指摘されることがしばしばで、特別にピアノ協奏曲の歴史を塗り替えたわけではないのであるが、その内面から発する情念は、聴くもの一人一人に直接訴え掛けているようでもあり、聴き終えた後に強烈な印象を残さずにはおかない。

 このCDは、マルタ・アルゲリッチが心の奥底からこの2曲に共感し、曲との一体感が聴き取れる類稀な録音となっている。アルゲリッチは、表面的にこれら2曲を弾くことはしていない。ショパンの心情に入り切ってというより、ショパンの心に乗り移ったかのような演奏なのだ。元夫のシャルル・デュトワの指揮も、そんなアルゲリッチに寄り添うように情感溢れる伴奏ぶりでサポートしていて見事である。この2つの曲は、第2番の曲の方が先に作曲され、第1番が後につくられた。第1番は、青年が、これからの飛躍する自分の人生を見据えたかのように、高揚感に満ち満ちた若さが躍動している。この背景には、故郷ワルシャワへの告別というショパンの思いが込められていることを窺わせるのである。一方、第2番は、第1番と比べ地味な印象を受けるが、逆にショパンの内面の吐露という面からは、第1番以上の充実ぶりを窺わせる。特にラルゲットの第2楽章は、ショパンの初恋の女性コンスタンチア・グラドコフスカへの思慕の情を綴ったものと言われており、その美しさは例えようもない。演奏するマルタ・アルゲリッチは、1967年、第7回ショパン国際ピアノ・コンクールで優勝し、以後一貫して世界のピアノ界の第一人者として現在に至るまで活躍している。最近では、毎年のように来日しており、現在、別府アルゲリッチ音楽祭の総監督を務める。今回の東日本大震災では、CDを発売するなどして支援活動にも力を入れている大の親日家でもある。

 第1番の第1楽章は、実に堂々とした長いオーケストラ伴奏で始まる。リスナーの、これから始まる曲に対しての思いを掻き立てるような、見事な演出となっている。続くピアノ演奏は、何か物語の始まりのようでもあり、実に華やかな出だしとなっている。アルゲリッチは、あまり大乗段に振りかぶることなく、粒の揃ったピアノタッチで美しく弾き進む。リスナーはもうアルゲリッチの虜になってしまう。第2楽章は、実に澄んだ美しいオーケストラ伴奏が先導する。アルゲリッチは、完全にショパンの世界に没入し、幻想的な名演を繰り広げる。底には、あらゆるピアノ曲の中でも1、2を争うような絶妙な美しさが交差し、絵も言われぬ情景が繰り広げられていく。デュトワの伴奏も、アルゲリッチの演奏にピタリと息を合わせ、その一体感は他に例がないほど。第3楽章は、軽快なピアノ演奏が聴くものに心地良い印象を与えずにはおかない。アルゲリッチのピアノは、ここでも必要以上に力まず、ある意味では幻想的とさえ言えるような陰影を付けた演奏に徹しており、これにより曲全体がきりっと引き締まり、すがすがしさすら漂わせる。

 第2番の第1楽章は、何か陰鬱な雰囲気の長いオーケストラ伴奏でスタートする。これだけ聴いても第1番との曲の性格の違いを窺わせる。アルゲリッチのピアノ演奏も第1番と少々趣を変え、華やかさとは一線を画し、心の奥底へと引き込まれるような深みのあるものに徹しているようだ。何か独白をしているピアノを聴いているようにも思えてくる。しかし、決して暗さだけでなく、何か若者らしい青春の息吹も仄見えてくるのだ。アルゲリッチはこの辺の心理描写において、他のピアニストには到底真似できない、独自の世界を繰り広げる。実に聴き応えのある演奏である。第2楽章は、ショパンの初恋の女性コンスタンチア・グラドコフスカへの思慕の情を綴ったものと言われている通り、この世のものとも思われない美しさに彩られた曲。アルゲリッチの演奏は、ゆっくりと美しく、一人物思いに耽るような神秘的な表情が絶妙であり、聴くものに極上の思いを届けてくれる。第3楽章は、実に軽快なピアノ演奏で始まる。アルゲリッチのピアノ演奏は、夢から覚めたように縦横に走り始めるが、決して粗野にはならない。詩的な香りを残しながら、ピアノの力強さもちりばめた演奏内容となっており、聴いていて思わずうきうきして来る。ここでもデュトワの伴奏がきらりと光る。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇ギレリス&ライナー指揮シカゴ交響楽団のチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番

2011-03-22 11:25:23 | 協奏曲(ピアノ)

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番

ピアノ:エミール・ギレリス

指揮:フリッツ・ライナー

管弦楽:シカゴ交響楽団

CD:IMD MUSIC DISTRIBUTING  ANDRCD 5100/3

 ロシア(旧ソ連)の生んだ名ピアニストのエミール・ギレリス(1916年―1985年)は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を数多く録音している。「私のクラシック音楽館」でもこれまで、1971年にムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(現サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団)と録音した盤、1979年にメータ指揮ニューヨーク・フィルと録音した盤の2つを既に紹介済みである。今回のCDは、1955年10月29日にライナー指揮シカゴ交響楽団と録音した盤なのである。結論から言えることは、これまでの録音より20年ほど前に録音されたためか、ギレリスの実に若々しいピアノ演奏が聴かれ、これはこれでチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の名盤と言えるものになっており、数多くある同曲の録音の中でも、今後も生き続ける価値のある1枚と言える。指揮のフリッツ・ライナーもこのときばかりは、いつもの強烈な個性でシカゴ響を引っ張っていくこともなく、ギレリスとの優雅な対話を楽しむがごとき指揮ぶりを見せており、聴いていて十分に楽しめる。

 旧ソ連は、芸術家が西側で自由に活動しずらい体制であったにもかかわらず、ギレリスだけは、西側での活動が自由に認められというから、その実力のほどが偲ばれる。1929年に13歳でデビューし、1930年にオデッサ音楽院へ入学。1933年、17歳で全ソ連ピアノコンクール優勝。オデッサ音楽院を卒業後、1937年まで有名なゲンリフ・ネイガウスに師事した。1938年、22歳でイザイ国際コンクール優勝している。以後、ヨーロッパ、アメリカでもデビューを果たし、当時、世界的な名声を得て、その強烈なピアノタッチから“鋼鉄のタッチのピアニスト”と呼ばれた。日本でも演奏活動を行っている。ソ連政府からは、1946年にスターリン賞、1961年と1966年にはレーニン勲章、1962年にはレーニン賞を受賞したとあるから、当時のソ連政府からも信頼が厚かったことが裏付けられる。現在NHK交響楽団の桂冠指揮者のウラジミール・アシュケナージなどは、亡命してようやく西側での演奏活動を続けられたのだった。ギレリスのようなケースは、当時そう多くはなかった。それほど、当時の東西の双方から支持された豊かな能力を持ち合わせていたということであろう。

 早速、エミール・ギレリスの弾くチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番を、フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団の演奏で聴いてみよう。第1楽章の有名な出だしのフレーズからして、実に軽快にギレリスのピアノ演奏が始まる。当時ギレリスは35歳であり、ピアニストとしてこれから成熟を迎えようとしている時期なのだ。ここには“鋼鉄のタッチのピアニスト”と呼ばれた面影は、あまり強くは感じられない。むしろ、ナイーブな感じが強く、微妙なピアノのタッチが鮮やかな色彩感がリスナーを優しく包んでくれる。そんなギレリスの演奏スタイルを意識してか、いつもは、“豪腕”で鳴るライナーもここではとても優雅なピアノ伴奏に徹している。この辺を聴くと、当時のギレリスの力というものを無言で感じる。「ギレリス、ライナーをも走らす」とでも言ったところか・・・。ただ、時折ギレリスが見せる鋭く、スケールの大きなピアニズムは、後年の演奏振りを彷彿とさせる。ただ、ここではギレリスが洗練されたチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番を披露しているのにはびっくりさせられる。この辺が当時、東西双方の音楽界から支持を受けた秘密がありそうな気がする。それにしても、ここでギレリスは、何と優雅なチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番聴かせてくれるのであろうか。思わずうっとりと聴きほれてしまうほどの乗りなのである。

 第2楽章は、第1楽章の続きというより、さらに繊細さが増したギレリスのピアノが一際光る。ライナー&シカゴ響もギレリスに合わせるように幻想的ともいえる見事な伴奏を聴かせてくれる。この楽章でのピアニストとオーケストラのやり取りは、これまで聴いたことのないような世界へとリスナーを自然に誘う。もう、こうなるとロシアの民族色といった匂いは、ほとんど感じられない。良くも悪くもグローバル化されたチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番の演奏とでも言ったらいいのかもしれない。第3楽章に入ると、ようやくお待ちどう様とも言いたげに、ギレリスのピアノ演奏が炸裂し、それに呼応するかのようにライナー&シカゴ響が従来の持ち味を発揮してギレリスのピアノ演奏を盛り上げる。この辺の演奏を聴くと、名人同士の横綱相撲とでも言ったらよいような醍醐味に酔うことができる。そして最後に来て、このチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番の演奏は、ギレリスとライナー&シカゴ響の計算し尽くされた演奏だったのとに気づく。しかし、それはごく自然に聴こえるため、リスナーは少しの違和感も抱くことはない。やはりこの録音は、名人同士の考え抜かれた、レベルの一段と高い演奏だったのだ、ということを強く思い知らされた。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇シュナーベルのモーツァルト:ピアノ協奏曲/ピアノソナタ選集

2011-03-01 11:31:21 | 協奏曲(ピアノ)

モーツァルト:ピアノ協奏曲第19、20、21、24、27番
        2台のピアノのための協奏曲
        ピアノソナタ第12、16番
        ロンドKV.511

ピアノ:アルテュール・シュナーベル
    カール・ウルリッヒ・シュナーベル(2台のピアノのための協奏曲)

指揮/管弦楽:マルコム・サージェント/ロンドン交響楽団(第19、21番)
          エイドリアン・ボールト/ロンドン交響楽団(2台のピアノのための協奏曲)
          ジョン・バルビノーニ/フィルハーモニア管弦楽団(第27番)
          ワルター・ジュスキント/フィルハーモニア管弦楽団(第20、24番)

CD:EMI CHS 7 63703 2

 アルテュール・シュナーベル(1882年―1951年)は、オーストリアの名ピアニストで、わが国において、特にベートーヴェンのピアノ演奏にかけては右に出るものはいないと言われるほど、その名は当時轟き渡っていたので、年配のリスナーには懐かしいピアニストであろう。シュナーベルはウィーン音楽院で学び、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番でソリストとしてデビューしたというからモーツァルト演奏にかけても一寡言あるのであろう。フルトヴェングラーらと共演をしたりしている。1927年にベートーヴェンのピアノソナタの全曲演奏を7夜にわたって開催し、「ベートーヴェン弾き」としてのその名を不動のものとする。1938年からはアメリカに本拠を移して活動を開始している。第二次大戦後はアメリカとヨーロッパを行き来しながらコンサート活動を行った。その演奏スタイルは、ギーゼキング(1895年―1956年)と共通する「新即物主義」に傾倒したような雰囲気を漂わせている。多分それは、当時最先端の演奏スタイルであったのであろう。基本は楽譜に忠実で理知的な演奏であり、あまり主観的に溺れないところに、今でも新鮮さが感じられるのである。

 今回のCDは、そんなシュナーベルがモーツアルトのピアノ協奏曲とピアノソナタを3枚のCDに収めたもので、シュナーベルのモーツアルト演奏を存分に聴くことができる貴重な録音。録音は一番古いのが1934年で、一番新しいのでも1964年と、今から70年以上前のもの。しかし、録音状態は比較的良く、音量も豊富で、現在鑑賞するのにそれ程支障とはならない(勿論、現在の録音レベルとは比較にはならないが)。ただ、ピアノ協奏曲第27番の録音状態だけは、あまり勧められない(しかし、この演奏内容が一番いいのだから皮肉なことだ)。現在ではこんなCDは入手不可能だろうと思ってアマゾンを探してみたら、何と入手可能であった。ほとんどがベートーヴェンの演奏の録音の中にモーツアルトが2枚あった。1枚は、ピアノソナタ第8、12、16番を収めたもの、もう1枚は、ピアノ協奏曲第27番と2台のピアノのための協奏曲を収めたものである。

 シュナーベルが演奏したものの録音状態は、決して良くないが、これらの録音を年配のリスナーが昔を思い出して聴くためだけにあるとしたら、あまりにもったいないと私は考えている。何故かと言えば、現在これほどの集中力で曲の本質に迫る演奏家は非常に少なくなっているからだ。今の演奏家の多くは、コンサート会場で、演奏技巧の高さだけを競っているように聴こえてならない。・・・少なくとも私には。これは、現在コンクール第一主義が幅を利かせて、有名なコンクールで1位にならなければ一流の演奏家として認められない風潮が蔓延していることと無縁なことではあるまい。シュナーベルの弾くモーツァルトは、どれも余分な装飾的な部分をそぎとり、モーツァルトがつくりだそうとした音そのものに迫ろうとしている姿勢がひしひしと感じられる。その結果として、逆にモーツァルトらしい豊潤な雰囲気がそこはかとなく漂ってくるのだ。そこには、今の演奏家には求められないような、音楽に対する厳しい姿勢が感じられる。

 モーツァルト:2台のピアノのための協奏曲は、シュナーベルが息子のカール・ウルリッヒ・シュナーベルと共演した録音で、何ともインティメイトな雰囲気が楽しい。何の理屈も必要ないモーツァルトの世界が広がる。この曲1曲聴いただけで今の演奏とは何かが違うことが聴き取れる。現在の演奏家はモーツァルトを解釈しすぎて、聴いていて疲れることが多い。それに対しシュナーベル親子の演奏するモーツァルトは何と自然であることよ。それに音がピュアなのだ。モーツアルト:ピアノソナタ第12番を聴いてみよう。ここでは、シュナーベルは思いきっリ劇的な演出を利かせてモーツァルトを弾いていることが分る。モーツァルトのピアノソナタほど演奏するのに難しい曲はないというピアニストいるくらい、ある意味で難曲だ。ただ、楽譜のまま弾いては面白くもおかしくもない。シュナーベルの弾くモーツァルトのピアノソナタは、何か物語を聞かせてもらっているようで、心が安らぐ。この一連のモーツァルトの録音で残念なのがピアノ協奏曲第27番だ。演奏内容は、超一品なのに録音状態があんまり芳しくない(それでも鑑賞には堪えられる範囲)。ここでシュナーベルは、モーツァルトがピアノ協奏曲で到達した至高の精神を、自己の中で完全に消化し弾き進む。特に第2楽章の演奏は異常にゆっくりとしたもので、何か神がかりのような神秘的な趣さえ漂わす。私はこんな深いモーツァルトのピアノコンチェルトの演奏を、これまで聴いたことがない。(蔵 志津久)      

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◇クラシック音楽CD◇ギーゼキングのベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番 他

2011-02-08 13:48:11 | 協奏曲(ピアノ)

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番(1)
リスト:ピアノ協奏曲第1番(2)
フランク:交響的変奏曲(3)
ショパン:舟歌

ピアノ:ワルター・ギーゼキング

(1)
指揮;ハンス・ロスバウト
管弦楽:ベルリン国立歌劇場管弦楽団

(2)(3)
指揮:ヘンリー・ウッド
管弦楽:ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

CD:仏EMP FDC 2008

 このCDは、ドイツの名ピアニストのワルター・ギーゼキング(1895年―1956年)が残したいわゆる歴史的名盤(録音はベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番が1937年、リスト:ピアノ協奏曲第1番とフランク:交響的変奏曲が1932年、ショパン:舟歌が1939年)と今から80年近く前の録音である。通常だとこのくらい古い録音は、音質が悪く紹介するのに気が引けるのであるが、この録音は奇跡的といってもいいくらい良好な音質を保っており、現在聴いてもそう違和感なく聴くことができる。しかも演奏の内容が各曲とも最高のレベルに達しており、この録音を越える演奏の録音は、現在に至るまでもそう多くはないと断言できるほどである。ギーゼキングは、ドイツ人の両親のもとフランスで生まれている。私はギーゼキングを紹介する時は必ず新即物主義のピアニストということを第一に挙げてきた。新即物主義とは当時流行った演奏形式を指す。当時は、主観的な演奏が主流を占め、この結果作曲者書いた楽譜とは大きく異なった演奏が幅をきかせていたわけである。これに対し新即物主義は、あくまで楽譜に忠実に演奏しようという、ある意味では原点回帰の運動であったわけである。

 といわけで、ギーゼキングと聞くと正確な演奏スタイルを直ぐ思い浮かべるわけである。ギーゼキングが何故新即物主義に傾倒したかというと、類稀な暗譜能力と演奏技法の両方が備わってたからというのが答えになる。つまり、楽譜に忠実にといわれても、暗譜能力と演奏技法の両方が備わっていないと実現不可能であり、新即物主義の演奏スタイルを身に付けられる演奏家は、当時そうは多くはいなっかったというのが正解である。そんなギーゼキングがベートーヴェン、リスト、フランク、ショパンを弾いたのがこのCDである。普通のピアニストなら別段変わった選曲ではないが、ことギーゼキングがこれらの曲を弾いたとなると、一体どういうことになるのか皆目見当もつかないのだ。コチコチのベートーヴェンやリストが現れてくるのか、それとも・・・。結果は、予想に反してロマンの香り高い秀演に終始している。これがギーゼキングか、と思わせるような情緒たっぷりな面も覗かせる。

 ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番は、ギーゼキングは思いっきり愉しんで弾いているような軽やかなピアノタッチが印象的だ。私はギーゼキングに録音はかなり聴いているが、こんなに軽やかで陽気なギーゼキングを聴いたのは初めてだ。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番は、第2番の協奏曲の方が先に作曲されたため、2番目に当るピアノ協奏曲。第2番よりも個性的な側面を持っており、いわゆるベートーヴェンらしさの萌芽が随所に見られる。ベートーヴェンがピアノ協奏曲第1番を作曲したのは、1800年、30歳の時だ。初めての自主演奏会でも演奏されている。それだけ自信作であったのであろう。時代もフランス執政政治が崩れ、ナポレオンが頭角を現す時代へと移り変わりつつあった。ベートーヴェンにとって大変嬉しい時代であったに違いない。同時に自身の難聴の悪化に悩み、「ハイリゲンシュタットの遺書」を書かねばならないという苦悩にもぶち当たる。ギーゼキングの演奏は、そんなベートーヴェンの姿を彷彿とさせるように、苦難を乗り越え、前に前に進もうとする意思がよく表現されている。古今のベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番の録音のベストの1枚。

 ギーゼキングがリスト:ピアノ協奏曲第1番を弾くとどうなるのか。こわごわ聴いてみたが、答えはロマンの香りたっぷりに弾いているのが聴こえ、半分びっくり、半分安心した。ベートーヴェンのときとは大違い。情熱の赴くままにピアノに集中しており、ラテン系ピアニストみたいに瞬発力たっぷりなところが聴きどころ。そして、フランク:交響的変奏曲は、このCDのハイライトともいうべき名演をギーゼキングは聴かせる。何とも深みのある表現と同時に、立体的な迫力のある演奏は、誠に説得力がある。それにしてもフランク:交響的変奏曲は何とも深い内容を内蔵した名曲には違いない。もっと取り上げられてもいい曲である。ギーゼキングの演奏は、新即物主義的演奏に加え、ロマン的な情緒も表現されているので、知らず知らずのうちに、フランクの何とも表現し難い世界へと連れて行かれる。こんな不可思議ともいえる音楽的体験は、私はこれまであまり知らない。ショパン:舟歌は、ちょっと真っ当すぎるかなという印象を受けた。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇リヒテルのグリーク/シューマン:ピアノ協奏曲

2011-01-25 13:52:36 | 協奏曲(ピアノ)

グリーク:ピアノ協奏曲

シューマン:ピアノ協奏曲

ピアノ:スヴャトスラフ・リヒテル

指揮:ロブロ・フォン・マタチッチ

管弦楽:モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団

 グリークのピアノ協奏曲は、1868年、グリークがまだ25歳の時に完成させたというから、その才能を若いときから開花させた作曲家ということになろう。ノルウェー出身の彼は、ノルウェーの民俗音楽から作曲の着想を得ていることが多いことから国民楽派の作曲家と呼ばれている。グリークについて私は直ぐに組曲「ペールギュント」を思い浮かべる。クラシック音楽を聴き始めた頃、「ペールギュント」の第1曲「朝」のメロディーが流れるともう熱中して聴いたことを思いだす。それと、あまり有名ではないが、3曲のヴァイオリンソナタが絶品だ。何か北欧の澄み切った空気がそのまま流れて来るような気がして、聴き終わった後の何と清々しいことか。「君を愛す」などの歌曲などにも愛すべき曲がある。そして、ピアノ独奏曲「抒情小曲集」が、また独特な雰囲気があって一度聴くと忘れられない魅力に溢れている。グリークは、クラシック音楽のビギナーからシニアーに至るまでを同時に満足させることができる数少ない作曲者の一人である。

 シューマンのピアノ協奏曲は、1845年に完成しているので、グリークのピアノ協奏曲が作曲される23年前ということになる。グリークは、シューマンのピアノ協奏曲にヒントを得てピアノ協奏曲を作曲したのではないか、とも言われているが、成る程何となく似ているようにも思える。ただ、シューマンのピアノ協奏曲の方が、圧倒的にロマンの香りが濃く、曖昧模糊とした雰囲気の中でピアノの音が響くという感じが強い。グリークにピアノ協奏曲は、北欧のピリッとした引き締まった空気が全体覆っているかのようであり、その意味から言うと、2曲のピアノ協奏曲は、両極端に位置するのかもしれない。シューマンは、昨年生誕200年ということがあって、コンサートでもFM放送でも、いつもより多く取り上げられた年で、シューマン・ファンの一人である私にとっては嬉しい年であった。私がシューマンを聴き始めたのは、「クライスレリアーナ」「フモレスケ」「幻想曲」などのピアノ独奏曲が中心であった。そのあとピアノ協奏曲を聴いたので、そう違和感なく聴くことができた。シューマンのピアノ曲は篭ったような独特の雰囲気を持っており、リスナーにとって好き嫌いがはっきりと分かれるのではないだろうか。

 今回のCDは、このグリークとシューマンのピアノ協奏曲をリヒテルが弾いたもの。伴奏は、ロブロ・フォン・マタチッチ(1899年―1985年)指揮のモンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団。この録音は、ピアノ演奏、伴奏ともそれぞれの曲のトップクラスに楽々と入るほどの名演と言っても間違いない。ここでのリヒテルのピアノは、いつものピアノと決闘するといった雰囲気が薄れ、特にシューマンのピアノ協奏曲ではロマンの香りが濃く、曲の持つ独特雰囲気を引き出すことに成功している。一方、グリークのピアノ協奏曲では、リヒテルのピアノが一層際立っており、劇的な雰囲気を持つこの協奏曲を十二分に演出するのに成功してと言えよう。これに加えて素晴らしいのが、マタチッチ指揮のモンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団の伴奏である。非常に奥行きがある音の構えで、ピアノ演奏を引き立てると同時に、オーケストラ演奏の部分で十二分に自己主張している。マタチッチは9回も来日しており、当時の日本のファンには懐かしい指揮者だ。

 グリークのピアノ協奏曲の第1楽章の出だしのピアノの響きが、充分に説得力を持っており、深みもある。オーケストラの音もピアにしっかりと合っている。スケールの大きい演奏は、充分に満足できるもので、よくあるこけおどし的演奏とは全く違う。第2楽章は、オーケストラ演奏から始まるが、この演奏が心にしみじみと沁みる響きとなっているのが、誠に素晴らしい。リヒテルのピアノは第1楽章にも増して集中度が高まり、北欧の澄んだ空気が伝わってくるかのようでもある。第3楽章は、リヒテルとオーケストラのコンビネーションが絶妙であり、相互にボールをやり取りでもするかのように軽快に曲がクライマックスに向かって進んで行く。一方、シューマンのピアノ協奏曲の第1楽章は、シューマン独特の夢幻的な雰囲気がうまく表現されている。第2楽章の内省的な表現も成功。リヒテルのマジックにでもかかったかのように、辺りに詩的な雰囲気が立ち込める。第3楽章は、リヒテル本来の力強く、スケールの大きな演奏で締めくくられている。(蔵 志津久) 

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◇クラシック音楽CD◇リパッティのバッハ:ピアノ協奏曲/ショパン:ピアノ協奏曲第1番 ライブ録音盤 

2010-11-09 13:29:55 | 協奏曲(ピアノ)

                   

バッハ:ピアノ協奏曲ニ短調BWV1052(ブゾーニ編)
      エドゥアルト・ヴァン・ベイヌム指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
      1947年10月2日におけるライブ録音

ショパン:ピアノ協奏曲第1番
      オットー・アッカーマン指揮 チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団
      1950年2月7日におけるライブ録音

ショパン:ノクターン変ニ長調Op.27-2
     エチュードホ短調Op.25-5/変ト長調Op.10-5
     1950年2月7日におけるライブ録音

ピアノ:ディヌ・リパッティ

CD:ウェィヴ(イエックリン・ディスコ<スイス>) JD‐541

 ディヌ・リパッティ(1917年ー1950年)は、33歳の若さでこの世を去ったルーマニア出身の天才ピアニストである。たった33歳の生涯だったため残された録音はそう多くはないが、どれもが珠玉のような演奏で、録音の質がそう芳しいものではないものの、未だに愛聴され続けている。そのピアニズムは、秋空を思い起こすような透明感に溢れ、一切の無駄もなく、その曲の本質にぐいぐいとリスナーを引き寄せる。何の作意のないピアノ演奏でありながら、聴き進めるほどに空想力が自然に巻き起こってくるような感じに襲われる。リパッティのピアノ演奏は、ショパン風にとかシューマン風にとかいった一般的な感覚を超越し、一本ぴーんとリパッティ風のピアニズムが全体を覆い尽くし、あたかもそこに新しい曲が生まれたような錯覚すら呼び起こしてしまう。

 これは、そんなリパッティの残した録音の中からライブ録音のみを集めた珍しいCDである。ショパンのピアノ協奏曲第1番は、比較的知られた録音であるが、バッハのピアノ協奏曲ニ短調BWV1052(ブゾーニ編)は、確かこのCDが初収録のものではなかったかと思われる。そして、豪華なのはエドゥアルト・ヴァン・ベイヌム指揮のアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団が伴奏を務めていること。ベイヌム(1901年―1959年)は、オランダの名指揮者で1927年にプロの指揮者としてデビューした。1938年からメンゲルベルクとともにアムステル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者に就任。戦後は、同楽団の音楽監督に就任したほか、ロンドン・フィル、ロサンゼルス・フィルなどの首席指揮者を務める。ベイヌムの指揮ぶりは、実に堂々と真正面から曲に向かい、正統的な指揮に終始する。今聴くと少々、大時代がかった演奏ともいえるが、ある意味では、そのように曲に真っ正直に演奏する指揮者が少なくなっている現在こそ、その存在価値が再評価されてしかるべきだと思う。ベイヌムル・コンセルトヘボウ管弦楽団とのコンビで多くの録音を残しているが、現在その多くが多分廃盤になっているであろう。

 そのベイヌムとコンセルトヘボウ管弦楽団のコンビとリパッティの演奏は、どんな展開になるのか。バッハのピアノ協奏曲ニ短調の第1楽章は、オーケストラの力強い伴奏で始まるが、リパッティのピアノもこれに負けないくらい力強い。リパッティは常に病弱であったことを考えると、想像をはるかに超えた力強さと言わねばなるまい。しかもリパッティ独特の透明感あるピアノの音色はそのままなので、演奏全体が非常に遠近感を持った、メリハリある演奏に仕上がっており、比較的早いスピード感が聴いていて心地よい。これはバッハのピアノ協奏曲の録音の中でも、屈指のものといってよいであろう。第2楽章は、第1楽章と打って変わって、緩やかで穏やかな楽章である。リパッティのピアノは、何か夢見るごとく弾き進む。第1楽章のような激しい楽章でも、第2楽章のような情感溢れる楽章でも、リパッティのピアノ演奏は、少しのぶれもなく、独自の世界を淡々と切り進む。第3楽章は、再び激しく揺れる楽章に戻る。リパッティのピアノは、もう一度激しさを取り戻し、生気あふれる世界をベイヌム/アムステルダム・コンセルトヘボウ管と繰り広げる。音が四方に飛び散るよう様子があたかも見えるように感じられる。名演だ。

 ショパンのピアノ協奏曲第1番は、オットー・アッカーマン指揮/チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の伴奏で収録されたもの。第1楽章のリパッティの演奏は、正に入魂の演奏といったらよいのであろうか。何かショパンがリパッティに乗り移って演奏しているような凄みのある演奏である。ピアノの音がホール全体に染み通るように鳴り響いているのが聴いて取れる。何か自分が当日の演奏会で聴いている気分にさせられる。空気がぴんと張ったその雰囲気はリパッティ独特のもの。聴き終わると一挙に開放感が感じられる。それだけリパッティの演奏は図抜けているのだ。第2楽章は、これはもう天国でピアノを聴いている気分だ。何かこの世のものとも思われないような美しさに彩られている。リパッティは、そっと、しかも少しのぶれもなく透明感のあるショパンの世界を再現する。こんな美しいショパンのピアノ協奏曲第1番は、そう滅多に聴くことはできないであろう。第3楽章は、軽快に明るくリパッティのピアノがホールいっぱい鳴り響く。オーケストラとのコンビネーションもぴったり合っている。全体の完成度が充分高く、数あるショパンのピアノ協奏曲第1番の録音の中でも屈指の1枚と言って間違いなかろう。なお、オットー・アッカーマンは、1960年になくなったルーマニア出身の名指揮者。リパッティもルーマニア出身なので気があったのかもしれない。(蔵 志津久)       

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◇クラシック音楽CD◇カーゾンとブリトンのモーツァルト:ピアノ協奏曲第20番/第27番

2010-11-02 13:20:51 | 協奏曲(ピアノ)

               

モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番/第27番

ピアノ:サー・クリフォード・カーゾン

指揮:ベンジャミン・ブリトン

管弦楽:イギリス室内管弦楽団

CD:ポリドール/ポリグラム(LONDON) POCL‐9839

 モーツァルトのピアノ協奏曲ほど、クラシック音楽のリスナーのビギナーからシニアまで広い層に愛され、そして親しまれている曲もそうないであろう。何しろ、誰が聴いても分りやすく、直ぐにでも口ずさみたくなるようなメロディーで全曲が溢れ返っているのだから。中でも今回のCDの第20番と第27番は、それらの中でも親しみ易さでは一際際立っている。また、この2曲に挟まれた第21~26番もこの2曲に劣らず優れたピアノ協奏曲であり、常に側に置いておきたい名曲揃いだ。モーツァルト以降のピアノ協奏曲は、作曲家の強烈な個性に貫かれている曲が多いが、クラシック音楽に対する時代背景もあってか、モーツァルトのピアノ協奏曲は、そうした個人的な意思の反映というより、サロン風な優美さの中に、仄かに陰影が付けられているところが、また何とも言えない親しみが湧く。

 そんな、モーツァルトのピアノ協奏曲の中で、第24番と並んで今回の第20番が短調で書かれており、少々他の曲と趣を異にしている。第20番を最初に聴いた時、その恐ろしくも暗い情念に込められた奥深さにぞっとした感じを思い出す。しかしそれは、ベートーヴェンなどのピアノ協奏曲とは違い、あくまでベースにはサロン的な趣があるため、絶対的な絶望に陥るのではなく、遠い霧の中に去って行く一時のほろ苦い思いといった感じなのだ。第20番の第1楽章をカーゾンとブリトンは、実に優雅に、正当性を少しも失わず、ゆったりとしたテンポで進む。第2楽章も第1楽章と変わらず、あたかもピアノとオーケストラが私的な会話をしているような風情を見せる。でも決してこじんまりとばかりではなく、伸び伸びと広がった音楽を再現している所は、さすがと感じ入る。第3楽章は、大きく広がっていくような演奏が聴くものに強い印象を与える。ことさら第20番は、より深刻に演奏されるのが常だが、ここでのカーゾンとブリトンは、あまり深刻ぶることなくモーツァルトの純粋な音楽だけを追い求めているようだ。

 第27番のピアノ協奏曲は、モーツァルトの死の年に書かれたもの。当時、モーツァルトは多くの借金に苦しんでいたそうであるが、何でそんなに借金をしなければならなかったのか、未だに分らないという。この死の年にモーツァルトは傑作を多く書き残している。歌劇「魔笛」、クラリネット協奏曲、「レクイエム」などの曲だ。第20番と並んでこの第27番もモーツァルト自身がピアノ演奏を行い、特に第20番の時は聴衆から絶賛を受けたというから、当時の聴衆と我々は意外に近いのかもしれない。これらの曲は、当時は現代曲であったわけで、今、初演で聴衆から絶賛を受ける現代曲がどれほどあるのか・・・と考えさせられてしまう。第27番においても、カーゾンとブリトンのコンビは、淡々と優雅にモーツァルトの世界を忠実に再現する。第27番の場合、スケールを大きく演奏するケースが多いが、ここでのカーゾンとブリトンは、そんなこと一向にお構えなく、あたかも室内楽のように緻密な演奏を繰り広げている。

 ピアノのクリフォード・カーゾン(1907年―1982年)は、英国の名ピアニストで、伯父は、「ペルシャの市場にて」で有名な作曲家ケテルビー。ベルリンでアルトゥール・シュナーベルに師事し、ベルリンでリサイタルを開き、一躍認められる。1977年には「サー」の称号を与えられた。指揮のベンジャミン・ブルテン(1913年―1976年)は、英国の代表的な作曲家。「青少年のための管弦楽入門」「シンプル・シンフォニー」などの作曲で知られる。指揮者としても優れ、バッハ「マタイ受難曲」など多くの名録音を残している。今回のCDは、そんな英国の名演奏家2人による録音だけあって、発売当初から評判を呼び、当時日本では「レコード芸術」「朝日試聴室」推薦盤になっている。今聴いてみても、その余りにも美しい演奏に心が惹かれてしまう。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇ミケランジェリ/シェルヘンのシューマン:P協/モーツァルト:P協第15番

2010-10-15 09:30:18 | 協奏曲(ピアノ)

シューマン:ピアノ協奏曲

モーツァルト:ピアノ協奏曲第15番

ピアノ:アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ

指揮:ヘルマン・シェルヘン

管弦楽:スイス・イタリアーナ管弦楽団

 このCDは、1956年、スイスのルガーノで行われた演奏会のライブ録音盤である。これだけならどうと言うこともないが、演奏家の組み合わせが凄いのである。並のライブ録音盤とは一味も二味も違うのだ。ピアノのアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ、指揮がヘルマン・シェルヘンというから、一体どんな演奏内容になるのか、皆目想像することができない。果たして演奏が成り立つのかとさえ思ってしまう。ピアノのアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(1920年―1995年)は、イタリアの名ピアニストである。ミラノ音楽院で学び、1939年にはジュネーヴ国際音楽コンクールで優勝している。演奏スタイルは、特に若い頃は極度な完全主義者であり、その繊細で、鋭敏なピアニズムは、一際光彩を放ち、注目を集めた。1988年に心臓発作で倒れた後は、以前の鋭さが陰を潜めた感があるようだ。本格的に録音を始めたのが1970年代以降というから、残された録音には、二つの特徴を持ったミケランジェリの演奏が記録されていることになる。このCDの録音は1956年で、ミケランジェリ36歳という、ピアニストとして油の乗り切った時の演奏なので貴重なもの。

 一方、指揮のヘルマン・シェルヘン(1891年―1966年)は、ドイツの著名な指揮者。最初、ヴィオラを習ってから指揮者に転向したというから珍しい(最近ではバシュメットが同じヴィオラ奏者から指揮者に転向している)。レパートリーは広く、古典派からロマン派、さらには現代音楽などで多くの指揮を執った。苦労して音楽家の道を歩んできた人のようで、特に有名オーケストラの音楽監督や首席指揮者に就任しなかったようである。ただ、その指揮ぶりは、時として既存概念を根底から崩すような所があり、並の指揮者ではなかったことは確かだ。よく、ヘルマン・シェルヘンの録音評で、“怪演”という用語が用いられることが少なくなかった。つまり、時として激情的な指揮をすることがあり、所謂“優等生”的な指揮ぶりとは対曲線にあった指揮者なのである。玄人好みの指揮者であり、一部の熱烈なファンに支持されていたという感じだ。

 そんな個性的な2人が組み、生の演奏会でどんな演奏を聴かせるのか、およそ想像も付かない。何が飛び出して来るか、これは聴いてみることしかないのである(当たり前ではあるが)。まず、シューマンのピアノ協奏曲。この曲はあらゆるピアノ協奏曲の中でも、ロマンの色濃い作品である。ところが、第1楽章の出だしから、ミケランジェリは、切っ先のとがった刀を大上段に構えたように鍵盤を叩く。しかし、決してシューマンのロマン的な香りが全て失われたわけではないので、これはこれで救われる。何かシューマンの新しい側面にスポットライトを当てたような演奏とでもいったらよいのであろうか。シェルヘンもミケランジェリに劣らずメリハリのある伴奏を聴かせ、結果として“同質的”な演奏環境の中でシューマンのピアノ協奏曲が進んでいくので、これは、これでいいのだと納得させられてしまう演奏だ。第2楽章は、良くも悪くも普通のシューマンのピアノ協奏曲に戻り、ロマンの色濃い演奏。ここでは2人の名人芸が堪能できる。第3楽章は、適度なスピード感に溢れた演奏であり、同時に厚みのある演奏に仕上がっている。全体の結論は、これは数あるシューマンのピアノ協奏曲の録音の中でも、個性さが一際目立つ名盤と言っても過言ではなかろう。

 モーツァルトのピアノ協奏曲第15番の第1楽章の演奏は、もうシューマンの演奏とは決別し、2人とも演奏を楽しんでいる様が手に取るように分る。解釈がどうのこうの言っている次元ではなく、演奏会で「一緒にモーツァルトの世界を楽しみましょう」とでも2人が言っているようだ。そのスーピード感は相当なもので、ぼんやり聴いていると車から振り落とされそうな感覚だ。第2楽章は、ゆっくりとゆっくりとモーツァルトの世界が描かれる。ここでのミケランジェリの、何かぴーんと背筋を伸ばしたような演奏には敬服させられる。最近は持って回ったようなピアノ演奏が多いが、ミケランジェリのピアノは、真っ直ぐに、そして明確に鍵盤をタッチする。第3楽章は、ピアノ演奏とオーケストラ伴奏がうまく絡み合い、モーツァルトのピアノ協奏曲の真髄を聴かせてくれる。シューマンもそうだが、モーツァルトの協奏曲も、この2人のコンビの録音は、何回も聴くとその良さが次第に滲み出てくる。最期の拍手が如何に当日の聴衆が満足したかを物語る。こんな凄い録音も、歴史の彼方に消え去るのかと思うと残念な限りだ。(蔵 志津久)

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