たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
有名な作曲家にはその真偽はともかくとして、たくさんの興味深いエピソードがあります。
そんな興味深いエピソードを中心に作曲家の生涯をたどっていきます。
今日はエドヴァルド・ハ-ゲルップ・グリーグ(第1話)です。
組曲「ペールギュント」やピアノ協奏曲が有名なグリーグ。今年は没後100年ですが、これを記念してCDや記念コンサート等が行われる事でしょう。
さて、そんな作曲家グリーグはどんな生涯を送っていたのでしょう?
≪作曲家の肖像≫
さっそく記念CDが発売決定のようです。
【Edvard Hagerup Grieg 】
【ノルウェー】
【1843~1907】
【国民楽派】
(第1話)【隣人の勧め】
1843年、グリーグは当時スウェーデン統治下のノルウェーの都市ベルゲンに生まれます。父親のアレキサンダーはノルウェーで取れる海産物をスコットランドに輸出する商社を営んみながら、イギリス領事を務めていたようです。母親は幼い頃から音楽の才能があり、ドイツやイギリスに留学してピアノを学んでいたようです。
グリーグがいつ頃からその音楽の才能を発揮していたか、詳しい記録は残されていないようですが、6歳の頃からピアノを学んでいた母親に音楽を学んでいたようです。
そんな音楽好きな母親の影響もあってか、彼の家では毎週家庭で音楽界を行っており、幼いグリーグもその演奏会で母から教わったピアノを披露していたようです。
そんなグリーグがピアノを練習するうちに、12歳になると、作曲を試みるのでした。「ドイツの主題による変奏曲」を作曲して学校に持っていき、友人にこれを聴かせていると、先生がその様子をみつけたのでした。楽譜が読めなかったその先生はグリーグの楽譜を音楽の先生に見せたのですが、戻ってきて楽譜をグリーグに返すときに彼の口から出た言葉は「こんなことをしてる暇があるなら学業に集中しなさい」というものでした。
これにはグリーグも相当へこんだようです。
しかし、この頃のグリーグは特に音楽家を目指しているという訳では無かったようですが、それにしても先生も子供が書いた楽譜なんだからもうちょっと言い方があったような気もしますが・・・、(今の先生がこんな事言ったら個性云々とか言われちゃうんでしょうね)
そんなある日、グリーグの近所に音楽家が引っ越ししてきたのでした。それは当時ノルウェーの名ヴァイオリニストと言われるオーレ・ブルでした。
オーレ・ブルが引越しの挨拶にグリーグの家に来ると、両親はピアノを弾く息子を名ヴァイオリニストに紹介するのでした。グリーグは自作の曲を何曲かブルに聴かせると、しばらくして、ブルは「息子さんには作曲の才能がある。ライプツィヒに留学させるべきだ!」と両親に話すと、これでグリーグの運命が決まるのでした。
1858年、15歳のときにグリーグは父親の友人と共にドイツへ向かうのでした。10月に現地に到着して、宿でひとり過ごしていると、早速ホームシックにかかってしまったグリーグは、急に寂しくなったらしく宿で泣き出してしまったそうです。
ライプツィヒ音楽院で音楽を学び始めるグリーグでしたが、翌年には兄がチェロを専攻して同音楽院に入学し、共に学び始めるのでした。
1862年春、19歳のグリーグはライプツィヒ音楽院を卒業し、故郷ベルゲンに戻ると、5月に演奏会を開き、自作のピアノ曲を演奏すると、いよいよ音楽家としての第一歩を踏み出していく事になるのでした。
近所に引っ越してきたヴァイオリニストの一言で、音楽家への道を歩むことになったグリーグですが、ライプツィヒではホームシックにかかったりもしましたが、卒業したその後は無事に音楽家としての道を進む事ができるんでしょうか?このつづきはまた明日。
【その他の作曲家の生涯はこちら】
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有名な作曲家にはその真偽はともかくとして、たくさんの興味深いエピソードがあります。
そんな興味深いエピソードを中心に作曲家の生涯をたどっていきます。
今日はエドヴァルド・ハ-ゲルップ・グリーグ(第1話)です。
組曲「ペールギュント」やピアノ協奏曲が有名なグリーグ。今年は没後100年ですが、これを記念してCDや記念コンサート等が行われる事でしょう。
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【Edvard Hagerup Grieg 】
【ノルウェー】
【1843~1907】
【国民楽派】
(第1話)【隣人の勧め】
1843年、グリーグは当時スウェーデン統治下のノルウェーの都市ベルゲンに生まれます。父親のアレキサンダーはノルウェーで取れる海産物をスコットランドに輸出する商社を営んみながら、イギリス領事を務めていたようです。母親は幼い頃から音楽の才能があり、ドイツやイギリスに留学してピアノを学んでいたようです。
グリーグがいつ頃からその音楽の才能を発揮していたか、詳しい記録は残されていないようですが、6歳の頃からピアノを学んでいた母親に音楽を学んでいたようです。
そんな音楽好きな母親の影響もあってか、彼の家では毎週家庭で音楽界を行っており、幼いグリーグもその演奏会で母から教わったピアノを披露していたようです。
そんなグリーグがピアノを練習するうちに、12歳になると、作曲を試みるのでした。「ドイツの主題による変奏曲」を作曲して学校に持っていき、友人にこれを聴かせていると、先生がその様子をみつけたのでした。楽譜が読めなかったその先生はグリーグの楽譜を音楽の先生に見せたのですが、戻ってきて楽譜をグリーグに返すときに彼の口から出た言葉は「こんなことをしてる暇があるなら学業に集中しなさい」というものでした。
これにはグリーグも相当へこんだようです。
しかし、この頃のグリーグは特に音楽家を目指しているという訳では無かったようですが、それにしても先生も子供が書いた楽譜なんだからもうちょっと言い方があったような気もしますが・・・、(今の先生がこんな事言ったら個性云々とか言われちゃうんでしょうね)
そんなある日、グリーグの近所に音楽家が引っ越ししてきたのでした。それは当時ノルウェーの名ヴァイオリニストと言われるオーレ・ブルでした。
オーレ・ブルが引越しの挨拶にグリーグの家に来ると、両親はピアノを弾く息子を名ヴァイオリニストに紹介するのでした。グリーグは自作の曲を何曲かブルに聴かせると、しばらくして、ブルは「息子さんには作曲の才能がある。ライプツィヒに留学させるべきだ!」と両親に話すと、これでグリーグの運命が決まるのでした。
1858年、15歳のときにグリーグは父親の友人と共にドイツへ向かうのでした。10月に現地に到着して、宿でひとり過ごしていると、早速ホームシックにかかってしまったグリーグは、急に寂しくなったらしく宿で泣き出してしまったそうです。
ライプツィヒ音楽院で音楽を学び始めるグリーグでしたが、翌年には兄がチェロを専攻して同音楽院に入学し、共に学び始めるのでした。
1862年春、19歳のグリーグはライプツィヒ音楽院を卒業し、故郷ベルゲンに戻ると、5月に演奏会を開き、自作のピアノ曲を演奏すると、いよいよ音楽家としての第一歩を踏み出していく事になるのでした。
近所に引っ越してきたヴァイオリニストの一言で、音楽家への道を歩むことになったグリーグですが、ライプツィヒではホームシックにかかったりもしましたが、卒業したその後は無事に音楽家としての道を進む事ができるんでしょうか?このつづきはまた明日。
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